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白百合の涙  作者: 雨足怜
魔女編

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88/96

88死の世界を踏みしめて

 灼天の炎は、光と熱の奔流となって王都を駆け抜けた。

 爆心地付近の家屋は吹き飛び、石畳はめくれ、大地がガラスのように溶けた。吹き飛ぶ民家の成れの果ては燃え上がり、広がる炎は王都を火災の渦に叩き込む。

 炎に飲まれた人間はなすすべもなくその命を失う。

 黒煙が世界を染める。煌々と輝く炎が、無慈悲にすべてを焼き尽くしていく。

 巻き起こる火災旋風が、高く、高く伸びていく。

 灼天。そう呼ぶにふさわしい地獄が王都を焼き尽くす。

 誰もが、あてもなく逃げ惑うばかりだった。灼天の炎に飲まれて死んだ者はまだ不幸中の幸いだった。

 地獄の釜は、まだ開いたばかりだった。


 炎にさらされる人々は逃げ惑う。絶望に心折れる者がいて、恐怖に立ち尽くす者がいて、焦燥のままに他者を押し飛ばして走る者がいて。

 倒れた者が、自分を転倒させた者を憎悪する。逃げ惑う人々に次々と蹴られ、吹き飛ばされ、痛みに激しい悲鳴を上げる。それらは、けれど究極の自己愛を宿した人間には届かない。

 誰もが、ただ生きるために走っていた。そこでは、弱き者から、不運な者から、倒れ、その声を誰にも届けることなく消えていく。

 世界を恨む者が現れた。憤怒が、絶望が、憎悪が、嫌悪が、多くの悪意が、渦巻くように王都に広がっていく。


 王都上空を、分厚い雲が覆いつくす。

 ぽつり――雨が降る。次第に強まっていく雨脚は、黒く濁った涙を流す。

 巻き上げられた灰を吸い込んだその雨粒は、かつてロクサナたちが経験したブラックドラゴンによる呪いの雨に酷似していた。

 雨粒がうがった部分が、ひりひりと痛んだ。ただそれだけで済む者もいた。

 けれど、それだけでは済まない者がいた。

 世界を守る天蓋――結界の亀裂から滲み出した瘴気を吸い取り、王都で渦巻く住民の悪意を飲み込んだ雨は、人々に、その魂に絶望を刻み込む。

 足を止める者が現れる。狂ったように首をがりがりとかきむしる彼はグルンと白目をむいて。

 瞳から白目まですべてを黒に染め上げた彼は、壊れ、怪物として傍にいる人間に牙をむいた。


 瘴気。それは、かつて人類を絶望の淵に追い込んだもの。負の感情によってゆがんだ魔力。

 かつて、それは精霊と呼ばれる大地の申し子によって浄化されていた。微量な瘴気は大した毒になることはなく、世界は平和だった。

 ――人類という、瘴気に愛された生命が生れ落ちるまでは。

 人は、感情の起伏が激しい生命だった。喜怒哀楽を有し、美しさにすら涙をする精神性を精霊は愛した。世界の守護者であったドラゴンはいつくしんだ。

 誰もが、知らなかった。人の増加がもたらすものを。

 人間は増えた。増えるほどに、人間は正の感情と同じはそれ以上に負の感情をまき散らした。それらは急速に魔力をゆがめていき、世界に瘴気があふれ出した。

 許容量を超える瘴気の浄化によって、精霊は瘴気に染まってその在り方をゆがめて魔物が生まれた。

 瘴気に飲まれたドラゴンもまたその在り方をゆがめた。神の使い魔と呼ばれていたドラゴンたちもまた、無秩序に災厄を振りまく魔物に落ちた。

 一部の個体は、瘴気に精神を汚染される最後の瞬間、人類への復讐を誓った。そうして、人類のみを殺すために爪をふるうブラックドラゴンが生まれた。

 精霊に愛された「愛し子」たちがいた。精霊と意思疎通し、世界をあるべき形へと導いていく役目を負った者たち。

 彼らは、それぞれ岐路に立たされた。


 ある愛し子のドラゴンは、己の大切な者を守るために瘴気にあらがう道を行った。

 ある愛し子の平凡な人間は、瘴気に抵抗する道を行った。

 ある愛し子の異常な人間――魔王と呼ばれていた存在は、瘴気から民を守る道を行った。


 誰もが、滅びぬために道を模索した。

 その果てに、人類は今こうして、わずかながらの世界で生存を続けている。

 だが、魔王が発動した瘴気を阻む結界は、経年劣化とそこを突いたブラックドラゴンによる襲撃で崩壊寸前に至っている。

 亀裂から漏れ出した濃密な瘴気は、魔王によって魂を守られた人間にとっても毒だった。

 とりわけ、自らの体に焼き尽くすほどの負の感情を宿した者は、勢いよく瘴気に浸食された。魂を守るための壁を砕かれ、瘴気に魂が飲まれて人間ではない怪物(モノ)になった。

