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白百合の涙  作者: 雨足怜
魔女編

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85/96

85地獄の蓋

 樹海にのまれたような様相を呈した禁忌監獄の出口付近。無数の枝が乱立し、地面は蔦に飲まれて緑に染まっている。トレントのように暴れる枝や蔦は周囲に無秩序な破壊をまき散らす。

 建物が粉砕され、対応に奔走する騎士たちが吹き飛ばされる。植物の暴威は止まらない。

 それらの植物が、すべて一個体から生み出されているものだとは、最初から状況を見ていた者にしか想像もできないだろう。

 そして、禁忌監獄から現れた植物の魔物らしき存在。それがアベルという人間であることは、キルハしか知らないことだった。

 だが、この国を守る精鋭たちは、魔物の因子に飲まれたアベル一人にいいようにされるほど弱くはなかった。

 終結を続ける騎士たちは、魔具の剣を手にアベルに対抗する。

 無数の刃が振り下ろされる。金属さえ切り裂く鋭利な銀の刃は、枝葉を切り落とし、蔦を切り刻み、その破壊が広がるのを阻止する。

 そんな中、キルハは騎士たちに紛れてアベルが伸ばす枝を剣ではじいていた。

 その場にいるのは、何も騎士だけではない。王都にいたハンターたちもまた、知人や日常を守るために、あるいは正義を胸に抱いてアベルへと得物をふるっていた。


「ッ、時間がない、のにッ」


 蔦を払い、前へと進む。どれだけ叫んでも、キルハの声はアベルには届かなかった。

 現状、キルハにはアベルをもとに戻すための策はない。樹化呪術薬に含まれた魔物因子が働いでアベルの意識を飲み込んでいると思われたが、これほどの規模で樹化するとは思っていなかったのだ。

 かつてキルハが樹化呪術薬を使用した際は、せいぜい己の体の体積がわずかに大きくなる程度だった。腕を伸ばしたり、体を再生させたり、そのくらいのことしかできなかった。

 それが、魔物因子の量による差であるかはわからない。ただ、魔物の因子がどれほど多くなっても、ただ普通に因子の狂気に飲まれたとしてこれほどの規模の破壊を行えるとはキルハには考えられなかった。

 キルハはこれまでの無数の魔物と、樹化呪術薬を使った際の経験をもとに、アベルの現状を予想する。

 想定外の木々の乱立。街の一角を飲み込むように生い茂る密林は、今なおその範囲を広げようと、あるいは目に付く人間を滅ぼそうとするように枝を伸ばしている。


「……規模が、大きすぎる?」


 言葉にすれば、違和感は強くなる。そう、規模が大きすぎる。アベルの肉体が樹木に変わっただけではこうはならない。

 だとすれば、何が起こっているのか――

 迫る枝をぎりぎりのところで回避する。剣を振るう――のではなく、その枝に向かって、キルハは手を伸ばす。

 触れる。樹化呪術薬の後遺症によって体にわずかに残る魔力と、接触先の樹木の魔力を比べる。

 キルハの中にあった魔力が、樹木に吸い取られる。

 予想は確信へと至った。

 今触れた樹木は、アベルとは何の関係もない、すなわち、キルハが用いた魔物の因子――その魔物そのものだと判断した。

 ただの因子になり果てていた魔物がよみがえったのかもしれない。

 例えば、ネルンストのように。ロクサナの防具のドラゴンの意思のように。

 つまり、現状人間を殺そうと伸びる植物は、アベルではない別の何か。


「……なら、ためらう理由はないね」


 これまでキルハは、アベルの体そのものかもしれない枝を切らずにいた。ただ弾き、アベルを救う方法を模索していた。けれど枝がアベルのものでないのであれば、キルハにためらう必要はない。

