第二十七話
❀陸を見つめていた魚❀
螢介は、ぐっすり眠っていた。からだが休息モードで、眠いというよりは、無気力状態に近い。まぶたをあけようとしても、眠っていたほうが楽だという意識がはたらき、きょうは寝過ごすことにした。どうせ、学校には行けねぇし……
『けいすけ、いつまでねているのだ! ちこくするぞ!』
どすんっと、からだにネコが落ちてきた。人型につき、そこそこ重量がある。高校生とはいえ、遅刻なんかするか! と、云い返そうとして、即座にあきらめた。まぶたをあけたら負けだ。変なふうに対抗する螢介は、意地でも起きようとしなかったが、掛け布団をうばわれては、さすがに眠ってはいられない。パチッと目を覚ますと、枕を盾にして抗議した。
「こら、ネコ。おれの室に勝手にはいるな。あと、遅刻ってなんだよ」
『ちこくは、ちこくだ。けいすけのへやは、けいすけのものだけじゃないのだ!』
「なんだそりゃ……」
朝からネコの声は高く、頭が痛くなる。淡い紅藤色のワンピースを身につけていたが、細い手足や胸もとのふくらみが気になる螢介は、なるべくネコから視線をはぐらかして会話した。
『はやく、したくをしろ。がっこうにいくのだ』
「学校に? 行きたくても、さすがにまずいだろ。もう何十日も休んでるンだぜ。クラスメートと顔をあわせたら、欠席理由とか、あれこれ聞かれるだろうし……」
さくや亭や石づきなめこ商會のある雑木林からでることは、螢介にはむずかしい状況だ。うっかり人間と接触した場合、なにが起こるかわからない。だが、しばらくぶりに外の空気を吸うのも悪くない。雨は、タマシイの渇きをうるおすかのように、ふりつづけていた。……そういえば、あの日、川に落ちた日、亭主の傘がなんでウチにあったんだ? ユッくんって、だれだよ。
びしょぬれで帰宅した息子に、螢介の母は叱言をならべた。……まったく、ケイちゃんったら、この雨のなかを、どうして学校に傘を置き忘れたりするの? さっき、ユッくんが持ってきてくれたのよ。高校生にもなって、じぶんの持ちものくらい、失くさないでちょうだいね。玄関に、見おぼえのある黒い傘が立て掛けてあった──。
「あの傘は、神出鬼没だな」
ネコに急かされて起床した螢介は、学ランを着て台所へ向かうと、めずらしく亭主がさきに朝食を作っていた。トースターで焼いた食パンと、目玉焼き、コーンスープに固形チーズなど、洋風の皿がならぶ。白米や味噌汁といった和食を好む螢介だが、ありがたくいただいた。亭主とネコと三人で食卓を囲うと、こうして、ずいぶんまえからいっしょに過ごしてきたような錯覚にとらわれた。……時間より、密度のほうが、感覚的には優先されるのか。
亭主の人となりも、ネコの正体も、詳しいことはなにも知らない。だが、無条件で信頼する螢介は、ネコにウロコをとられたことも、もうゆるしていた。……そもそも、ウロコをおれのからだに封じたのは亭主だし、だれのせいかって、そりゃ、黒幕がいちばん恨めしいだろ。
「ごちそうさまでした」
皿を片づける螢介は、珈琲のおかわりを亭主へさしだし、「おれ、学校に行ってくるけど」と、切りだした。
「かまわないよ。気をつけて行っておいで。かばんと教科書は、押入れのダンボール箱にあるよ」
亭主は、しれっと許可する。螢介のほうで「気をつけるって、たとえばなにに?」と聞き返した。
「きみが注意をはらうことにたいして、だよ」
「そんなのは、答えになってないぞ」
だてにしか見えない眼鏡をかける亭主は、くすッと小さく笑った。のみかけのカップを螢介に押しつけ、台所を去ってゆく。
「なんだよ。いつも、肝心なことはおしえてくれねぇのな……」
ふしぎな存在や現象を認めたものの、多くを語ろうとしない亭主の態度は、納得がいかない。くらやみさくやは、なんらかの管理者的な役割をはたしているように感じたが、世間一般からみて、説明はむずかしいのだろう。
〘つづく〙




