93死の先
雨が降り続けていた。
どす黒い色をしていた雨は、けれど今ではその色を薄れさえ、わずかに濁った色をしていた。
打ち付ける雨が、木目のような見た目をした肌を伝う。ふらつくキルハが、異形と化した巨腕で体を支える。
「ぐ、アァッ」
意識に、脳に直接響くような痛みがキルハを襲っていた。
まるで幻肢痛のように実体のない痛み。それが、瘴気による魂の浸食がもたらすものだということをキルハは知らない。ただ、己の死が近いことだけを彼は直感していた。
体を引きずるように歩き出す。打ち付ける雨に煙る視界の先、大地に転がる巨大な球体へと手を伸ばす。
灼天。アヴァンギャルドを滅ぼし、王国西部に広がる魔物の領域を燃やし、たった一撃で実に王都の四割の一切合切を消し飛ばした最悪の魔具。それを歴史から消し去るべく、キルハは巨大なこぶしを振りかぶり――その動きが、止まる。
視線はある一点、一つ目のような灼天の瞳部分へと向けられている。ひび割れたその先に、キルハは黄金を見た。
それから、意識が逸らせなかった。目を離せなかった。
ただ叩き潰すことはできた。けれどキルハは、握りしめていたこぶしを開き、灼天へと巨腕を伸ばす。
その外装を砕き、はぎ取って。
息を飲む。稲穂のような、くすんでなお美しい金髪がふわりと揺れる。無数に伸びるパイプを接続されていた女性が、眠るように灼天の中に座っていた。
ひび割れた唇の間から小さく息が洩れる。わななくそこから、小さな苦悶の声が響く。
揺れるまつ毛が、静かに開かれる。
瞳が、世界を、変わり果てたキルハを映す。
深い海のような色合いの瞳は、感情を宿すことはない。焦点を結ばない瞳は、けれど確かに世界を映している。
病的な、あるいは雪のように真っ白な肌。枯れ木のように細い掌が、何かを求めるように震えながらさし伸ばされる。キルハへと、救いを求めるように。
その体には、もう意思はない。意識はない。丈夫な魂を有していた魔女であったがゆえに魔力の制御中枢として灼天にとらわれたい彼女は、その自我を焼失させながらも完全に壊れることなくまだそこにいた。
荒れ果て、くすみ、かさつき、その美しさは陰りを見せている。それでもわかる特徴的な容姿のすべてが、キルハに一つの予感をもたらす。
「な、ぁ……アマーリエ……?」
確信とともにその名を呼ぶ。
アマーリエ。ロクサナの弟の恋人。幼馴染。友人。レイラの母。行方が分からず、騎士に捕らえられて禁忌監獄へと連れていかれたという女性。
変わり果ててなおロクサナが語っていたすべての特徴を有する彼女が、キルハに掌を差し出す。
唇が、小さく揺れる。滴る黒い雨粒が頬を伝う。
何度も、何度も繰り返した言葉を。自我を失ってなお求めるたった一つのことを、彼女はささやく。
こ、ろ、し、て――
ギリ、と。
強く、強く奥歯をかみしめながら、キルハは固く握ったこぶしを振り上げる。キルハの意識にこたえるように、腕がその形を変える。
らせんを描く樹木の腕が鋭利な槍へとその姿を変える。ランスのようになったその腕が、まっすぐアマーリエの胸元へと吸い込まれる。
肉を穿ち、骨を砕き、心の臓に穴をあける。
背中を貫通した槍は、灼天の中枢にその穂先を届かせて。花開くように、槍の先が枝分かれして無数の針が灼天の中心部から伸びて粉々に砕く。
口から血を流すアマーリエが揺れる瞳をキルハに向ける。
ふわりと、体から力を抜いて、微笑むように目を閉じた彼女は、静かに意識を引き取って。
彼女の体に、灼天の中に残っていた魔力があふれ出す。膨大なそれは、ロクサナが蘇生する際の魔力量にも匹敵する。
荒れ狂う魔力の奔流はそのまま世界へと消えていく――はずだった。
ゴホ、と血を吐き出しながら、腕を伸ばす女性の姿があった。
全身を無数の枝で串刺しにされ、地に足つけることも倒れることもかなわない彼女は、霞む視界でその魔力の激流に向かって腕を伸ばしていた。
風に乗って消えていくはずだった魔力が、女へ――チャロへと集まる。
チャロの存在感が、体の中の魔力が膨れ上がる。
ボコリ――その体の一部が膨張する。強大なプレッシャーが周囲へと広がる。
「ぁ……」
誰かが小さな声を上げる。かすれそうな声を漏らしたのは、地に倒れる一人の男。
意識を取り戻したアベルが、揺れる瞳でチャロを見る。
キルハが、アベルの存在を思い出す。チャロの存在感が強まる。
