83覚悟の理由
樹化呪術薬を飲んだアベルが苦しみの中で体を激しく痙攣させる。もし両腕が存在したら、激しく全身をかきむしっていただろう。それほどの痛みが、痒みが、アベルの全身をはい回っていた。
冷たい石畳の上に寝そべるアベルの体が大きく跳ねる。鼓動するように、その体から魔力が広がっていく。
「ぐ、が、ぁあ……」
泡を吹く口から苦悶の声が、漏れる。そこには、痛みに対する歓喜など全く存在しなかった。ガクガクと痙攣し、白目をむくアベルの肉体が破裂しそうなほどに膨れて。
その肌が、一気に木目のような柄に染まる。いや、それは文字通り木目だった。
アベルの体の中で肉体を変化させるべく作用しているのは樹化呪術薬。人間の肉体を木のものに変えるイカれた力が、アベルという存在を歪ませる。
その瞬間、体が破裂するように肥大化する。全身から伸びた木の枝はアベルの足につけられていた拘束具も、鉄格子も、牢屋の壁も、すべてを貫き、砕き、破壊する。
『オオオオオオオオ――』
声が聞こえる。どこか空虚で、それでいて狂気を感じさせる声。それは監獄に入れられている魔力を抜かれて魂が壊れた者たちと同じようで、どこか違った。
無数の槍のように鋭利な木の枝がマリアンヌに伸びる。地面に伏せるマリアンヌは、動かずにそれを見ていた。
もしここで自分が死ねば、アベルは己自身を永遠に憎むだろうと思った。同時に、他の誰でもない最愛の人に殺されて終わる人生もいいかもしれないと思った。
そんなマリアンヌの思いをよそに、アベルが伸ばした枝はマリアンヌの目の前で止まった。うなだれるように下を向いた枝の先が、床石を濡らすマリアンヌの血に触れる。こうしている今も、手の甲に開いた穴から血が漏れて血だまりを広げていた。
血に濡れた枝が持ち上がる。木の塊のようになったアベルが、それを確認するように本体へと近づける。
木が震える。怒りだと、マリアンヌはそう直感した。
『オオオオオアアアアアアアアァァ』
声が響く。ひび割れた声。それは慟哭だった。嘆きだった。狂気だった。
マリアンヌの傷に我を忘れたアベルは、その瞬間、樹化呪術薬の力に飲まれた。
体がさらに膨張を始める。壁をぶち破ったアベルは、そのまま地中深くまで一直線に伸びる巨大な穴に身を躍らせる。壁に枝を指しながら、上へ上へと移動を開始する。それは、太陽を求める樹の根源的な欲求だった。
破壊音が響く。禁忌監獄の内部が激しく揺れる。どこかで崩落したような音がして、反響した音が牢獄内をビリビリと振動させる。
やがて、罪人たちを閉じ込める監獄の天蓋を前に、アベルだったソレは己の身をたわませ、絡ませ圧縮させた枝で天井を穿って空へと伸ばした。
壁の先へと、枝が伸びる。光を浴びる。活力が己の中に広がる。
そのまま、アベルだった者は監獄の外へと飛び出した。
体内で暴れ狂う力に飲まれたアベルは怪物になった、その、すべてを。
マリアンヌは瞬きの一つをすることもできずにただ見つめていた。
「……アベル?」
呆然とつぶやく声は、アベルには届かない。マリアンヌが入れられた牢屋の向かい側、そこには伽藍洞の空間が広がっているばかり。がれきの散乱する床には、べっとりとしたアベルの血がこびりついていた。砕かれた壁の向こうには、頭上高くから降り注ぐかすかな陽光の明かりが見える。
遠く、アベルの叫びがマリアンヌの耳に届く。泣いているようなその声に、心が震える。
気づけば、頬を涙が伝っていた。傷に気を遣うこともなく、アベルに向かって伸ばしていた手を握る。剣によって貫かれ、穴が開いた手、その手を、牢屋の穴の先へと伸ばす。
「行か、ないと」
行かないといけない。あんな状況のアベルを一人にしては置けなかった。
先ほどのアベルは、アベルであってアベルではなかった。あれはもう、化け物だった。薬によって取り込んだ魔物の因子に飲まれたアベルは泣いていた。救ってくれと、訴えかけていた。そう、マリアンヌは感じていた。
このまま地面に寝ていたいと叫ぶ体に鞭打って、マリアンヌは体を起こす。鉄格子に身を預ける。手のひらから零れ落ちた血が鉄を伝って流れ落ちる。
限りなくゼロに近い魔力を絞り出して呪術を発動する。
鉄格子の鍵、そこを濡らすマリアンヌの血が爆発する。それだけで脱出を阻む鍵は壊れ、マリアンヌは重い体を引きずって牢屋の外に出る。
たった一歩。その歩みには大した意味はなく、けれど一歩、マリアンヌは確かに踏み出す。
呼吸は浅い。体が思うように動かない。満足な食事を摂っておらず、その上血を流しすぎた。傷を癒すための呪術を発動するのに必要な魔力がない。
鉄格子から手を放し、震える足で闇の先へと踏み出す。牢獄の出口に向かって、歩いていく。
