89狂信
魔具はワルプルギスにとっての癌だ――
チャロは、シャクヤクからそう聞いた。
魔具は、魔法と同じような効果を発揮する力だ。
魔具があれば、人類は魔物に立ち向かえる。強力な魔具の存在は、これまで力がなく、ただ息をひそめているしかなかった無力な者たちに力を与える。
それは、魔女にとっては歓迎することのように思われた。
だから昔、チャロはシャクヤクに尋ねたのだ。どうして魔具を広めないのかと。魔具が広まれば、魔女なんて人々は気にしなくなるだろうにと。
チャロはワルプルギスに所属する魔女と呪術師の間に生まれた、生まれながらの魔女だ。魔女として覚醒した経験もなく、ただの平凡な人間として生きた記憶もない。
生まれながらの魔女であるチャロにとって、魔女というのは人間と何一つ変わらない、平凡な存在だった。
ただ、シャクヤクは苦悶の顔で首を横に振った。
ワルプルギスのお膝元、北の街はチャロに優しかった。そこは王国から逃げた者たちが作った街だった。
魔女や呪術師だけではなく、王国の政争に疲れた者、犯罪以外の理由で王国の一般社会で生き延びることができない者のたまり場だった。
そこの人間は、チャロが魔女であろうとなかろうと気にしなかった。
だからチャロは、多くの人が魔女に向ける感情を、恐怖を、知らずに育った。
シャクヤクは、諭すようにチャロに告げた。
人間は、本質的に自分とは異なる存在に恐怖するものだと。特に、人たちの中に混じっているかもしれない「異物」には、ひときわ激しく反応するのだと。
確かに、魔具が広まれば魔法の価値は下がる。人類にとって魔女はそれほどの脅威ではなくなる。
だから、魔女が嫌われなくなる?――そんなわけがない。
人類に根付いた魔女への迫害意識は大きい。魔女は嫌われている。その状況は覆らない。
魔具という力を手にした人間は魔物を退けて平穏を手に入れたとしてどうするか――その矛先を、魔具を魔女に向けるのだとシャクヤクは語った。
そんなことはないと、チャロは考えた。
シャクヤクは目をつむり、黙って首を横に振る。
『いいかい、王国は魔女を根絶やしにしようとするのよ。そうしなければいけないという強迫観念に駆られていて、それは実のところ間違ってはいないわ。ただ、対症療法にしかならない。そんなもののために、ワルプルギスの魔女を、同法を殺されることはできないの。もう少し、もう少しであたしたちの“王”が期間するのよ。そうすれば状況はひっくり返る。魔女が抱える問題は解決に向かうわ。だから少なくともそれまでは、魔具は社会に広がっていはいけないの』
そう、告げていた。
チャロは覚えている。
チャロは理解している。
王は凱旋した。悠久の時を超えて、魔王は戻ってきた。
同胞は死に、北の街は滅び、それでも希望がある。
あと少し。あと少しで状況がひっくり返る。そのはずだった。
その余裕を、この男が縮めた。キルハという人間が魔具を作ってしまったことで、シャクヤクと魔王は時間に追われることになった。
同胞たちが、実験のために消費されることとなった。
キルハが魔具を作ったという話を聞いたとき、チャロは彼を憎悪した。許せないと思った。
けれどもう、王国に魔具の詳細が知れ渡っていた。知識の流出を止められなかった。間に合わなかったと思った。
それでも、一縷の望みをかけて王都に向かった。そこで、チャロはキルハの姿を見つけ出した。
殺さないといけない。排除しないといけない。
だから、魔法を発動した。己が魔女だとばれることも厭わず、キルハを殺すために魔法を使う。
すべてはシャクヤク様のため、魔女のため。そして、人類の未来のため。
「――死になさい」
腕を伸ばす。その腕に絡みつくように存在する水の砲身。それはすべてが水からなる銃。
水蒸気への状態変化による体積の膨張がもたらす爆発的な初速と、魔法の水だからこそできる精密な弾丸の制御。
鉄のように高質化した水の弾丸は、数ミリの誤差もなくキルハの頭蓋を穿った。
痛みは、感じなかった。ただ、諦めだけが心に満ちていた。
体は動かず、回避なんてできやしなくて。
向けられる水の砲身から放たれる弾丸は、やけにスローモーションに映った。
迫る死を前に、僕はただ静かに目をつむった。
瞼の裏、走馬灯が駆け巡る。
お世辞にも、まっとうな人生を送れたとはいいがたい。ガルダークの裏切りがあり、人生をかけた魔具は人殺しの道具に成り下がり、アヴァンギャルドで殺し殺される殺伐とした世界で生き、辛くもアヴァンギャルドから逃げ出しても、幸福な日々は長くは続かなかった。
まるで呪われている。けれど、こうして思い返すときに絶望だけではないというのは救いだった。
この生には、確かに大切なものがあった。流行り病で早くに亡くなってしまった両親の愛は疑いようのないものだった。魔具の開発自体には成功した。背中を預けられる仲間が見つかった。ロクサナという、大切な人ができた。
――ああ、ロクサナ。僕にはロクサナがいる。死ねども死ねない、呪いのような魔法を手にした少女。記憶を失いながらも、必死に戦い、生にしがみついてきた泥臭くも美しい女性。
彼女に、僕は魅せられた。アヴァンギャルドという殺伐とした世界で、彼女の存在が救いだった。
どうして今の今まで、僕は彼女のことを忘れていたのだろう。復讐に囚われて、己の身を引き換えにでもガルダークを殺してやるなんて、そんな馬鹿なことを考えたのだろう。
