80業火
――怒りの炎が燃えていた。
王都に巻き起こった灼熱の旋風は、家屋を、人を、すべてを飲み込んで天へと立ち上る焔となった。飛び散る火花が乾燥した民家の屋根に燃え移り、王都の街は瞬く間に火災の渦に飲まれていく。
人々は逃げまどい、あるいは逃げることもままならずに炎に焼かれ、熱風に巻き上げられた。
とりわけ貴族街における火力は恐るべきもので、舞い上がる炎は檻となって街を取り囲み、貴族のただの一人の逃がしはしないと言外に告げていた。壁となって立ちはだかる炎は少しずつ前進し、その先にある豪華絢爛とした王国の繁栄の象徴である貴族街を焼き払っていく。
絶望に膝を屈した貴族婦人が、茫然と空を見上げながら涙する。権力を振りかざして己を助けるように求める貴族領主もいるが、誰にもどうすることもできなかった。
民を救うべき貴族たちは、王城の屋根の上に現れた女性にくぎ付けになっていた。
アヴァンギャルドの踊り子、相手を魅了して思考能力を鈍化させる呪術を使うハイドランジアが四肢を大きく振るう。喜悦をにじませながら踊り食う彼女に精神的な支配を受け、騎士たちはその瞳から光を失い、剣を地面に落として茫然と立ち尽くす。
街を襲う炎は、レッドドラゴンのアンデッドによって生み出されたものだった。ロクサナが身に着けている防具に宿ったレッドドラゴンの残留思念など、その全体の一部に過ぎない。ドラゴンという超常の存在の魂は死霊魔法の使い手であるトロージャンによって無数に分裂させられ、その一つ一つがレッドドラゴンの体を組み込んだキメラに宿っていた。
異形の怪物が炎を吐き出す。炎を身にまとい、少しずつ足を進める。
それはまさに災厄だった。人間の手には負えない、悪魔の術。
魔女――誰かが、炎を見上げながらぽつりと告げた。こんな極悪非道なことをする存在は魔女しかいないと、何の根拠もなくそう考えた。あるいは、目の前に突如現れた街を焼き払う炎から魔女を連想した。
――魔物が襲撃してきた可能性を考えることもなく。
それが、王国という国であり、王国に住まう民たちだった。彼らにとって己の日常を脅かす悪とは魔女や呪術師のことであり、魔物は社会に利益をもたらす素材源でしかない。とりわけ人生において街からただの一歩も出ることがないことが多い王都の民においては顕著な考えだった。
それはおごりだった。怠慢だった。無知という悪だった。
彼らは見てこなかった。魔女と呼んで虐げてきた者たちの怨嗟を理解していなかった。自らが享受する日常が誰の犠牲のもとに成り立っているかと考えたこともなかった。
だから、この悲劇は必然だったのかもしれない。
「あは、ハハ、ハハハハハハハハハハハハハハッ」
旋風巻き起こる王都に哄笑が響く。逃げまどう民を見下ろしながら、王都上空、百メートルほどのところにぽっかりと開いた漆黒の穴の淵に腰を下ろして、一人の女性が高笑いを続ける。引き裂けそうなほどに口を開き、目からは涙をにじませる。狂気――そう呼ぶにふさわしい激情を顔に浮かべた女は、ただただ笑い続ける。
アヴァンギャルドの生き残り、死霊魔法を使うトロージャンはただ笑い続ける。腹の内に凝った憤怒を、憎悪を、怨嗟を込めて笑う。
高熱をはらむ上昇気流が彼女の長い青髪を揺らす。髪を耳にかき揚げ、足を前後に揺らす。
その眼には逃げまどう民が、絶望に立ちすくんだ民が、魔女への憎しみを叫ぶ者たちの姿が映っている。王都の各地に送った下僕である死霊たちが送ってくる情報に、トロージャンはかつての怒りを思い出す。
トロージャンはかつて、王都で古くから続く服飾店を営んでいた。事業は発展の一途をたどり、夫もでき、子どもも生まれた。順風満帆な日常がいつまでも続くと、何の根拠もなく思っていた。
そんな日は、一瞬にして壊れた。
ある日、トロージャンの息子が魔法を発現させた。その魔法は、回復魔法。より正確には、相手の傷を支配し、支配した傷を己に移す呪術だった。