 それは、無理やり魔力を引き出されて精神を壊した者たちにも似ていた。


 だから、王都の街のあちこちで怪物たちが誕生するのとほぼ同時刻。

 結界の罅から入り込んでいた瘴気に刺激された生きる屍たちは、ゆっくりと動き出した。

 ガンガンと、その手が砕けることも厭わずに鉄格子をこぶしで叩いた。人間を超える異常な膂力で格子を引きちぎる者もいた。

 禁忌監獄で生きる屍となっていた者たちは、瘴気に汚染された魂が告げる「敵」を探して歩きだす。

 殺せ。壊せ。滅ぼせ。

 瘴気の怪物たちが、闇の中で動き出す。







「ク、ハハ、ハハハハハハハッ!傑作だ、ああ傑作だッ」


 王都。ガラス状になった地面を踏みしめて、一人の男が笑う。

 喜悦に狂気を混ぜて、ガルダークは笑う。

 その片腕は焼け焦げ、全身に激しい火傷があったが、そんなことは気にならないと笑い続ける。

 視界は悪い。ただ、周囲はひどく開けていた。

 黒煙漂う灰色の世界。黒い雨が降る王都の一角、灼天の熱波によってすべてが吹き飛び、燃やされたそこで、ガルダークは灼天の巨体に手をついて体を支えながら絶景を目の前にして笑う。


 ガルダークは、魔具の情報を王国に伝えて、開発者として順風満帆な人生を送ることができると思っていた。その道は、けれど己が呪術師に覚醒したことで立たれた。

 王国は手のひら返しして、ガルダークをとらえた。ただ知識を絞り出そうとした。

 ガルダークはあらがった。自分の有用性を示し続けた。凶悪な魔具の開発に成功した。呪術師である自分だからこそ可能な、己を魔具に見立てること。それによって、彼は変えの利かない存在になった。

 いつか必ず復讐してやると、ガルダークはそう決意していた。そして、それは今日叶った。殺したはずの師匠(キルハ)を、今度こそ殺すのに合わせて。

 傑作だったとガルダークは笑う。絶望と憤怒に涙を流すキルハ。あれ以上に最高な顔は見たことがなかった。

 ああ、できることならもう少し、あのいけ好かない顔を絶望一色に染めてみたかった。

 そんなことを思いながら灼天の状態を確認する。

 中央コアにダメージ在り、外殻の状態も深刻で、目玉のような部分にある魔力制御用ユニットも無事とはいいがたい。

 灼天を検査していたガルダークの耳に、がれきが崩れる音が聞こえる。

 わずかな、けれど腹に響くような衝撃。

 音のした方に視線を向ける。

 そこには、監獄に蓋をするように枝葉を広げた大木。炭化して黒一緒に染まったその木は、けれど殻を脱ぎ捨てるように炭になった部分を砕き、下から二回りほど小さな木が生れ落ちる。

 それは、ヒト型に見えた。目を見張ったガルダークは、素早くそれの正体に思い至ってニヤリと唇を弧にゆがめる。


「そうか、お前、キルハの関係者だな?」


 キルハと同じ、人間でありながら魔物の肉体を手にした怪物。瓜二つの植物の見た目をした人間が同じ場所に二人いる時点で、答えなどわかりきったものだった。

 そういえばキルハはこれを守るような振る舞いをしていた気がすると、いまさらながらに思い出す。

 そして、嗤う。キルハへの復讐は終わった。

 けれど彼はご丁寧にもサンドバッグを残してくれたと笑う。


「この高ぶりに付き合ってもらうぞッ」


 灼天を稼働させる。わずかな異音を響かせつつも、灼天は無事な触手の一つを持ち上げて樹木の怪物へと照準を定める。

 アベルは、ゆっくりとガルダークに近づいてくる。その状態はぎりぎりだった。魔物の因子は多少弱まったものの、その狂気はまだアベルの意識を押さえつけている。それでも禁忌監獄の蓋になって見せるアベルの「愛」をガルダークは知らないし理解できない。

