第八話
❀十翼と呼ばれるもの❀
まずはとにかく、亭主が帰宅するまえに、起きたことをまとめておこう。……それに、十翼ってなんだ? 考えてもわからないはずなのに、なぜかわかった。
「ネコも十翼ってやつか」
さくら亭には、十翼と呼ばれるものがやってくる。押入れの女の子は、十翼なのだ。おそらく、姿かたちが不安定なのは力が足りないからで、おれのウロコがあれば、本来の姿をとりもどせる。なんて、実際には論外だ。まったく、この家は、どうなっているんだ。ただの書道教室じゃないのは、よくわかった。オーケー、ふざけた亭主め。はやく帰ってこい。手かげんするから、一発殴らせろ。
「ゴフッ!!」
殴られたのは、おれだった。すまん。寝過ごした。腹が減ったんだな、ネコ……。台所の冷蔵庫は、青年に荒らされっぱなしだ。片づけなくては。そのまえに、服を着てくれ、仔猫ちゃん。だめだろ。大事なものは隠しておけって。……おれみたいにさ。
「ネコ、いま用意するから、向こうでおとなしくしててくれ」
女の子にシャツをひっぱられてうろたえる螢介は、居間で大の字になって眠りこけていた。柱時計の短針は午后六時をさしている。……ずいぶん、ぐっすり寝たな。亭主は帰ってないのか?
玄関を見にいくと、革靴があった。天候は雨だというのに、ほとんど汚れていない。
「先生」
螢介は、亭主を先生と呼ぶ。さくや亭は書道教室みたいだし、そう呼んでもおかしくはない。時と場合により、「亭主」と「先生」を使いわけることにした。墨汁の薫りがする。床の間の卓袱台で、黒衣に着がえた亭主が、墨を磨っていた。窓の外で、稲妻がひらめく。おどろいて肩をゆらす螢介だが、亭主は硯に水滴の水を零すと、静かに筆を持ち、墨をふくませた。
螢介は廊下に正座して、じっと、亭主の横顔を見つめた。巻紙を軽く押さえた亭主は、まっすぐ筆を発す。斜めに引いて、四つの点をはねた。……炎?
螢介の位置から巻紙は見えないが、手の動きで文字は読める。炎、炎、炎と書いて、次に筆を持ちあげた瞬間、巻紙が燃えた。立ちのぼる火柱は、流れ星のように四方へ散った。螢介は「なんだ、いまのは!」と声がでた。立ちあがり、あわただしく卓袱台をのぞきこむと、ひろげた巻紙には、なんの文字も書かれていなかった。
「手品かよ」
ムスッと顔をしかめる螢介は、頬のガーゼを見て笑う亭主に、ますます憤ったものの、注意ぶかく硯や墨を見つめた。変わった道具はなにもない。窓を流れる雨水は、増水した川のように激しく、外の景色はほとんど見えなかった。紙袋をさしだされた螢介は、黙ってうけとり、中身を確認した。パーカーやジーンズ、ルームウェアなどがはいっている。下着もくつ下も新品だ。当座の着がえを手配してもらったので、いちおう頭はさげておく。なんとか一発だけ殴りたかったが、そんなすきは、あたえてもらえなかった。
〘つづく〙