他者の傷を引き受けることで相手を治療する。それは彼の心優しさゆえに発言した魔法かもしれなかった。
膝を擦りむいた友人を癒すために呪術を発現させた少年は、友人の治療をした。物の分別を知らない子どもたちは、呪術に忌避感を示すことはなかった。ただ、治療してもらった友人がそのことを母に告げてしまうまでは、何も問題はなかった。
息子の友人に呪術師がいると知った女は、その事実を騎士に報告した。それは、自らの家族を守るための行為だったかもしれないし、あるいはその身に沁みついた魔女の排斥精神によるものだったかもしれない。
果たして、呪術師となった少年は騎士に捕らえられた。青天の霹靂に、トロージャンは息子を守ろうとして、騎士たちの暴行を受けた。
息子は連れ去られ、呪術師を生んだ一家としてこれまで取引があった者たちから心無い罵声を浴びせられた。けれど理解者であった夫と二人、何とか食いつないだ。
トロージャンはただ祈り続けた。どうか息子が無事でありますようにと。苦しい思いをしていませんようにと。生きてまた会えますようにと。
そんな未来が訪れるとは、トロージャン自身考えていなかった。ただそれでも、一抹の希望を胸に願い続けた。
夫とともに神に祈りをささげて、半年が経って。
――そして、希望は潰えた。
他者を癒すことのできる呪術師だった少年は、貴族の治療のために消費さ(使わ)れた。
呪術師として落ちぶれながら貴族の役に立ったのだ、こいつとて本望だろう――醜悪な笑みを浮かべながらやってきた貴族は、変わり果てた息子(死体)をトロージャンと夫の前に放り捨てて高笑いしながら去っていった。
その体は、四肢がなく、顔の皮膚がなく、目がなく、耳がなく、鼻がなく、髪がなく、歯がなく、舌がなく、臓器がなく、骨がなく――およそ人間として存在すべきありとあらゆるものが欠けた、異形となり果てた体だった。
相手から受け取った傷は、急速に呪術師である少年をむしばみ、その部位を腐らせた。そうして限界まで酷使された少年は、けれど「呪術によって失われた肉体が理由で死ぬことはない」という代償と呼ぶべきかどうかもわからない呪いのような力のせいで、死ぬに死ねなかった。
もし、ただ他者を癒し続けて死んだとすれば、トロージャンは狂わなかった。けれど、彼女は狂った。憎悪と憤怒を腹の底からあふれさせ、体を震わせながら息子を抱きしめた。
その、体には。呪術による代償とは明らかに異なる「外傷」があった。
鞭打ちの傷、切り傷、火傷、打撲痕など、わずかに残った部位に刻まれた傷は、明らかに悪意を持ってつけられた傷だった。
呪術による代償で人間と呼べないような姿になりながらも、少年は死ななかった。死ねなかった。そんな少年を気味悪がった貴族は、恐怖のはけ口として少年に暴行を加えて殺した。
他者を癒せる呪術師という価値の分だけ使い果たしてなお止まらなかった悪意に涙して、復讐を誓い、その時、トロージャンは魔女に覚醒した。
自らに背を向けて去っていく男に、魔法を発動しようとした。だが、トロージャンの力は貴族の男には通用しなかった。彼女が発現した死霊魔法は、生者には一切の効果を及ばさず、ただ死者を自らの手足のように動かすことができず魔法だった。
魔力を発現させたトロージャンは、何もできずに囚われた。
そしてあろうことか、貴族はトロージャンたちの一家が魔女の血を引いた家だとみなし、魔女として覚醒していなかったトロージャンの夫をも捕らえた。
トロージャンは牢屋にて、魔女でもない夫が拷問によって見るも無残な姿に変えられるその一部始終を見せられた。
発狂した己の声が、あざ笑う貴族の声が、それでも自らの妻と息子を罵倒することも己の運命を嘆くこともなく死んでいった夫の苦悶の声が、今でもトロージャンの耳の奥で残響していた。
人間は時に怪物になる。それはトロージャンたち一家を壊した貴族であり、最愛の者たちを殺されたトロージャン自身でもあった。




