94命捧げて
熱風が吹き荒れる。
砕けた樹木の破片が弾丸のように剛速球で飛び、大地を穿ち、地上へと続く禁忌監獄の穴の壁に穴をあける。
吹き荒れる爆風が、マリアンヌを、ジークヴァルドを、ロクサナを、白の繭を、セイントリリーを、そのすべてを吹き飛ばす。
咲き誇る花々が吹き荒れる風に花弁を攫われる。
淡い白色の輝きを秘めた花弁が舞い上がる。散りゆくそれは、まるで満点の星のように輝く。
「う、ぁ……」
黒煙に包まれた世界で、彼女は苦悶の声を上げる。大地を握りこむように、地面に爪を立てて顔を上げる。
爆発をすぐそばで受けた彼女は、その足を枝の破片に貫かれ、めくれ上がった大地におびただしい血を流していた。
ふっと、体から力を抜いた彼女が目を閉じる。風が吹く。わずかな魔力が彼女の体から吹き出す。
死が、訪れて――そうして彼女は、目を覚ます。
「……ぁ、」
かすれた声を上げながら、途方に暮れた子どものように、赤子のように周囲を見回す。砂埃にせき込みながら顔を上げようとして、足を貫く樹木の破片はいまだに彼女を地面に縫い付けており、背筋を激痛が伝う。
「ぁ、うぁ……ッ!?」
涙がにじむ。こらえきれない悲鳴が口を出る。
どうしてこんな目にあっているのか、何が起きているのか、何もわからないながらに、彼女は煙の先をにらむ。
そこで、影が揺れる。何かが、起き上がる。
枝が振るわれる。煙が晴れた先、体の半分を失った、木のようでいて人のようでもあるナニカが、じっと彼女を見下ろす。
焦げた真っ黒な髪と、同じくらい真っ黒な双眸。白目まで黒く染まったその目は、ただじっと倒れる彼女を見下ろしていた。
怪物が、彼女に手を伸ばす。
恐怖に縮こまるように、ぎゅっと目を閉じる。
「……ぐぅぅぅぅぅううう!?」
勢いよく引き抜かれた足が彼女に激痛を伝える。感じたことのない強烈な痛みに、彼女はショックを起こして。
闇の中から戻るような浮遊感の後、彼女は震える目で怪物を見上げる。その隻腕に握られた木片から、己の血が大地へと垂れる。
起き上がった彼女は、しりもちをついたまま逃げるように背後へと後退りする。
「……ゴ、めん、ネ。アマーリえ、ヲ、助ケラレナク、テ」
怪物が何かを告げる。その意味を、彼女は理解できない。
困ったように笑った怪物が膝を折る。倒れるその体が、彼女にもたれかかる。
押し殺すような悲鳴を漏らし、怪物の体をはねのけようとして。
伸ばした腕は、けれどそれを実行することはできなかった。
『いつか、また――』
声が聞こえた気がした。誰かの、声。
誰のものかもわからない。けれどなぜだか、鼻腔をくすぐる甘い香りが、その記憶が大切なものだと伝えてくる。
自然と、口が動く。
「……約束」
「…………ぁア、ヤクソク――確かニ、ハタセタ、カナ?」
ノイズが走ったような声を響かせながら、怪物は目の前にあった一輪の花を手に取る。たった一枚の花弁が残った花。その花が咲き誇る場所での約束を思い出した。
いつかまた、この景色を見に来ようと。
あの日の誓いをかろうじて果たせたと噛みしめ、そっと目を閉じる。
怪物が、動きを止める。わずかに聞こえていた呼吸の音は、もう遠い。
舞い上がっていた花弁が、一枚、また一枚と大地に降りる。煙が消えた先、荒れた花畑が視界に映る。
地面に伏せる女を守るように両手を広げる男が、倒れる。
「う、ぁッ」
頭が激しく痛んで、彼女は額を抑える。
何も、覚えていない。何もわからない。ただ怪物にしか見えない。
それ、なのに。
――どうして、こんなにも悲しいのだろう?