生きて帰るのが一番だと、そう思っていたはずだった。生きてさえいれば、またロクサナと幸福な日々を生きることができる。あるいはその日常には欠けがあって、その喪失を互いに慰めながら生きることになったかもしれない。
それでもよかった。それで十分だった。
なのに、僕はすべてを捨てた。投げ出した。
本当に大切な者を忘れ去り、どうでもいい過去に囚われて失敗した。そうしなければならなかった。
これは、僕の罪だ。魔具を王国に広めてしまった、人殺しの道具にしてしまった僕の罪だ。
人々が魔具を手にして魔物を撃退する栄光の日々はもう来ない。その輝かしい未来は失われた。
けれど、それでも。
残していくロクサナの幸せのために、僕は最後まであがかないといけない。せめてこの手で守れるものを、守りたい。
震える手を動かす。もう感覚などほとんどないその手は、けれど自分とよく似たモノの存在を僕に伝えてくる。
魔物の因子にのまれたアベルの体の末端。地面を掘り返し、禁忌監獄をふさぐように存在する根が、そこにある。
樹化呪術薬を再び使うつもりはなかった。動物実験において、二度目の使用は確実な魔物化につながったから。多分、僕はもうほとんど百パーセント魔物だ。だからこそ、できることがある。まだ人間に戻れるアベルのために、やるべきことがある。
触れたアベルの中にある魔物の因子を吸収する。
樹化呪術薬の材料にされた魔物怨嗟が、憎悪が、人間を殺すという本能が、僕に流れ込む。
魔物因子の先にあるアベルへと、魔力の感覚を戻す。その肉体を成形し、人の形にして、切り離す。
これで、アベルは大丈夫。
頬を叩く雨の冷たさを感じた気がした。そして、何かが、僕の額に触れて、頭を穿った。
意識が遠くなる。
ごめんロクサナ。先に行くよ。
いつか、再び会える日が来ることを待ってるね――視界が、黒に染まって。
おぞましいほどの殺意と怨嗟の慟哭に飲まれながら、キルハの意識は闇に沈んだ。
――ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああッ
ドクン――心臓が、強く鼓動を刻んだ。
声が、聞こえた。
悲鳴。彼女の悲鳴。大切な、あのヒトの悲鳴。
助けないと、守らないと、守っテみせると、心ニチカッタハズダッタ。
アア、行ク。今スグイク。ダカラ、マッテイテ――
漆黒の雨が降り続ける蕭条たる世界。物言わぬキルハだったものをじっと見降ろしていたチャロは、水の砲身を手に、人間に戻ったアベルのほうへと歩き出す。
チャロの使命に、アベルの殺害は含まれていない。
ただ、アベルは魔具の存在を知っている。アベルはキルハの仲間だ。そして、キルハは最期の瞬間、アベルをもとに戻した。アベルの体の一部を吸い込むようにして取り込み、アベルを人間に戻した。
己が生き延びるためだと思われたそれは、けれどキルハの生存にはつながらなかった。ただ、キルハがそうしたことに、チャロは何か大きな意味があるかもしれないと考えていた。
おそらく、チャロはこの世界で最もキルハのことを評価している者の一人だ。すべてが手探りの状況から自力で魔具を生み出して見せたその頭脳を、その成果を、チャロは正確に評価している。
だからこそ、キルハが生き延びさせたアベルの存在は危険だと、チャロはそう考えた。
王都を包む黒煙と振り続ける雨のせいで視界が悪い。確実に殺すために、チャロは倒れたままピクリとも動かないアベルの目の前まで接近して、その頭蓋に向かって腕を伸ばす。
目を細める。意識は、腕にまとわりつく水の砲身に。
弾丸の作成、硬化。砲身内部で水を水蒸気に変換、急激な体積の上昇による圧力によって弾丸を射出しようとした、その時。
背後で、石を削るような音がした。
驚愕と、わずかばかりの確信をもって振り返る。
雨と煙にけぶる街、灼天によって吹き飛んだ平地に、付した影が一つ。その体から、枝のような腕が空へと延びる。
バキバキと音を立てながら膨れ上がる木の腕が、地面に爪を立てて体を起こす。頭部が再生を始める。
「オオオオオオオオ――」
樹木の怪人。体の半分が見にくく膨れ上がり、先ほどとは違って、肌はどす黒い木目調をしている。その目は、白目部分がゆっくりと闇に染まっていく。膨れ上がった半身、そちら側の黄金の瞳が漆黒に飲まれる。
頭部が完全に再生する。半身の異形化が進む。肋骨と思しき鋭利な枝が体から突き抜ける。腕に無数の棘が生える。角のようなものが突き出し、口には凶悪な牙が生え始める。
半身の変化は、少しずつ全身へと進んでいく。
今のうちに殺さないといけない――焦燥にかられながら、チャロは水の弾丸をキルハに飛ばそうとして。
ゴウ、と強烈な上昇気流がチャロを襲う。大気が、煙が、雨が、空に向かって落ちていく。
「……な、あ!?」
キルハのことも忘れて、チャロは頭上を見上げて驚きに目を見張る。
そこには、まるで空に穴が開いたような巨大な闇の入り口が存在していた。
すべてを飲み込もうとするように吸引を続けていた空の穴は、けれど突然消失した。
何が起こっているのか、何一つ状況を理解できず、けれどチャロはキルハへと視線を向けて。
先ほどの穴は、キルハに何らかの形で影響を及ぼしたことを理解した。
キルハの異形化は、半身で止まっていた。半人半魔となったキルハは、わずかに知性がうかがえる黄金の瞳を憤怒に焦がす。
「ガ、アアアアアアアアアッ」
咆哮とともに、キルハは四肢で大地を踏みしめて弾丸のように飛び出した。




