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白百合の涙  作者: 雨足怜
魔女編

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90/96

90瘴気

 長い白髭を枯れ木のような指で梳きながら、元アヴァンギャルドの魔女、死人となってなおこの世に残るネルンストは、その深い知性に満ちた目を細めて空を見上げていた。

 彼は異界魔法の使い手。その名の通り、自分だけの世界を作り、その世界に出入りするための門を生み出す能力を持っていた。死後にその能力はさらに強力なものとなり、複数の門を異なる場所に生み出すことで疑似的な長距離瞬間移動を可能にした。

 ネルンストは、魔法の造詣が深い。何より、その魔法の性質上、空間認識能力が非常に高かった。

 そんな彼は、人類世界を包む「壁」を認識していた。透明な、一切の光も鳥も阻まない不思議な結界。明らかに魔法あるいは呪術によるものと思われるそれの存在理由を、これまでネルンストは知らなかった。

 だが今、その結界にヒビが入ったことで、彼は結界の真の役割を理解した。

 ヒビからにじむ、ヘドロのように濃密なおぞましい気配を感じる。死んでいるにもかかわらず、肌に鳥肌が立つような感覚がして、首の後ろがひどくひりついた。

 かつてない危険がそこにあった。


「のう、トロージャン。どうやら、儂が見にくくも現世にしがみついていたその意味が見つかったらしい」


 貴族街で暴虐の限りを尽くしていたトロージャンが顔を上げる。返り血で赤く染めたドレスに降り始めた漆黒の雨が降れる。その手につかまれた生首は、死してなお死ぬことができない恐怖にガチガチと歯を鳴らしていた。

 死霊魔法を使えるトロージャンを前に、死は救いにはなりえない。死んでも生き返り、トロージャンの気が済むまでおもちゃになる。

 時代が生んだ最悪の怪物。それがトロージャンという復讐者だった。

 血でぬれた青髪をかき上げ、ゆらゆらと頭を左右に振る。


「主であるわたしを置いていこうっていうのぉ?」

「ふむ、今日まで儂を生かして……天へと召されないようにしてくれたことには礼を言おう。だが、主として命令を受けるのは今日限りだ」

「どうしてかしらぁ。それってぇ、空のアレと関係があるのかしらぁ?」

「さすがに気づくか」

「ええ。だってあの気配、わたしの死霊(おもちゃ)にそっくりだものぉ」


 死霊に似た気配。それだけでろくなものではないとわかる。

 かつて、ネルンストは魔物とは何かを考えていた。人類を襲わずにはいられない怪物たち。およそ生命らしい繁殖行為も己の命を守ろうとする防衛本能もない狂った存在(いのち)。それと戦い続けて、ネルンストは一つの結論を下した。

 すなわち、魔物とは人に恨みを持つ怪物だと。

 ではどうして人に恨みを持つのか、人を殺そうと、食らおうとするのか。動物とて、人に攻撃されれば怒り狂って襲い掛かる。ただ、魔物たちの怒りや憎しみ、殺意は、動物のそれよりも、むしろ人間の感情に似ている気がした。

 いうなれば、狂った人間。そう考えたとき、ネルンストは指が答えに引っかかるのを感じた。


 彼の出した結論は、魔物とは「人間の悪意」に関係する怪物。人間の悪意を模倣する存在なのかもしれないし、人間の悪意が宿った存在なのかもしれない。わかるのは、魔物と人との戦いは、人間同士の戦いに似ているというということだった。

 愚かな人間の滅びが近いことを、ネルンストは感じていた。


「……おそらくは、あれは瘴気というやつだろう。かつて、古代ワルプルギス王国の論文にその名を見たことがある。曰く、人の悪性を煮詰めたような力。きっとあれが、人類に終わりをもたらす滅亡の風なのであろう」

