第六話
❀雨を呪うことなかれ❀
居間の押入れに、なにかが動く気配がある。把手に腕をのばすと、ブーブーと豚が鳴いた。……玄関の呼び鈴の音だ。きのうの少年が到着したらしい。季節は梅雨でもないのに、よく雨がふる。気温が下がり、肌寒く感じた。
「さくや先生は、おいでですか?」
少年は、きのうと同じ科白を口にして、白いレインコートを脱いだ。疑問はさておき、云われたとおり少年を亭主の室へ案内する。さきに扉をはいって吊りさげ照明の紐をカチカチとひく。木製の机やシンプルな戸棚が置かれている。見たところ、意外なものはとくにない。……おれも初めてはいったけど、あの亭主の部屋にしては、思ったよりふつうだな。
壁ぎわに書棚がある。めずらしい本がならんでいるわけでもなかった。ニャアと、足もとでネコの声がした。猫ではない。ネコだ。カタカナ風の発音で呼ぶと、こいつは反応してくれる。居間の押入れから出てきたらしい。
「ネコ」
手ぶりで呼び寄せる。こんどはちゃんときた。抱きあげると、予想していたよりずっと軽くてやわらかい毛並みに、一瞬ドキッとした。……天蔵家では、動物を飼ったことがない。螢介が猫を抱っこするのも初めてだ。動物を見ると、頭を撫でてやりたくなるのはなぜだろう。昆虫類は少し不得手だが、爬虫類はものにもよる。
「お茶を淹れてくるよ」
ネコを抱いて少年に声をかけると、ふしぎな現象が起きた。少年が青年に成長している。唖然とする螢介に向かって、なかなか男ぶりのいい青年が、「どこに隠した?」と詰め寄ってきた。
「隠すってなにを……」
いきなり頬を打たれた。よろめくと、ネコが腕からすり抜け、廊下へ出ていった。……痛ってぇな。けっこうな力で叩きやがって。
「出せ」
「だから、なにを?」
「死にたいのか」
あいにく、その手の脅迫は無意味だ。実体に宿るタマシイは、亭主がつかんでいる。だれにも、螢介を消滅させることはできない。……よくわからないけど、腹がたってきた。反撃するか? 未成年を殴るのは法的にどうなんだ。いまは青年の姿だし、やってもいいか?
考えがまとまらない螢介をよそに、青年は学ランの胸ぐらあたりをつかみ、頭突きを喰らわせた。……ありえない。なんだこの状況は。頭蓋骨が砕けるような痛みと衝撃に耐えきれず、その場に倒れこみ、気絶寸前となった。……やばい、逃げろネコ。こいつは危険だ。
外は大雨だ。玄関の鍵は、螢介がかけてきた。……悪い、ネコ。でも、おまえなら出られるだろう? 頼むから逃げてくれ。押入れには隠れるな。家のなかはだめだ。ぜったい見つかる。
青年の姿に化けた男は、身動きできない螢介を放置して、あちこち物色を始めた。机や戸棚の抽斗のなかにあるものを床にぶちまけると、螢介の脇をすり抜け、押入れのある居間へ向かってゆく。
「……ネコ、……逃げろ」
青年の気配が遠ざかると、物騒な音ばかり聞こえてきた。螢介は膝に力をこめて立ちあがり、吐き気をがまんしてあとを追いかけた。台所の冷蔵庫が荒らされている。食材が床に散らばり、もったいないかぎりだ。……あのやろう、人様の家で好き放題しやがって。警察に通報してやる。第三者に話しても、信じてもらえるかどうかはうたがわしい。
「おい、おれのなかにいるやつ、聞こえるか。おまえの名前、なんて云ったっけ? ……えんこ? おまえさ、なんとかしてくれよ。おまえなら、できるンだろう?」
留守を預かる以上、同居人を守らなくては。ネコの飯茶碗は、螢介とおそろいの夫婦碗である。人なみでない構造はお互いさまで、いっそ、この身を利用できないか考えた。……人間であるかどうかは関係ない。
「見つけたぞ。ウロコをよこせ」
背後で青年の声がした。いちど吐きだしたウロコは、ふたたび亭主が封じてある。簡単には奪われないが、在処に気づかれてしまった。……こんなもの、なんの役にたつ? 亭主の室には、少年の化けの皮をはがす、まじないがほどこしてあった。……こいつの正体は、なんなんだ。
ふり向いて身がまえる螢介は、愕然となる。青年は手に、黒猫を吊りあげていた。「ネコ!」
〘つづく〙