 一歩、踏み込む。地面を埋め尽くすように広がる緑のカーペットへと剣を振るう。

 魔具の剣。騎士たちと同じそれは、下の石畳ごと蔦を切り裂いた。

 切り落とされた枝は動かない。前に進む以外に、すべきことはない。

 生い茂る木々の先、おそらくは中心部あたりにいるであろうアベルのもとへ向かうため、キルハは強く剣を握りしめて一歩を踏み出す。


「今行く――」


 極限の集中力をもって壁のように迫る木々の先へと飛び込もうとした、その時。


「ガ、アアァァァァァァァッ」


 騒然とした現場に、一つの悲鳴が響いた。喉が破れんばかりの、狂ったような叫び声。それは、今まで時折聞こえてきていた、激痛からの悲鳴ではなかった。もっとおぞましさを感じる、意思なき声。

 ちらと、視線を向けて。


「ッ」


 仲間の一人を切り殺した騎士が驚くべき速度で自分へと迫る様子を見て、キルハは慌てて木々から距離をとる。


「ガアアアアアッ」


 その目を瞳から白目まですべて漆黒に染めた、異様な男。

 半開きの口からよだれを垂らすその姿には、理性も知性も感じられなかった人形のように動く騎士は、けれどただの人間とは思えない速度で疾走し、最も近い生者――キルハへと剣を振るった。

 強烈な力。受け止めるのがやっとな膂力で振るわれた剣を、バランスを崩しながらもかろうじて受け流す。

 たった一撃防御しただけで、キルハの両腕はひどくしびれていた。もし仮に片腕で防ぐような愚行をしていれば、止めることもできずに両断されていた。

 異様な騎士は止まらない。地面にぶつかった剣を素早く切り上げてキルハへと切りかかる。

 二合目を打ち合う気は起きなかった。倒れこむように剣を交わし、地面を転がって距離をとる。

 視界に影が落ちる。騎士の足がキルハを踏みつぶそうと迫って。

 側面から迫った枝が、騎士の胴体を貫いた。明らかに致命傷。


「グ、ァア?」


 騎士の体が宙に浮く。自分の傷を、体の状態を理解することなく、騎士はただキルハへと剣を伸ばす。

 両手をがむしゃらに振るうその姿はまるで癇癪を起す子どものようだった。

 漆黒の眼球は、どこを見ているのかわからない。その目が本当にキルハを映しているのか、そもそも見えているのかもわからない。

 これは人間なのだろうか――そう、キルハは考える。

 胸を貫かれ、血を流しながらも騎士はまだ体を動かしている。痛みに叫ぶことも、ショック死することもなく、生きている。

 枝が、蔦が、次々に宙づりの騎士へと襲い掛かる。その枝が、騎士の体を貫き、へし折り、血と肉と骨に変える。

 騎士が沈黙する。血しぶきを浴びながら、木が迫っていながら、キルハは一歩も動くことができず、ただ茫然と、騎士だった「何か」がいた虚空を見つめていた。

 ズキ、と小さく頭の奥が痛み、キルハは慌てて周囲を確認する。

 ゆっくりと迫っていた蔦から距離を取り、周囲を見回す。

 異常はあちこちで起こっていた。

 騎士が、ハンターが、互いに殺し合っていた。正しくは、異常な者に殺されて行っていた。

 ケタケタと笑いながら同胞や友人に得物を振るう者、獣のように四足歩行で近くにいるものにとびかかって喉を噛みちぎる者、先ほどキルハへと襲い掛かった騎士のように感情のない顔で淡々と殺害を働く者。

 狂った者たちに共通するのは、だれもがその目を漆黒に染めていたということ。黒よりもなお黒い、闇。瞳を、白目を闇に染めた彼らは、もう人間とは違う生き物に変わり果てていた。

