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シュシュポッポ列車

作者: さば缶

 朝の光が差し込む教室で、志帆は机に頬杖をついたまま黒板を見つめていた。

教師が書き連ねる数式を追いかけているうちに、頭の中で不思議なリズムが響き出す。

「シュシュポッポ列車」。

今日の授業で初めて聞いたその数学用語は、どこか愛嬌がありながら、無限に広がる世界を予感させる響きを持っていた。

教師は黒板にそう大きく書き込み、チョークを置いてから口を開く。

「これは無限に分岐し続ける数列を列車にたとえた呼び名だ。

ある始点から出発し、ポイントごとに枝分かれするレールのように、際限なく道が分かれていくイメージを持つとわかりやすい」


 志帆はノートに走り書きした「シュシュポッポ列車」の文字を見つめながら、内心でそのイメージを膨らませる。

無限と聞くだけなら抽象的でつかみどころのない概念になりがちなのに、列車と聞くと急に親しみを覚えるのは不思議だった。

「本当に走っている列車みたいだな…」

そう思った直後に、仲の良い友人が弁当の袋を掲げて振りかざす気配を横で感じた。

昼休みのざわめきが教室を満たす中、志帆はなんとなく外の廊下に出たくなり、教室を後にした。


 人けのない渡り廊下に腰を下ろし、カバンから小さなノートを取り出す。

そこには自分なりにイメージした数列の「路線図」がスケッチされていた。

出発駅を0とし、そこから先は2の累乗のように倍倍にレールが増えていく。

さらに1/2や1/4など細かな目盛りを刻んで分岐するルートも書き加えているうちに、ノートの一面が幾何学的な樹形図で埋め尽くされていた。

「もしもこの列車が本当に走るなら…どんな駅があるんだろう」

志帆はそんな問いを胸に抱えながら、廊下の端に立ち上がって窓の外を見下ろす。


 昼休みが終わり、午後の授業に戻ると、黒板にはシュシュポッポ列車に関する補足が書かれていた。

数学教師の成瀬が軽く咳払いをしてから言う。

「無限に伸びる数列がすべて同じ形とは限らないし、分岐にもいろいろな種類がある。

たとえば有理数だけを集めて並べた無限列と、実数全体を含む無限列とでは構造が違う。

君たちが考えるシュシュポッポ列車にも、駅が無数にあるだろう。

だが、その駅の配置のしかたがどう定義されるかは、問題の立て方によって大きく変わるんだ」


 クラスメイトたちは難しそうな顔をしていたが、志帆だけはわくわくした表情を浮かべて成瀬の言葉を聞いていた。

「つまり、無限に存在する駅の位置づけによって、どんなに広大なレール網になるかが変わるわけね…」

思わず口にすると、近くの席の拓也が興味深げに振り向く。

「駅を自然数に対応させるか、有理数のパターンにするか、実数全体にするか…。

考え方次第でいろんな『無限の地図』ができそうだ」


 放課後、拓也は校舎裏にあるベンチでノートパソコンを開き、海外の数学サイトを覗いていた。

志帆が肩越しに画面をのぞくと、そこには「Infinite Train」や「Countable Station」などという言葉が並んでいる。

彼は軽く笑いながら口を開く。

「海外でも似たような比喩を使う論文があるみたい。

ただ、名前は違ってもみんな無限の不思議に魅了されるんだろうね」

志帆はうなずきながら、ふとノートを取り出して自分の線路図に視線を落とす。

その広がりを見つめているだけで、どこへでも行ける気がした。


 夕暮れが迫り、長い放課後にも終わりの時間が近づいてくる。

志帆は校内の渡り廊下を歩きながら、ふと昨日とは違う風の流れを感じた。

窓からは茜色の光が差し込み、視界にオレンジのグラデーションが広がる。

だが、いつも曲がるはずの角を過ぎても教室が見当たらない。

「あれ…こんなに長かったっけ」

足を止めると、廊下の先には木製のドアが一枚だけぽつんと見えている。

見慣れないその扉を開けてみると、そこには古めかしい駅のホームが広がっていた。


 スピーカーからかすかに響いてくるアナウンスの向こうで、蒸気機関車のような黒い車体が止まっている。

機関車の正面には金色の文字で「シュシュポッポ列車」と書かれていて、まるで先ほどノートに描いたイメージが飛び出してきたようだ。

志帆は息をのんで周囲を見渡す。

レールは何本も交差し、先の先でさらに複数に枝分かれしているように見える。

遠目にはその本数を数え切れそうにない。

「まさか、本当に乗れるなんて…」

胸の高鳴りを感じながら、志帆は列車の乗降口へ足を進めた。


 車両に乗り込むと、中はまるで数学的な世界観をそのまま写しとったような不思議な造りだった。

客室には駅名が刻まれた路線図が掲げられていて、「1/2駅」「2/3駅」「e駅」「π駅」など、見覚えのある数字や定数が並んでいる。

