81復讐劇
おそらくはこの小説で最大の鬱展開です。
苦手な方はご注意下さい。
トロージャンの哄笑が病む。喜悦をにじませていたその眼は光を失い、虚空のある一点を見据えていた。どろりとした悪意を秘めた魔力がトロージャンの体から溢れ、周囲の景色をゆがめる。
「……ネルンスト、下に送ってくれるかしらぁ?」
「儂はお前の下僕なのだろう?さっさと命令すればいいものを」
この期に及んで「依頼」の形をとるトロージャンの内心を考えながら、白髪白髭の枯れ木のような男、ネルンストはため息とともにその体から魔力をあふれさせる。
異界魔法。それは現実世界とは異なる一つの世界を生み出し、その世界と行き来するための道を作り出す魔法。生前は安全地帯としての役割しか持たなかったその空間は、死後にさらなる飛躍を遂げた。異なる場所に複数の出口(穴)を開くことで、現実世界の距離を無視した瞬間的な移動を可能とするその力は、既存の物流をひっくり返しうる強力な魔法となった。
だが、そんな使い方にトロージャンもネルンストも興味はない。トロージャンは復讐のために、ネルンストは主人であるトロージャンのために。それ以外に価値などなかった。
トロージャンが下僕であるアンデッドの視覚及び位置情報をネルンストに共有する。その情報をもとにネルンストは魔法を組み立てる。
魔法が、異界に穴を生み出す。トロージャンが座っている出口のすぐ隣に出現した新たな出口が通じているのは、トロージャンの憎き相手がいる場所の近傍。出口を開く場所はある程度の空間的な広さが必要となるという制限があるため、仇敵の目の前に扉を開くことはできなかった。
「それじゃあ、行ってくるわねぇ?」
「ああ、せいぜい暴れてくるといい」
舞うようにステップを踏みながら、トロージャンは新たな出口へと歩を進める。背筋を走る歓喜に震えながら、トロージャンは異界より一歩を踏み出す。その背後に、無数のアンデッドたちを引き連れて。
熱が頬に刺さる。炎は、アンデッドの敵だ。例外は生前に火に莫大な適性を有していた魔物や一部の魔女のみ。すでに己の魔法によってアンデッドとなっているトロージャンにとって、己の破滅を呼びかねない危険なもので。
けれどためらうことなく、トロージャンは燃え盛る貴族街に降り立った。
燃え盛る貴族邸宅の中へと歩を進める。ネズミのアンデッドの情報を頼りに煙が満ちた廊下を進む。
天井から落下してきた燃え盛る木材を巨猿のアンデッドが腕で振り払う。飛び散る火の粉が尾を引き、煙の中を切り裂いて進む。熱が、巨猿の毛皮をチリチリと縮れさせる。
食堂を通り抜け、その先にある厨房に入る。人気はない。耐火処理がされているからか、この部屋は火の気配も遠かった。
部屋の奥、地下へと続く扉に巨猿が手をかける。分厚い金属の扉は、並みの成人男性では数人がかりでも開閉できるかどうか怪しいもので。加えてしっかりと鍵がかけられた扉は、巨猿一体が力を込めてもびくともしなかった。
「んー、壊してしまいましょうかぁ」
鍵で閉ざされているらしい扉に、巨猿をはじめとしたアンデッドたちが攻撃を叩き込む。
重低音が断続的に響き、金属扉が軋む。悲鳴を上げるように破壊音が強くなり、やがてその音に交じってかすかな悲鳴が漏れ聞こえるようになる。
扉が、階下に向かって叩き落される。轟音が地下空間に木霊する。
小柄な無数のアンデッドたちを引き連れて、トロージャンはためらうことなく暗闇の先に向かう。
カツカツと、ガシャガシャと、ゴツゴツと、暗闇に無数の足音が響く。百鬼夜行のごとく進むアンデッドの軍隊が、先頭のトロージャンに従ってぴたりと足を止める。
暗闇の中、限界まで地下室の奥に逃げようと壁に背中を預ける肥満体系の男の姿があった。トロージャンの記憶にあるよりもだいぶ衰え、頭髪には白髪が混じり、顔から艶が失われた男は、けれど見間違いもない彼女の復讐相手だった。
息子らしき面影のある少年や少女、妻や使用人とともにいる男に、トロージャンは長年の恋が結んだ乙女のように笑みをこぼす。
魔法具の明かりが揺れる。震えながら手を伸ばした使用人が、トロージャンの姿をあらわにさせる。
大きく目を見開いた貴族の男が、びくりと肩を震わせる。
「久しぶりねぇ、ガイウス・ベルマ?」
「な……あ、う、そん、な……」
「あらぁ、耄碌してしまったのかしらぁ?それともぉ、衝撃で言葉が出ないのかしらぁ?」
薔薇のような色つやのある真っ赤な唇を吊り上げ、トロージャンが怪しく笑う。その眼に宿る狂気に射すくめられて、貴族の男――ガイウスの顔色がますます悪くなる。
「……父上、彼女は?」
「……ありえん。そんなはずがない。もう二十年は経っているのだぞ!?第一、アヴァンギャルドに入って死んだはずだ。そうだ、これは幻覚だ。見間違いだッ!」
「幻覚ねぇ……それはつまらない回答だわぁ」
パチン、とトロージャンが指を鳴らす。瞬間、闇から浮かびあがるようにして現れた無数のアンデッドたちが一斉にベルマ伯爵一族に襲い掛かる。
絹を裂くような悲鳴が、狂乱に満ちた絶叫が響く。恐怖に体を震わせて動くこともままならなかったガイウスは、そのまま狼やウサギの魔物のアンデッドに殴り倒された。
