第三十話
❀螢介、聞書に挑ム❀
どうやら、ゆっくりからだをあたためるどころではなさそうだ。床板に落ちている習字の筆(中筆)を拾った螢介は、ごくんッと、唾をのむ。……視線? だれか、いる?
腰にタオルを巻いただけの状態で、うっかり亡人に狙われたら、裏庭が隙だらけである。……まずい。油断した。
亭主が封じたウロコは、残り二枚となっている。どういうわけか、ウロコを狙ってくる連中は、人間のかたちをとるため、ひと目で見ぬくことはむずかしかった。
「あの少年なのか?」
座敷へ寝かせつけた少年は、風估に見てもらっている。石づきなめこの主人は十翼につき、空蟬や亡人があらわれても、闘うことができる。いっぽう、螢介は、ただの高校生で、幾度も死にかけている。敵意に身をさらされても、そうそう怖気づくことはないが、さすがに、風呂場で襲われたくはない。……文鎮を、さくや亭に忘れてこなきゃ、よかったぜ!
あわてて風呂場をでると、脱いだ服がなくなっていた。びしょぬれにつき、風估が洗濯機へ放りこんでいった。……おい、せめて着がえを用意してから持っていけよ! くしゃみがでた。
「なめこさん、なめこさん!」
急ぎ足で風估を探す螢介は、座敷の少年が人間ではない可能性をうたがい、まずは舗のほうへ顔をだした。すると、見知った顔と鉢合わせた。
「先生」
さくやの亭主だった。筆をにぎっていたせいか、先生と口から出た。実際、さくや亭は書道教室の看板をかかげている。腰にタオルを巻いただけの螢介は、恥を捨てて詰め寄った。
「これを見てくれ。ただの筆なのか、それともちがうのか、調べてほしい」
敬語を失念したが、亭主は涼しい顔をして、じっと、螢介の胸もとを見つめた。……うん? どこを見てる? 筆を調べてほしいのに……。
「見てるよ。きみの気息に合わせているんだ」
「おれの息? なんで?」
「もう少しこっちへおいで」
亭主はいつもの調子で、螢介を悩ませる。だが、云われたとおり近づくと、ふわっと、あたたかい空気に包まれた。……炎估? 姿は見えないが、十翼の炎估がそばにいる気がした。亭主は、商品棚から長方形の料紙を一枚抜きとった。
「その筆を使って、きみにだけ聞こえる声を、ここへ書きとめてご覧」
「声? べつに、なにも聞こえないけど……」
「そうかな。しっかり耳をすませて。話し手のことば一字一句を記すんだ」
書体は自由だと云われても困る。たしかに、だれかの視線を感じるが、正体がわからない以上、姿を想像することもできない。料紙をうけとった螢介は、座敷のほうへ意識を集中した。……なにも聞こえねぇけど、あやしいのは、やっぱりあの少年だよな。……口がきけないとか?
料紙と筆を手に耳をすませたが、なにも聞こえてこない。眉を寄せる螢介の背中に、亭主が手のひらを添えた。おもむろに腰のタオルを取りはらい、裏庭のウロコへ指でふれてくる。きわどい部位をじかに撫でなられる螢介は、ドクドクと高鳴る鼓動がうるさくなり、耳をすますどころではなくなった。
「おい、どこを触っているんだよ」
「静かに。こうすれば、聞きとれるだろう? ほら、書いてみて」
全裸で習字の指導とは笑えない。螢介は料紙と筆を亭主に押しつけると、タオルを奪いかえして腰へ巻きつけた。
「あのな、着るものがさきだ。こんな姿じゃ、なにもできねぇよ」
ぽかんとする亭主を放っておき、螢介は店内を物色して浴衣を借りうけたが、子ども用らしく、腕も足も半分ほどしか隠れなかった。……下着もほしいけど、裸身よりマシだな。
「きみは、案外、頑固だね」
「なんとでも。それより、さっきのつづきだけど、その筆、呪具ってやつなのか?」
ふたたび、亭主の手から料紙と筆をうけとり、螢介は座敷へ視線を向けた。たしかに。かすれ声のような音が聞こえる。書きとるには、墨液が必要だ。
「筆を発してご覧」
亭主は螢介の手もとをのぞきこみ、「さあ、まずは一画目だ」と、書き手をうながす。見れば、中筆の穂は墨をふくんで重くなっていた。螢介も手もとへ意識をもどし、耳にひびく声のとおり、ゆっくり文字を書きはじめた。
〘つづく〙