死にかけていたアベルは、まだ死んでいない。まだ、間に合う。救える。今度こそ――
そう思い、壁に手をつきながら一歩を踏み出そうとしたマリアンヌが足を止める。
足音が聞こえた。自分のものではない。かつかつと、どこか急ぐように踏み鳴らされるその音が、まっすぐ近づいてくる。
慌てて周囲を見回すも、逃げる場所も隠れる場所もない。左右にある牢屋には自我を失って座り込む魔女の姿があれど、牢屋には鍵がかかっていて入ることはできない。ほかに柱のようなものもない。
引き返す余裕もないマリアンヌは、わずかに回復した魔力を絞り出して迫る者を殺すことを考えて。
闇から現れた人物は、ある意味でマリアンヌの予想通りのものだった。
現れた男が足を止め、息も絶え絶えに壁に寄りかかって己をにらむマリアンヌを冷めた目で見る。その目には、つい先日まで存在した熱はない。
「……ジークヴァルド」
「マリアンヌ。どうして牢屋から出ている?……ああ、あの男が死んだか?復讐か?そんな体で?」
どこか嘲笑をにじませながらジークヴァルドが歩き出す。ふるわれた腕が、マリアンヌの体を地面に倒れさせる。
うつぶせに倒れたマリアンヌの左手が踏みつけられる。傷口を広げるように念入りに踏みにじられ、激しい痛みがマリアンヌの体を走り抜ける。
叫びを噛み殺しながら憎悪のこもった目でにらむマリアンヌを見つめるジークヴァルドは、マリアンヌの手から足をどかすことはない。
「もう一度聞くぞ?どうして脱獄しようとしている?お前はあの男を選んだのだろ?まさか今になってオレに尻尾を振ろうしているわけではないだろうな?」
「っ、誰があんたなんかにッ」
「ではなぜだ?やはりあの男か?お前が貴族の仮面を脱ぎ捨てるのは、きっとアレがかかわっているのだろ?」
「そ、うよ……アベルを救うために、わたくしは行かないといけないのよ?」
「は、はは。この期に及んで救うというか。あの男を、助けようというのか。……まあいい。今のお前に価値など見いだせないが、あの男が野垂れ死にする様を特等席で見ないのはいただけない。安心しろ、きちんと牢屋に戻してやる」
マリアンヌの手をつかんだジークヴァルドが、彼女の体を引きずって歩き出す。傷を負った手を強い力で握られたマリアンヌが漏らす悲鳴は、ジークヴァルドにとってひどく心地よいものだった。
「離、し……なさいッ」
もがく気力もなく、息も絶え絶えに告げるマリアンヌはろくな抵抗もできずに引きずられていく。無限にも等しい時間をかけて進んでいたはずの歩みが無に帰す。
あっという間に牢屋の前までマリアンヌを引きずり戻したジークヴァルドだが、そこでぴたりと足を止める。彼の視線の先には、内側から強烈な力で吹き飛ばされて歪んだ鉄格子があった。地面を転がるそれは、アベルが入っていたはずの牢屋のもの。
マリアンヌを捨て置いて足早に歩きだしたジークヴァルドが牢屋の中を確認するも、そこにアベルの姿はない。あるのは、砕けた牢屋と、ぽっかりと開いた穴ばかり。分厚い壁をぶち破った先には太陽の光が見えた。
「……どういうことだッ。あの男はどうした!?」
「痛、い、のよ」
髪をつかみ、首をもたげさせてアベルの行方を問う。轟音の正体を知るべく一人戻って来たジークヴァルドは、ここにきてようやく、轟音の原因がアベルの破壊行為にあることを理解した。
お前に話すものかと、憎悪を目ににじませるマリアンヌは何も言わない。無言でにらみ合う二人の間に、天高くから咆哮が響く。それから小さな爆発音がして、ぱらぱらと崩落した天井から砂が舞い落ちる。
「……上に行ったか。だが、あの状態で?」
思考が声に出ていることにも気づかず、ジークヴァルドはことの詳細を考える。そこにはわずかな驚愕があった。
間違いなく、アベルは動くこともままならない状態だった。そのアベルが牢屋を破壊し、竪穴をよじ登って禁忌監獄の外へと出ているなど正気では考えられなかった。
けれど、ジークヴァルドは元より正気ではなかった。
ちらと、地面に横たわるマリアンヌを見つめるジークヴァルドの目には、もはや何の関心もなかった。究極の無関心。路傍の石を見るような眼をしていたジークヴァルドは、おもむろに腰の剣を引き抜く。
マリアンヌがわずかに瞳を揺らす。
暗闇の中。剣が翻り、マリアンヌの首へと迫って。
直感のままに、ジークヴァルドは動きを止めた。腐っても彼は騎士だ。マリアンヌを失った怒りのままに魔女を殺す道を選んだ彼は、相応の戦闘経験を積んでいた。その勘がジークヴァルドに告げていた。危険が迫っていると。