さらによく見ると、まだ書き込み途中のようにも見え、あらゆる分岐が未完のまま広がっているようにも感じられた。

窓の外を覗けば、複数のレールがカーブしながら交差し、渦を巻くように無限遠へ消えていく。


 「シュシュ…ポッポ」という汽笛が鳴ったかと思うと、列車はゆっくりと走り出した。

滑らかな振動が座席を揺らし、車窓の景色が少しずつ流れ始める。

最初は単調にまっすぐ伸びていたレールが、ある地点で左右に二手、さらにその先では四手に分かれる。

そうした分岐は指数関数的に増え、どのルートも果てしなく繋がっているようだった。

列車の行き先案内板には「有理数ホームを経由しています」「次は無理数ホームに停車します」と、不思議な放送が流れている。


 実際に無理数ホームで停まると、文字通り数え上げられないほどのレールが蜘蛛の巣のように交差していた。

「あれは…どこまで続いてるんだろう」

志帆は半ば圧倒されながら、ホームに降り立ってみることにする。

足元には円周率を示す無限小数がタイルに刻まれていて、その周りをいくつものポイントレールが取り囲んでいる。

空には幾何学模様の雲が浮かび、ホームの端から先の風景は、まるでフラクタルのように自己相似を繰り返していた。


 「さあ、どうしよう」

彼女は少し迷った末、次の列車が来るまでホームを探索することにした。

分岐の向こうには小さな駅舎があり、そこには「有理数駅」「実数全域切符売り場」と書かれた看板が立っている。

ホームに貼られたポスターには「ヒルベルトのホテルが乗り換え駅です」との案内まである。

「こんなところで乗り換えができるなんて、本当に無限の広がりだ…」

目を凝らして見るほどに、自分がどこにいるのかも不確かになっていくような感覚が押し寄せた。


 やがて再び、遠くから「シュシュ…ポッポ」という汽笛が聞こえてきた。

あの列車が戻ってきたのだろう。

いくつもの線路が絡み合う構内を縫うように、黒い車体がゆっくり近づいてくる。

志帆は改めて車両に乗り込み、今度はどこへ行くのか少しだけ胸を弾ませた。

乗り換え案内には「次の停車駅:不思議の限り」としか書かれていない。

その曖昧さに笑みがこぼれる。

ここではすべてが数式で表されるようでいて、同時に何も確定しないまま揺らいでいる。


 列車は再出発し、次々に分岐するポイントを軽やかに通過していく。

一定のリズムを刻む振動を感じながら窓の外を眺めると、どの路線も同じようで少しずつ異なる様相を見せる。

駅が自然数で並んでいる区間があれば、まるで分数目盛りを細かく刻むような区間もある。

さらには複雑な曲線を描いて、円周上を回るように並ぶ駅まであるようだ。

彼女はそのすべてに可能性を感じながら、次の停車駅を選ぶ自由に胸を躍らせる。


 「乗客の皆さまにご案内します。

まもなく有限の駅に到着します。

途中下車をご希望の方は、この駅が最後のチャンスかもしれません」

車内放送がそう告げた瞬間、志帆ははっと顔を上げる。

降りるか、このまま無限の先へ進むか。

ほんの少しの迷いが心をよぎるが、何かに導かれるように椅子から立ち上がり、ドアのほうへ進んだ。

足を踏み出すと同時に、夕焼けに染まるプラットホームが眼前に広がり、列車は「シュシュ…ポッポ」と汽笛を響かせながらブレーキをかける。


 降り立った駅の名前は、板に掘り込まれた文字がかすれて読みにくかった。

けれど、どこか懐かしさを感じる雰囲気に包まれている。

遠くから吹く風が、授業のあった教室の空気を思い出させた。

振り返ると、シュシュポッポ列車は点々と続くレールの向こうへ徐々に姿を消していく。

さよならを言う間もなく、その車体は霧のように溶けてしまった。


 残されたホームに佇んでいると、遠くからチャイムのような音が響く。

一瞬まばたきをしたら、そこはいつもの学校の渡り廊下に戻っていた。

手のひらには、古びた切符がしっかり握られている。

それは「シュシュポッポ列車」とかすかに印字されていて、駅名も数字らしきものも滲んでいる。

「夢じゃない…よね」

そうつぶやきながら切符を見つめる。

ふと耳を澄ませば、どこかで「シュシュ…ポッポ」という汽笛に似た音が聞こえたような気がした。


 廊下の窓からは、茜色に染まる外の景色が広がっている。

これから先、いつでもあの列車に乗って行先を選ぶことができるのかもしれない。

どこまで走るのか、どのルートを辿るのか、そしてどの駅で降りるのかは自分次第だ。

無限に広がる数列を列車にたとえたシュシュポッポ列車は、ただの比喩ではなく、彼女の世界を少しだけ変えてくれた。

志帆は胸の奥に広がる高揚感を感じながら、切符をポケットにしまい、いつもより少しだけ軽い足どりで教室へと向かう。

あらゆる可能性の交わる旅は、まだ始まったばかりだという予感を抱きながら。

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