 怪物が人を襲う。樹木が人を襲う。保たれていた拮抗は崩れ去り、人間はただなすすべもなく殺されて行っていた。

 迫る獣のごとき人の成れの果てがキルハに飛び掛かる。

 かろうじて躱すも、直感のなせる業か、降りぬかれたつま先にみぞおちを打たれ、ゴロゴロと地面を転がる。

 痛みに涙がにじむ。耳朶を揺らす悲鳴が遠い。


「こ、のッ」


 躍りかかる怪物へと剣を伸ばす。まっすぐ、その口内に突き刺さった剣を振りぬき、頭部を両断する。

 勢いを失うことなくキルハの体にのしかかった怪物は、けれどもう動くことはなかった。

 あふれる脳漿と血潮を浴びながら、キルハは黒煙立ち上る空を見上げる。

 のしかかる体をどかし、吐き気を必死にこらえる。ふらつきながらも、剣を杖に立ち上がる。


「何が起きてる……?」


 そこには地獄があった。かつてのアヴァンギャルドへとむけられた悪意と殺意よりもなお色濃い地獄。

 そう、地獄の蓋が開いたのだ。理由はわからずとも、キルハは言葉にすることもできない強烈な悪寒を感じていた。

 足元まで迫っていた何かが、明確にその姿を現した。そこには、目をそらしたくなる阿鼻叫喚があって。

 呼吸を整える。

 地獄絵図に背を向ける。もとより、キルハが望んだものは、ロクサナの支援、そしてアベルとマリアンヌの救出。


「しっかりしなきゃ」


 言い聞かせるようにつぶやく言葉は、どこか空虚に響く。

 アベルを救えるのは、自分しかいない。そう己に言い聞かせ、頬を軽く張る。

 安穏と生きていた王都の民に、魔女を、呪術師を切り捨ててきた者たちに興味はない。彼らはただ、これまでのツケを払っているだけ。

 だから気にするな、後ろ髪をひかれるなと、キルハは改めてアベルのもとに向かうべく走り出す。

 一歩、踏みつぶすつもりで蔦のじゅうたんを力強く踏みつける。

 前へ、前へ。ただがむしゃらに走る。

 迫る枝に剣を振るう。最小の動きで、致命傷だけを避けて前へ。

 四方八方を木々に囲まれる。立ち止まれば待っているのは死。

 濃密な死の気配に満ちる世界で、けれどキルハは笑っていた。笑っていることにも気づかず、ただ頬を釣り上げて走っていた。

 沸騰するように血が熱かった。体が、意識が、開けたような感覚があった。全能感が体に満ちていた。

 意識が、アヴァンギャルドにいた頃に戻っていた。一歩間違えたらたやすく命を奪われる魔物の世界。ひりつくようなあの感覚を取り戻す。

 風の動き、小さな音。植物の香り。肌に当たる空気。それらが樹木の攻撃を伝えてくる。

 周囲のすべてが手に取るように分かった。

 笑う。歯を剥き出しにして笑う。

 今なら届く。先へ、先へ――

 薙ぎ払った剣が立ちはだかる樹木を切り落とす。栄養が足りていないからかひょろりとした細い幹は、魔具の刃を阻むことはできなかった。

 倒れる幹の先、ぽっかりと開いた空間にはがれきの山が積み重なっていて、その中央に複数の木が絡みあって生える大きな木が見えた。その樹木から、わずかな声が聞こえた。泣いているような、怒っているような、そんな声。


「今行くよ、アベル!」


 積み重なるがれきを飛び越え、がむしゃらに走り出す。

 複数の枝を編んだ、鞭のようにしなる攻撃が頭上から振る。

 そんなもので阻めると思うな――そう、笑って。


「叩き切るッ」


 踏み込み、体をねじり、切り上げて枝を切り落とし――

 瞬間、キルハの視界を閃光が埋め尽くす。膨大な熱を背後に感じた。吹き荒れる嵐のような魔力を感じた。

 反射的に、逃げるように体を前へと投げ出していた。

 その、次の瞬間。

 瀑布のように広がる熱と光と衝撃の奔流にキルハは飲み込まれた。


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