 ただよくわからないことをしている敵がなぶられ、燃え尽きる瞬間を思って号令を告げる。


「さぁ、灼天!あれを燃やし尽くせッ」


 光線が放たれる。一瞬にして永遠のようにも思われるその瞬間、ガルダークの意識はただ一転、樹木の怪物の東部、光線が吹き飛ばすであろう部分へと向けられていた。

 だから気づけない。わずかな風の揺らぎに、小さな足音に。――仮にガルダークが極限の集中下にあってもその接近に気づけたとは限らないが。


 アベルの頭部が消し飛び、そして。


「ははははははは―――ぁ?」


 ずぶり、と。

 ガルダークの胸元に、半ばから折れた剣が突き刺さった。

 血に濡れた剣は、最後の役目を果たしたとばかりに砕け散って。

 ゆっくりと、前に倒れる。

 何が起こったのか、何もわからないまま、ガルダークは近づく地面を認識していた。

 衝撃が体を襲う。激しい痛みがやってきて、苦悶の声が漏れる。

 攻撃の正体を探る――必要はなかった。わかっていた。ただ、理解できなかった、あるいは理解したくなかっただけ。

 見るなと、魂が告げていた。それでも視線はひとりでに背後へと向いた。


 そこに、体の大部分が燃え、薬の効果もなくなり、けれどなお二本の足で立っている怪物が――魔具の発明者キルハがいた。

 冷酷な光を宿した目が、ガルダークを見下ろしていた。

 振り上げられた足が、ガルダークの視界に影を落とす。

 なんで生きてんだ――そんな言葉の代わりに、悪態が口を出る。


「ははっ……クソが」


 さすが師匠(キルハ)、生き汚い――そんなことを思って。

 ぐしゃりと首を踏み折られ、人類が生んだ怪物・ガルダークは死んだ。


「……ッ」


 復讐を終えたことで緊張の糸が切れたキルハは、全身の痛みに膝をつく。漏れそうになる絶叫を、奥歯を噛みしめてこらえる。


 灼天発動の瞬間、キルハは一つの魔具を起動した。自分への認識を曖昧にする、ブラックドラゴンとの戦いのために用意した魔具。

 震える足で一歩ずつガルダークへと歩いて見せたのは、もう走ることもままならないと思わせるため。

 実際に、キルハの体は限界が近かった。けれど限界近くにあってもパフォーマンスを維持できるだけの精神性は、アヴァンギャルドでの生活によって培われていた。

 灼天によってガルダークの視線がキルハから途切れた瞬間、キルハは魔具によってガルダークの認識から逃れ、全力で背後へと逃げた。

 巨大ながれきの後ろに回り込んで、その巨体を傘にすることで熱波に抵抗した。

 それでも、本来はそのまま死んでしまうはずだった。

 空から恵みの雨が降らなければ。

 水を獲得したことによって、魔物の因子が限界を少し超えてキルハを回復させた。

 そうして、認識を阻害する魔具を身に着けたうえで奇襲を仕掛けた。


 終わった。そう思った。すべてが終わった――いや、終わっていない。

 任せてと、そう告げたことを思い出した。告げた相手のことを思い出した。

 帰らないといけない――心が叫ぶ。

 帰りたい場所があった。日常があった。希望があった。

 まばゆい笑顔が、瞼の裏にあった。

 うごめきながら頭部を回復させる樹木の怪物の姿が映る。魔物の因子に飲まれた彼を、救う。今ならそれができる気がした。


「今行くよ。アベル、マリアンヌ、――ロクサナ」


 ゆっくりと、立ち上がる。黒煙が吹きすさぶ、どこからか飛んできた火の粉が世界を舞う。黒々とした雨を浴びながら、隻腕に剣の柄を握って、歩いていく。

 あと少し。もう少し――アベルから伸びる滑りそうな木の根に足をつけ、上る。

 アベル本体へと、手を伸ばして。


 パシュ、と乾いた音が聞こえた気がした。視界を、鮮血が舞う。目の前にある木の幹に、赤い飛沫が飛び散る。

 ――胸元から、まっすぐ前へと、血しぶきが飛んでいる。


「……は?」


 ゆっくりと、胸元を見る。そこには、先ほどの再現をしたように、胸元に穴が開いていた。

 間欠泉のように血があふれる。

 膝が曲がる。腰を抜かすように、背後へと倒れこむ。

 視界に、黒々とした空が映る。

 降りしきる雨粒が目元を濡らす。

 死ぬ――恐怖が、こみ上げる。

 雨の音だけが耳朶に響く。あれだけ聞こえていた悲鳴は、雨音にかき消されて届かない。

 少しずつガラス状になった大地を踏みしめる足音が近づいてくる。

 水を踏む音が、すぐ近くで止まる。

 視界に、その女性の姿が映って。

 キルハは、驚きと困惑とともに、その名をか細く紡ぐ。


「……チャロ?」


 そこには、ワルプルギスの魔女の一人、マリアンヌの友人だというチャロの姿があった。

 その目には、憎しみも怒りも悲しみも喜びも、何もない。ただ人形のように無機質な顔で、じっとキルハを見下ろしていた。

 その右腕には、水の筒のようなものがあった。

 水魔法を使う魔女、チャロ。己が生み出した水を操る彼女は、もともと戦闘能力には秀でていない。そんな彼女が敬愛するワルプルギスのリーダー・シャクヤクの役に立つべく極めたのは、水の弾丸による一撃。

 水によって生み出された砲身と、水の弾丸、そして水の一部を水蒸気に帰ることで爆発的な初速を得る。

 チャロの魔力によって、ただの水にも鉄のように固くもなる水の弾丸。それが螺旋を描きつつキルハの胸をうがったのだ。


 どうして、とキルハが視線で問う。その目はすでに半ばほど光を失っている。息は浅く。呼吸をするたびにどくどくと胸元の穴から血が噴き出す。

 赤い血が、雨水に交じって広がっていく。


「シャクヤク様が、あなたの死をお望みだからです――死になさい」


 そう言いながら構えられた砲身から、死を与える水の弾丸が飛んだ。


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