瞬間、ジークヴァルトの片手に握られた光源が空中にきらめくものを見出す。それは、細い銀の糸だった。
意思を持っているように動く銀の糸が大きくたわみ、ジークヴァルドの首に巻きつく。
「ッ、ラァッ」
とっさに首を糸の間に剣を差し込んで糸を切る。わずかな抵抗から、それがただの糸ではなく金属のワイヤーであったことを知る。
はらりと床に落ちた糸はそのまま闇の中へと逃げるように消えていった。
「……なんだ、今のは?」
息を整えながらジークヴァルドはマリアンヌをにらむ。だが、マリアンヌとて語れない。今の一瞬の攻防を、マリアンヌは理解できない。知らない。
ギリと、歯を食いしばる。マリアンヌとは無関係の「害虫」がこの禁忌監獄に潜んでいる可能性が高かった。今すぐにアベルを殺しに地上へと向かいたい思いと、ワイヤーを操る者の正体を探るべきだという考えの間で板挟みになっていたジークヴァルドだが、咳き込む音にまず何をするべきかを思い出した。
浅い呼吸を繰り返す目の前の女をこの手で葬る。己を裏切り、他の男に抱かれたゴミを消し去る。もう二度と、誰のものにもならないように。
だが、やはりただ殺すだけでは面白くないとジークヴァルドは考える。呪術師であるにも関わらず己を裏切った女にできるだけ長く痛みを与えるべきだと心が叫んでいた。
わずかに濁った瞳を向けてくるマリアンヌの腹部めがけて、剣を振り上げる。臓器を走る痛みにもだえ苦しめと、剣を振り下ろして。
「ァ、ア゛アァアッ」
マリアンヌが獣のような咆哮を上げて四肢で地面を蹴る。刃がマリアンヌの脇腹を浅く切り裂く。ゴロゴロと転がっていくマリアンヌが、腹を抱えるようにしてジークヴァルドをにらむ。
「……どうした?オレに殺される気はないというのか?どうせそろそろ死ぬんじゃないか?」
マリアンヌは答えない。ただ窮鼠のように全神経をジークヴァルドの一挙手一投足に注いでいた。まだ死ねないと、その目が語っていた。
そこにある覚悟が、ジークヴァルドには理解できない。魔女としてすべてを失っておきながらなおあがき、救いの糸(自分の手)をつかむことなくもがくマリアンヌのことがわからなかった。
ただ、あがくというのなら惨めにはいつくばって動けなくなるまで躱してみせろと、ジークヴァルドは冷笑を浮かべながら大振りに剣を振るう。
マリアンヌの全身に傷が増えていく。時に手のひらで刃を受け止めて攻撃をそらして致命傷を避ける。否、避けているのが致命傷ではないことをジークヴァルドは理解していた。
マリアンヌは、胴体を守るように動いていた。腹部を、守るように動いていた。
「……何がしたい?」
主のいない牢獄に追い込んだマリアンヌに問いかける。返事はなかった。すでに呼吸するのがやっとなマリアンヌは、全身に傷を負い、それでもその目は死んでいなかった。片腕は、腹部から動くことなくそこにあり続ける。何かを、守るように――
ジークヴァルドが目を見開く。脳裏をよぎる直感が脳に電撃を走らせる。
唇をわななかせ、ジークヴァルドは問う。まさか――
「まさか、腹に――」
かすむ目でジークヴァルドを見つめていたマリアンヌが浅く笑う。その笑みは、母の笑みだった。いとおしそうに腹部に手を当てるその理由は、もう問うまでもなかった。
そっと、マリアンヌが目を閉じる。まだ呼吸はしている。体から少しずつ零れ落ちる血が衣服を、地面を濡らしていく。わずかに残る壁の穴に背中を預けるマリアンヌは、動くことはない。
ゆっくりと、その前に足を伸ばす。理解できないものを見る目でマリアンヌをじっと見降ろしていたジークヴァルドが、剣を振り上げる。
一瞬にして、二人の脳裏にかつての相手の姿がよぎる。それはもう、遠い過去の話。
これで、決着。袂を分かった婚約者たちは、その関係に終止符をつける――
「終わりだ――」
「あなたが、ね……」
剣が振り下ろされる。目をつむったままつぶやくマリアンヌは動かない。避けられず、そして、避ける意味もなかった。
ただ、受け身で、マリアンヌはそれを待つ。
確信があった。彼女が来たと、そう理解していた。
ジークヴァルドの剣の軌道に、刃が差し込まれる。何もないはずの竪穴から飛び込んできた腕と剣にぎょっと目を見開いたジークヴァルドの態勢が崩れる。
「あああああッ」
マリアンヌとジークヴァルドの間に人影が割り込む。ジークヴァルドの剣が弾かれる。
薄っすら目を開いたマリアンヌの視界に、見慣れた背中が映る。気づけばいつも目に入っていた、アヴァンギャルドでただ一人の「不死者」。生きるということをあざ笑うような環境でなお、死とともに歩き続ける折れぬ背中がそこにあった。
死を超える者が、ジークヴァルドに向かって剣を振り抜く。




