第九話
❀空蟬と呼ばれるもの❀
こんな状況を予想していなかった螢介は、頭の整理をあきらめた。やるべきことは、[さくや亭]の呼び鈴を押すものを案内すること。どの部屋に連れていくかは、亭主がきめる。……やばいやつがきたら、炎估に頼むしかない。ネコは、戦力として考えないほうが無難だな。……猫パンチはまともに喰らえば痛てぇけど。
夕食を終えて部屋にひきあげた螢介は、紙袋のなかから臙脂色のパジャマを取りだして、さっそく着がえた。大事なものの近くに三枚の光るものが見えたが、気づかないふりをした。……いまのがウロコ? どこに封じてんだよ。秘密を共有する相手は、恋人にかぎられる。きわどい部位だ。……疲れた。もう寝よう。
「ねえねえ、おにいちゃん。 彼女いるんだ?」「いないよ」「あの子は?」「ネコだよ」「女の子じゃん」「それでも、ネコなんだよ」「ふうん? ネコじゃだめなの」「だめって、なにが」「彼女にするの」「だめにきまってる」「なんで?」「ネコは、たくさん子どもを生むんだよ。おれは高校生だぜ」「ぼくのおかあさんは、高校生のときにぼくを妊娠したって云ってたよ」「ぶふっ!!」
螢介がのんだばかりの緑茶を吐いたので、机にひろげた半紙にシミができた。「きたなーい!」と生徒に非難され、「すまん」と詫びて、何枚か丸めて捨てた。
けさも雨はふっていたが、めずらしく、まともな生徒がやってきた。玄関の段差に腰をかけて長靴を脱ぐ小学生の男の子は、あちこち泥や雨水で汚れていた。いまのところ、あやしい気配も感じない。かわいらしい女の子の姿で歩きまわるネコは、きちんとシャツとスカートを身につけている。螢介の着がえといっしょに、亭主が買ったものだ。測ったわけではないだろうが、サイズもぴったりだ。
……ネコの姿はどう見ても子どもだぞ。たぶん、八歳とか九歳くらいだろうな。どうしておれの彼女に見えるんだ? せいぜい歳の離れた妹だろ。
ほんじつの留守番の相手は、学校に行きたがらない男の子で、亭主からは習字をおしえるように言づかっている。床の間の雰囲気はなごやかで、螢介はホッとした。
「おにいちゃん、ここ、むずかしい」
「見せてみろ。ああ、ここはだな、角へきたら筆を持ちあげるんだ。半紙から筆のさきを完全には浮かせないのがコツで、それからゆっくりおさえる。あとは豪快にいってよし」
螢介も筆を持ち、生徒のとなりで文字を書く。師だった曾祖母は百歳の年に亡くなり、土地も家財も売りはらわれている。習字道具をひきとった天蔵父は、螢介に形見だといって持たせた。
……あの家に残してきちまったな。とりに行けたら、いいけれど。すぐには無理だな。
「ぼくが行ってこようか」
「え?」
「おにいちゃんの忘れもの、とってきてあげるよ」
男の子は、ニコッと笑う。思考を読まれておどろく螢介は、いやな予感がした。……まさか、この子も十翼なのか? このあいだの少年よりも小さい子だぞ。いきなり成長するとか? ……頼むから変身はやめてくれ。心臓に悪いんだよ。
「変身じゃなくて化生って云うんだよ」
……ああ、やっぱりそうなるのか。勘弁してほしい。ネコ、どこだ? おまえはさっさと避難しとけ。
むくむくと、男の子のからだがのびてゆく。手も足も螢介より長くなる。……やばいな。見た目が人間のかたちに成長するとは、かぎらねぇってか。こいつは、おれも逃げたほうがよさそうだ!
〘つづく〙