第十話
❀空蟬と呼ばれるもの❀
「おにいちゃん、追いかけっこしたいの? いいよ。ぼくが鬼になってあげる。それじゃあ、位置について、よーい、どん!」
異様に手脚の長いよくわからない姿に変わった男の子だが、声の高さは幼いままで、おどけた調子が緊迫感をまぎらわす。いったん納戸に隠れた螢介は、炎估に説明を求めた。
あれは空蟬だ。
……十翼じゃないのか?
十翼はおまえだ。
いま、そういう冗談はやめろ
(あとでじっくり聞く)。
……で、どうすればいい?
どうもしない。
なに?
空蟬にタマシイはない
ほうっておけば消滅する。
……害はないってこと?
ウロコを狙ってきたンじゃないの?
「おにいちゃん、み~つけた~」
男の子が納戸をあけると、螢介の口を炎估があやつる。ふぅっと、そよ風のような息を吐くと、もくもくと白い泡になってしまった男の子は、「わあっ」と叫び(どこに口があるのかはわからない形態だけど)、後方へよろめいた。そのすきに納戸を飛びだす螢介は、ネコを呼んだ。黒猫の姿で見つかり、ひょいっと抱っこする。亭主は出かけるさい、屋敷の外は危険だと云った。……どっちかといえば、家のなかのほうが、いろいろあぶねぇわ!
「おにいちゃん、どこ~」
空蟬の男の子と追いかけっこをする螢介は、六畳間の寝室へ逃げこんだ。敷布団のなかへネコを押しこむと、障子戸のそばで身を低め、男の子の気配に注意する。……あいつ、ほうっておけばほんとうに消えるのか? どのくらいで消えるんだ? はやく消えてくれ。
『わすれものは、いいのか? せっかく、あのうつせみがとってきてあげるって、いったのに。あれはあれで、りようできるぞ。けいすけのうろこをちらつかせれば、うつせみは、なんでもする』
……曾祖母の形見なら、おれがなんとかするさ。あの習字道具は、だれにも手がだせないよう、ちょっとした工夫がほどこされているからな。たとえ家が火事になっても、ぜったいに燃えつきない。……というか、ネコ、おまえ、しゃべれたのか。
掛け布団のすきまから黒い鼻をだし、女の子の声で話すネコは、ニャアと鳴いた。小さくても牙がある。噛まれたら痛そうだ。皮膚に喰いこみ、血がでる。螢介も空蟬と呼ぶものに近いからだにとどまっていたが、それはタマシイを囚われているからで、亭主に返してもらえば、これまでどおりに生きられると勘ちがいしていた。
……あのな、ネコ。ウロコをちらつかせるって、簡単に云うなよ。それがどこにあるか、知ってる?
『けいすけの、うらがわのうらにわ』
「裏庭?」と、つい声にでた。しまったとばかり、あわてて口を右手で蔽ったが、空蟬に見つかった。障子戸をすり抜けて、螢介のからだに白い泡が巻きついてくる。
「おにいちゃん、つかまえたよ~」
「くそっ、ネコ、逃げろ!」
『ニャア!!』
勢いよく飛びかかるネコは、女の子の姿になっていた。白い泡に足蹴りをくりだしたが、スカッと貫通し、しゃがんでいた螢介のこめかみに直撃した。……だから、なんでだよ!? スカートの下のピンクのパンティーと無数の星が見えた螢介は、意識が宇宙へ旅だった。
そこからの記憶はあいまいで、気がついたときは玄関に倒れていた。硝子戸があき、黒いレインコート姿の亭主が帰宅する。
「……お、おかえりなさい」
螢介は、なぜか手足に力がはいらないので、うつ伏せのまま顔をあげた。ニャアというネコの声が聞こえるが、姿を見ることはできない。からだが怠くて、動かせないのだ。レインコートのポケットからなにかをとりだす亭主は、それを螢介の唇に押しあて、のみこませた。なにかの塊が咽喉をとおって胃の腑へ落ちてゆくと、全身がラクになった。……口のなかへはいってきた亭主の指に咬みついてやればよかったと、起きあがってから後悔した螢介は、視線を泳がせた。
「あの空蟬は、どうなった?」
〘つづく〙