爆発――考え、思考よりも早くキルハが走り出す。目にも止まらぬ速度で、チャロの体をつかむ。
アベルを守らないといけない――
キルハは、チャロをつかんだまま前へと踏み込む。
確実に爆発を防げそうな大きな穴へとその身を躍らせた。
底なしの闇。
遥か地下へと続く禁忌監獄へと二人は落下していく。
膨張を続けるチャロは、もう触れているだけで発火するほどの熱を秘めていた。
すでに死んでいて、それでもチャロは魔法を止めない。己の体に残る生命活動のサイクルに乗せて、魔法によって己そのものである水を熱へと変えていく。
これで終わりだと、気が緩んで。
その瞬間、キルハの精神を狂気が急速に浸食し始める。
瘴気がすべてを飲み込んでいく。意識を、体を、心を、記憶を。
闇の先、暗闇だと思っていた場所に光が見えた。それが、近づいてくる。
禁忌監獄の最下層――そこに、まばゆい光を見た。
ぁぁぁぁぁぁあああああああ――
かすれた、声を聴いた。
目の奥がチカチカする網膜を焼くようなまばゆい光は、もうなかった。
私という存在の滅びが近づいていると、そういう直感があった。絞り出せる魔力が、無限に思われた魔力が、尽きようとしていた。
あと何回、私は蘇生するのだろうか。一回?二回?
もう、どうでもよかった、すべて終わってしまえばいいと思った。早くこの苦悩から解放してほしかった。
わけもわからずこんな痛みを感じ続けるのは、もう耐えられない。
誰かが、何かを叫んでいた。血まみれで倒れる女性が、泣きながらこの体に手を伸ばしていた。
鎧を身に着けた男が、ただじっとこの体を見ていた。
どういう状況にあるのか、どうしてこんな目にあっているのか、もうわからない。自分が誰なのかも、わからない。
記憶がない。ただ、記憶がすべて尽きたときに本当の死が訪れるということだけを、理解していた。
意識が、もうろうとしていく。終わりが、近いのだろうか。
私のそれとは異なる、微弱ななにかの気配を感じた。か細く、けれど燃えるように熱い魔力が、体を包み込む。
その魔力は、私の体を包む皮鎧からあふれているような気がした。
あきらめるなと、最後であがいて見せろと、かすれた声が聞こえた気がした。
その声も、すぐに消えて聞こえなくなった。
視界がかすれる。意識が遠くなる。
目に映る世界、この体を中心に吹き荒れる風に揺れる白い花弁の中、誰かが笑いかけているような気がした。
黒い髪が、風になびく――
彼、は――
ふと、空を見上げる。闇の底から見る先にわずかにでも空が見えるだろうとかと思って。
その視界に、けれど空は映らなかった。
何かが、近づいていた。何か――大きな塊が、落下してきていた。
ボコリと、それが膨らむ。まるで今にも破裂しそうだと、そう思った。
そして、その背後に。樹木のような肌をした怪物が、黒い髪を靡かせて続く。
彼、は――どうしたと、言うのだろう。アレが、人だとでもいうのだろうか?
アレはなんだ。この命を刈り取りに来た怪物か?死に神のようなものか?それとも目の錯覚か幻覚?
ソレが、悲しげに笑う。その体から、無数の枝が伸びる。
ドクン――なぜだか、強く、鼓動が高鳴る。
樹木の怪物が、大きく目を見開く。闇に染まった黒い眼の中心、わずかな黄金の輝きが見えた気がした。
白い、球体。灼天の色違いかと思ったそれには、一人の女性が拘束されていた。茶色の髪、女性にしては長い手足、かすれた瞳が、僕を映す。
ころして――わななく口が紡ぐ言葉を勝手に目が読み取る。あるいは、つい先ほど見た彼女の姿が、重なったのかもしれない。
わずかな魔力を垂れ流すロクサナが、そこにいた。
抱きしめたい。この胸に包み込みたい。
けれどこの腕は、彼女に触れることが許されていない。触れても体温の一つもわからない。そして触れればきっと、体にある魔物の因子がロクサナを殺すだろう。
ロクサナを守りたい。守るんだ。守らないといけない。
体が動く。枝を伸ばす。
色褪せた世界の中、魔女の慣れの果てを包み込む。
頭がひどく痛む。呪詛のような感情が頭蓋の内で響き続ける。
己を包み込む枝の先、泣き笑うような表情をした彼女と目が合った。
「ありがとう。大好きだったよ」
言葉は、届いただろうか――
――己の体を、水を熱へと変換したチャロの最後の足掻きが、地獄の底で弾けた。