おもむろに近づいたトロージャンが、ガイウスの後頭部と強く踏みつける。くぐもった悲鳴に、頬の紅潮が強くなる。
「会いたかったわよぉ、ベルマ伯爵ぅ?わたしのことはぁ、当然覚えているわよねぇ?」
「し、知らん!お前のような奴は知らん。他人の空似だ、そうだろう!?」
「あらぁ、わたしの夫と息子を殺してくれたじゃないの?」
「……知らんッ」
だらだらと脂汗を流すガイウスは必死に嘘を紡ぐ。その眼は、けれど会話を繰り返すたびに確信の光を帯びていく。
かつて戯れに利用して殺した呪術師の少年と、その夫、そして狂気に吠えていた獣のごとき女のことを、ガイウスは思い出していた。
突き刺さるような家族の視線から目をそらしながら、ガイウスはうわ言のように否定の言葉を繰り返す。
異形のアンデッドに顔を持ち上げられたガイウスは、己の目をのぞき込むトロージャンの常闇のように暗い瞳に激しく恐怖する。
その身に怪物を住まわせた記憶の中にある女とうり二つの人物。復讐――その二文字がガイウスの頭をよぎる。
必死に、その言葉を否定する。なぜならあり得ないから。月日の中、色あせることのない美貌をその顔に宿す女は、とっくに死んだはずだった。少なくともアヴァンギャルドの廃棄とともに確実に死んだと思っていた。何より、当時と寸分たがわぬ容姿を持つ目の前の女が、記憶の中にある魔女と同一人物であるはずがなかった。
ゆらりと体を傾けながら、トロージャンは顎に手を当てて思索のそぶりを見せる。
「おかしいわねぇ……ひょっとしたらぁ、わたしの覚え違いかしらぁ。せっかくあなたを殺すために死地から這いずってきたのにねぇ」
「そ、そうだ。勘違いだ!オレはお前など知らん!」
「そう、勘違い、ねぇ……じゃあ、思い出すまで試しましょうか」
ちらとアンデッドに拘束された青年を見て、トロージャンは心の中で命令を下す。
瞬間、ゴキ、と激しい音が青年の肩から響き、悲鳴が地下室に轟いた。
「な、ぁ!?」
「あらぁ、この程度では思い出せないかしらぁ?そうよねぇ、だってわたしの息子はぁ、人間だったかどうかもわからないくらいの姿にされたのだものねぇ」
アンデッドたちが、ガイウスの息子に暴行を加える。四肢をへし折り、耳をねじ切り、瞳を抉り出し、腹部を切り裂く。
獣のように絶叫する青年は床におびただしい血を流し、やがてピクリとも動かなくなった。
「う、そだ……ヒルントス……」
「ふぅん、ヒルントスっていうのねぇ。いい名前だわぁ……起きなさぁい、ヒルントス~」
トロージャンの言葉の意味を理解せぬまま、ガイウスたちは絶望に涙を流しながら死した青年を見て。
死んだはずの男が激痛にそののどを震わせる様を見て、わずかな希望と、それを上回る激しい恐怖に心を震わせた。背筋に冷たいものが走る。脂汗が額ににじむ。
濃密な悪意を、狂気を感じた。それを肯定するように、青年が呪詛のようにつぶやき始める。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――」
「ふふ、元気ねぇ。でもぉ、わたしの息子は話すこともできなかったのよねぇ……あなた、その舌はいらないわよねぇ?」
瞬間、地面に伏せるヒルントスは自ら己の舌を噛みちぎった。許容値を超えた恐怖によって、声にならない悲鳴が地下室に渦巻く。
そんな中、ただ一人トロージャンだけが笑っていた。楽しくておかしくて仕方がないと、笑みを浮かべて続けていた。いつくしむようにヒルントスの顎に手を添える。
「さぁて、まだまだ余計な部位があるわよねぇ?四肢もいらないしぃ、臓器もなくていいわよねぇ、片目も残っているしぃ、髪も喉も歯もあるのよねぇ」
「ま、まて、思い出した!思い出したぞ魔女ッ」
ぐりん、とトロージャンがガイウスを見つめる。恐怖に口を閉ざすも、一度吐き出した言葉を飲み込むことはできない。
「ようやく思い出してくれたのねぇ?でも、まだよぉ、まだ復讐は始まったばかりなのよぉ……だから、あなたは特等席で見ていてちょうだいねぇ?」
四肢の骨を折られたヒルントスが、顎を使って這うように床を移動する。水音が響く。血臭が強くなる。
「い、いや、来ないで!」
少女が、ヒルントスの妹が悲鳴を上げる。だが、トロージャンによって強制的に動かされるヒルントスは、どれだけ己の体を制御しようとしても動けない。畜生のように地面を這い進みながら、妹へとその毒牙を伸ばす。
少女の指に、ヒルントスが噛みつく。ぐじゃりと、肉がつぶれるような音がする。
ヒルントスは止まらない。止まることを許されていない。少女の絶叫と、声にならない刑を待つ罪人たちの悲鳴と、ガイウスの制止を求める声が地下室に反響する。
アンモニアのにおいが血臭に交じる。がくがくと泡を吹く少女はショック死し、けれど死は彼女にとっての救いにはならない。
およそこの世界における最強の拷問の力――それこそが、トロージャンが手に入れた死霊魔法の使い道だった。死による解放を許すこととなく、終わりなき苦しみを与える。
怪物が手にした悪魔の力が、ベルマ伯爵一族を焼いていく――