涙がとめどなくあふれて頬を伝う。
心臓が引き裂かれるように痛んだ。
胸をかきむしりたいほどの激情が体の中で渦巻いていた。
心が悲鳴を上げていた。彼を喪ってしまったと絶望していた。
物言わぬ骸の頭蓋に手を添えて、吠えるように、猛り狂うように、慟哭を響かせる。
冷たい石の壁に反響する悲鳴は、どこまでも木霊して広がっていく。
その声に反応するように、大気が渦巻く。魔力がうねる。
もう、終わりにしてもいいだろうか――心に浮かんだ思いを実行に移すべく、彼女は怪物が握っていた木片を手に取り、それを両手で握りこむ。
己の血が、光を反射して怪しく輝く。
ぐっと目を閉じて、その切っ先を己の首に突きつける。
これでやっと解放される――その、はずだった。
風が吹く。
「止めておきなさい」
声が聞こえる。
恐る恐る目を開いた先、見覚えのない美女が彼女をじっと見下ろしていた。
そこには、先ほどまで存在しなかった影が二つ。
銀髪を掻き上げながら反対の手で木片を止めている野太い声の美女。それから、青白い炎を閉じ込めた鳥かごを手にした小さな少女。
その少女に、彼女は目を吸い寄せられた。
胸に広がる感情の正体はわからず、けれどその腕から力が抜け、木片が掌から零れ落ちる。
「……ずいぶんと摩耗したものだな」
「何度死んだのかしらね。それでもまだ生きろと言うあたしは残酷なのかしら?」
「さぁ、な。ただまあ、想定通りだ」
彼女には理解できないことを話す二人が、地獄の底の中心へと歩いていく。爆風によって大地がはげたそこに立った少女が、鉄の鳥かごを天へと突きつける。
ひとりでに開いた鳥かごから青白い炎が飛び出す。
それは魔具であり魔法具であり魔法であり呪術。
最高の魔法使い――魔王が作り上げた、人類の延命のための一手。
全ては、今この時のために。
「燃えろ」
鈴の音のような静かな声が響く。
その命令によって、青白い炎が周囲に満ちる莫大な魔力を燃料に燃え上がる。
何人もの魔女から、呪術師から、魔女でもない一般市民から、そしてロクサナから強制的に吸い出された魔力。
セイントリリーの花弁に蓄えられていた膨大な魔力を吸い込んだ炎が天井を飲み込むほどに巨大化する。
青から白へと。色の変わったその炎はどこか神聖さすら秘めた輝きを帯びていた。
鳥かごを捨てた少女が炎へと手を伸ばして。
けれど少しだけ思いとどまって、背後――呆然と事の推移を見守っていた茶髪の女性へと視線を向ける。
険しいその顔が、わずかに緩む。声の印象が、一瞬だけがらりと変わる。
「悪いな――だいすきだよ、おかーさん!」
わずかな残り香を漂わせることもなく、少女は炎へと手を伸ばして。
その身が極光に包まれる。
弾けるように、まばゆい光が視界を埋め尽くす。
古代ワルプルギス王国より以前に作られた禁忌監獄。まっすぐ地下へと穿たれた穴を走った純白の光は一直線に空へと昇る。
降りしきる雨を切り裂きどこまでも高く伸びるかと思われた光は、ある一点で壁に当たったように上昇をやめ、その見えない壁に伝わって世界へと広がっていく。
その日、人々は人類世界を覆う天蓋を目にした。眩い白の光に包まれた結界。その壁を前に誰もが動くことができなかった。
かつて魔王が生み出し、劣化しついにはひび割れたそれが修復されていく。
張りなおされた結界は、今しばらく人類社会を瘴気から守るだろう。
光の中、唇をかみしめる銀髪の女――シャクヤクはただじっとその行く末を見守っていた。
純白の光が消える。
小さな少女が、倒れるように地面に膝をつき、そして。
「ッ!?」
息を飲んだシャクヤクが空を見上げる。どこまでも続く穴の先、漆黒の奔流が迫っていた。
『ガアアアアアアアアアアアアアアアアッ』
爆風によって荒れ果てた禁忌監獄の底に、咆哮が響く。同時に、すべてを薙ぎ払う滅びの光線が世界を塗りつぶした。
それが、人類社会に入り込んだ最悪の怪物によるものだと瞬時に理解できた者はいなかった。
「痛ッ!?…………え?」
激しく地面に尻を打ち付けて、マリアンヌは痛みに顔をゆがませて。ふと、むせかえるほどの煙を吸い込んでせき込んだ。
慌てて周囲を見回す。目前に迫った漆黒の奔流はなかった。荒れ果てた花畑も、再会した師匠も、無事に生きていたけれどレイラのようでレイラではない少女も、ロクサナも、目の前でこと切れていた元婚約者も、誰もいなかった。
破壊されつくした王都の中で、マリアンヌは座り込んでいた。
じわじわと衣服ににじむ雨が冷たい。
びりびりと大気を震わせるような咆哮に顔を上げた先、遥か上空に漆黒の物体が見えた。
淡く輝く白の天蓋を背景に翼をはためかせる、漆黒のドラゴンの姿があった。
息を飲み、怒りに震えながらその名を叫ぶ。
「ブラックドラゴンッ!?」
慌てて立ち上がろうとするも、体は動かない。逃げることもかなわず、けれど最後まで目をそらすものかと、見つめ続ける。
しばらく滞空していたブラックドラゴンは、やがて翼で大気をつかんでどこか遠くへと飛び去って行った。
体から力を抜き、安堵の息を漏らして。
マリアンヌはようやく、自分の状況を顧みる。
禁忌の監獄の底にいたこと。ロクサナの死を何度も見せられ、顔をつかまれて目をそらすことも許されなかったこと。空から落ちてきた何かが爆発して、吹き飛ばされたこと。
漆黒の奔流――おそらくはブラックドラゴンのブレスに飲まれそうになっていたこと。
そうして気づけば、地上にいたこと。
改めて周囲を見回すも、どこにも見覚えのある人影はない。
純白の天蓋に弾かれているのか、黒い雨は降ってこない。
周囲に人影を探す。一方向から吹き飛ばされたように倒壊するがれきの海をたどった先、広がる荒野の先にぽっかりと開く穴を見た。
禁忌監獄へと続く穴。ブラックドラゴンのブレスのせいか、穴を広げたそこは、ただぽかりと口を開いてその存在を主張する。
「……ふざけ、ないでよ」
震える声で思いを紡ぐ。怒りを、絶望を、苦悩を。
どうして自分がここにいるのか。生きているのか。決まっている。あの瞬間、シャクヤクがマリアンヌを自分を逃がしたからだ。
「ぁ、あ……」
頬を、涙が伝う。激しい無力感と怒りを抱きながら、マリアンヌは泣き続ける。
誰もが、自分を守るために消えていった。
アベルも、ロクサナも、シャクヤクも。
「ああああああああああああああッ」
体を抱きしめながら、そこに大切な人たちがいないことをかみしめながら、マリアンヌはがれきの海で泣き続ける。




