第七話
❀十翼と呼ばれるもの❀
そもそも、天蔵螢介は人間である。肉体に攻撃を受けると血は流れるし、痛いものは痛い。青年の頭突きは破壊力バツグンで、咽喉の奥で錆びた鉄のような味がした。頭もクラクラするし、吐き気もする。
さくや亭にあらわれた最初の異形は、黒猫を人質に螢介のウロコを要求した。
「さきにネコを離せ」
青年の手に吊りあげられたネコは、まったく動かない。怪我のていどはわからないが、細い手脚はだらんとして、胴体ものびきっている。こんなときにだが、ネコのおなかに目をこらし、雌性器官を確認できた螢介は、性別が判明してすっきりした。……黒猫はメスだった。
「本物かどうかウロコを見せろ」
という青年の主張は、ごもっともである。だが、ウロコが本物かどうかなんて、螢介にもわからない。したがわなければネコの身が危険につき、学ランの釦をはずして脱ごうとした。そのとき、それまで無反応を示していた炎估が螢介の躰をあやつった。
「あのな、脱ぐほうをまちがえてるぜ。上ではなく下だ。ウロコってのは、大事なものの近くに封じるものなんだよ」
ズボンの縫い目をたどる指が、螢介の意識とは関係なく動く。あからさまに口調と態度が変化したことで、対峙する青年は身ぶるいした。黒猫を吊りあげる手が痺れてきたので、床へ放す。それでもネコは動かない。
「きさま、さては十翼か!」
「われ、炎とぞ估しものなり」
「炎估だと!?」
青年は血の気のひいた顔をして踵をかえしたが、その足もとは、すでに燐火に包まれていた。「熱い!」と叫び、少年の姿にもどると、黒々とした髪をゆらして螢介を見すえた。
「おのれ、炎估め。ウロコを独り占めにするつもりか!」
「おまえといっしょにするな。こんなものに頼るほど、おちぶれちゃいないぜ。闘いたくなけりゃ、天蔵螢介にかまうな。見たところ、そのからだでも、あと百年は保つだろう」
炎估が廊下の窓をあけると、そこから飛びだした少年は、燃えさかるからだの炎を雨に打たれて消すと、悔しそうに螢介をにらみつけ、霧雨の烟る雑木林へ姿をくらませた。炎估は、何事もなかったように毛ずくろいする黒猫を一瞥した。
「ウロコが必要なのは、おまえのほうだったとはな。……三枚あるうちの一枚はくれてやってもいいが、ただ見せるだけってのは趣味じゃないな」
云うだけいって、炎估は宿をくぐる。とたんに、「ネコ!」と、螢介が叫ぶ。足もとにいた。
「無事か、どこも怪我してないな?」
しゃがみこんで顔を近づけると、猫パンチを喰らった。……なんで? ものすごく心配したのに! 避けきれず、バリバリッと頬の皮膚が裂けた。猫の爪はかなり鋭い。めちゃくちゃ痛い。少年は、いなくなっている。……青年だっけ。もうどっちだっていいや。洗面台で顔を洗うと、鏡のなかに赤い髪をした男があらわれ、ぎょっとなる。
「だ、だれだ」
と、無意識に口走る。おれの顔にしか見えない。ただ、髪の色が赤に変わっているだけで、すぐにもとの黒色へもどった。……おどろかせやがって。炎估かと思ったぜ。
頭がぼうっとする螢介は、簞笥の抽斗から救急箱をひっぱりだして、傷口を消毒すると、ガーゼを貼りつけた。押入れのなかで、がさごそと物音がする。……ネコめ。さすがにひどいぞ。おれは、必死に助けようとしてたのに。
「こら、ちょっと出てこい」
押入れをあけると、小さな女の子が眠っていた。しかも全裸だ。やばい。こっち向きで横たわっているから、全部ばっちり見えた。パシンッと、秒でしめる。しめたけど、心拍数の上昇がとまらない。息苦しい。……おちつけ、あの子はネコだ。うちの子こねこ!
〘つづく〙