「いいわねぇ、滅亡。人間なんて、滅びてしまえばいいのよぉ」

「そうか?儂はそうは思わん。少なくともこの世界にはまだ弟子が生きているのでな。儂はあらがわせてもらう。止めてくれるなよ?」


 ネルンストはトロージャンの下僕だ。死霊魔法によって縛られているネルンストは、トロージャンがその気になれば一切の自立行動を禁じられる。

 けれど、トロージャンはそれをしない。それをできない。

 雨が降る。黒い雨が、瘴気を、人間の悪意を煮詰めたような悪性を宿した雨が降る。

 それは、無数の絶望を怨嗟のこもった血に全身を濡らしたトロージャンにとって、間違いなく猛毒だった。


「ふふふふふ、それじゃあ最後はぁ、好きにするといいわぁ」


 空を見上げながら哄笑を挙げるトロージャンの目が、闇に染まっていく。血が、服が、肌が、体が、黒く染まっていく。

 それは、タイムリミット。トロージャンが狂うまで、そして、ネルンストがネルンストでなくなるまでのタイムリミット。

 杖を突いたネルンストは、目を閉じて魔法の発動に集中する。

 雨が当たった部分から、怨嗟の声が空に浸透していく。その声を意志でねじ伏せて、魔法を発動する。

 己のすべてを込めた、人生最後にして最高の魔法を、この手に――


「開けッ、異界の(アナザーゲート)!」


 振り上げた杖の先、天高くにすべてを飲み込むような闇の入り口が開く。それはヒビから世界へと流れ込む瘴気を、王都に満ちる膨大な悪意や負の感情を、瘴気を帯びた大気や雨を、選択的に飲み込んでく。

 魔法による間接的なものとはいえ、瘴気に干渉したネルンストの精神が狂い始める。怒りが、憤怒が、絶望が、殺意が、ネルンストの心を焦がす。


「まだ、まだだ!もっと、ありったけ異界に引きずり込めッ」


 意識を広げる。周囲に満ちるすべての瘴気を、すべてのおぞましい気配を、異界へと送り込む。

 片方の視力が消える。その目が闇に染まっていることに気づかず、意識することもなく、ネルンストは魔法の発動を続ける。

 異界の門は瘴気を吸い込んだ。人を怪物に落としていた瘴気を、キルハの意識を完全に飲み込もうとしていた瘴気の一部を、吸い上げた。

 そうして、ネルンストの両目は完全な闇に飲まれて。


「アハハハハハハハハハハハハ―――ァ」


 ネルンスト経由で完全に瘴気に飲まれたトロージャンは、大きく両手を広げてその時を待って。

 虚空から現れた黒づくめの男の握る得物に頭部を貫かれて哄笑を止めた。


「……じゃあな、楽しかったぞ」


 トロージャンの死霊の一体であり、アヴァンギャルドの構成員であった彼もまた、己の首を自ら跳ね、その命を終えた。







 とある民家の、窓辺にて、少女が大きく目を見開く。


「……何が起きた?」


 赤茶の瞳をすがめ、遠く、空をにらむ。その目に映るのは空を埋め尽くす灰色の雲――その先にある魔法。


 渦巻く負の感情が呼び水になって、ただでさえ限界だった結界に亀裂が走った。漏れ出した瘴気に飲まれる人が出始め、世界は終わりに向かって加速していく――そのはずだった。

 最初、亀裂が大きくなり、瘴気がさらに勢いよく人界に流れ込み始めたのだと思った。けれど違った。流れ込んだ瘴気は、人を飲み込むことなくどこかに消えた。

 たった一度。それだけで、結界内部、そして結界外縁の瘴気の濃度が急速に低下した。

 それがネルンストという、かつてのワルプルギス王国の滅びの理由の究明に王手をかけた、最高の魔法使いの一人による献身であったことを知るものは誰もいない。

 ただ、誰かが何かをした。そして世界は、少しばかり延命された。

 それが、すべてだった。

 間に合う可能性が、少しだけ増した。

 まばゆい金髪を小さく揺らし、少女は空の果てを見つめ続ける。もう少し、もう少しで全てがそろう――

 ゆらりと、蜃気楼のごとく突如として少女の隣に姿を現した美女――美しい男が、虚空を揺蕩う。いつになく真剣なその目が、少女に告げる。すべてのパーツが集まったと。

「……あの娘には詫びねばならんな」

「彼女が無事に生き残ったらお礼を言えばいいわ。世界を救うために、彼女には礎になってもらうしかないもの」

 苦しそうに顔をゆがめた少女――魔王は、床に置いていた小さな鳥かごを手に取る。黒々とした鉄製のそれの中では、青白い炎が揺らめいていた。

 シャクヤクへともう一方手を伸ばす。

 互いの手を重ねた二人は、次の瞬間には姿を消していた。


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