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白百合の涙  作者: 雨足怜
魔女編

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79/96

79禁忌監獄

 気づけば、ロクサナとキルハは王都の一角、貧民街の陋屋の軒下に投げ出されていた。


「ロクサナ、起きて!ロクサナ!」


冷たい地面の硬さによって目が覚めたキルハは周囲を見回し、意識を失っているロクサナに気づいて声を上げる。ううん、と小さくうめきながら目を覚ましたロクサナは、目元をこすりながら周囲を見回して首をかしげる。ロクサナはまだ寝ぼけていた。


「どこ?」

「わからない。僕も今気が付いたばかりだから。でも意識を失う前のトロージャンの言葉のことを考えると、ここはたぶん王都だろうね」

「っ!師匠とトロージャンは……いない?」

「すでに陽動として動いているのかな?もしくは僕たちが動くのを待っているのか」


 トロージャンはロクサナたちに協力すると言った。禁忌監獄破りへの協力。そのことから考えるに、ここは王都であり、姿が見えない以上トロ―ジャンたちはキルハたちに直接手を貸すことはないということだった。

 ようやく意識が完全に覚醒したロクサナは、わずかに重い頭に鞭打ってこれからのことを考える。目標は禁忌の監獄。そこに捕らえられている可能性が高いマリアンヌとアベルを救い、さらに禁忌の監獄にいるかもしれないアマーリエという女性を探す。

 そばに転がっていた装備を回収し、武装を整える。キルハの道案内を頼りに禁忌の監獄がある王都外延部に向かおうとした、その時。

 無数の足音と金属がこすれる音が聞こえてきて、キルハは頬を引きつらせる。とっさに柱の陰に隠れて音のする方へと視線を向ける。

 隘路の向こう、開けた通りを複数の人影が通過する。走る男たちはそろいの鎧に身を包んでいる。走る騎士たちが向かう先を考えて、キルハはその顔を一層険しいものにする。


「向こうには何があるの?」

「……禁忌監獄だ」

「ずいぶん慌てているわね。ひょっとして、すでに師匠たちが動いている?」

「いいや、あの人たちが現れたらなもっと強烈な展開に――」


 ――なる気がする、と。そんなキルハの言葉は続かず、代わりに王都のあちこちで爆発音が響いた。

 伝播する振動が貧民街の陋屋のいくつかを倒壊させ、激しい破壊音が響く。空に立ち上る黒煙を見つめるキルハの視線はこの上なく厳しい。


「……始まった」


 それは、王都を襲う災厄の産声。初撃で王都の民に強い衝撃を与えた爆発を合図に、トロ―ジャンたちアヴァンギャルドの亡霊が動き出す。

 悲鳴が上がる。異常を察した者たちは隠れひそみ、あるいは爆発から遠く離れたところへと移動を開始する。安穏とした日々を享受していた王都の民は一斉に極度の混乱状況に陥った。


「行こう」

「うん。マリアンヌたちのところに急ごう!」


 二人は悲鳴を振り切るように走り出す。覚悟はしていた。それは己が死ぬかもしれないという覚悟。王国の中心地である王都、そこに集まる戦力は圧倒的で、戦いになれば無事では済まない可能性が高いことはわかっていた。だからワルプルギスという戦力に期待した。魔女という超常の力を有する者たちの助力があれば騎士たちに勝利できるかもしれないと思っていた。

 勝利――すなわち、立ちふさがる騎士を殺すということだ。その覚悟も、二人にはあった。

 けれど、二人は考えていなかった。あるいは、目をそらしていた。この戦いで、禁忌監獄襲撃作戦を成功させるために、無辜の市民を傷つけることになるかもしれないということを、考えていなかった。罪のない人が死ぬことになることを、気づきながらも意図的に無視した。

 そうしなければ、心が壊れてしまうから。

 悲鳴がとどろく。恐怖は波のように伝播して、市民が逃げ惑う。そこには隣人愛などない。献身などない。

 火を恐れて逃げ惑う獣のように、人々は自己愛を胸に街を走る。

 渦巻く絶望の気配の中、二人はただ無心で禁忌監獄へと走って。

 大地がひときわ激しく揺れる。それは、先ほどの爆発とはまた違った衝撃だった。

 強烈な破壊音が響く。空に、無数の塔が伸びる。

 王都外延部に存在する禁忌監獄。古の時代に作られ、今もその魔具機能を残した王国で最も堅牢な牢屋。地下に長く伸びる螺旋状の牢獄の蓋が、地下から伸びたものによって吹き飛ばされていた。

 太陽光の影が落ちて黒々とした姿を見せるそれは、先端が鋭利にとがった塔のようだった。複数の蔓がねじれ寄り集まったようなその塔に、外見に、キルハは強烈な既視感を覚えていた。それはつい先ほど、キルハたちが戦ったトレントが見せた攻撃に酷似しているように思われた。複数の枝を集め、木の槍のようにした一撃。

 自然と走る速度が速くなった。禁忌監獄が近づく。大地を貫いて伸びる塔は、見間違いようもなく植物のものだった。

 禁忌監獄に魔物を閉じ込めて実験していたのか、あるいは先ほど戦ったトレントが見せた果実による急成長がこの場で起こったのか。即座に浮かんだ二つの考えを、キルハはすぐに否定した。

 その枝には、もっと別に見おぼえがあった。トレントなどではない。もっと違う形で、キルハはそれを知っていた。

 枝が、意思を持ったように動き出す。寄り集まったそれは巨大な腕のようになり、拳ができる。攻撃を加える騎士たちへと振り下ろされる。

 巨腕の一撃が騎士たちをつぶし、地面に敷設された石畳を砕く。付近にあった人工物自然物の一切合切が破壊された。


『オオオオオオオオオオオオ――』


 声が聞こえた。どこか虚ろで、そして狂ったようにノイズが走った声。その声に、聞き覚えがあった。知っている者、見覚えのある植物の枝、騎士への攻撃、禁忌監獄から伸びる――樹化呪術薬による、肉体の樹木化。膨大な魔力因子を取り込んだ怪物が、誕生を知らせるように声を上げていた。

 その枝が集まり、ヒト型を作り出す。巨躯の――三メートルを超える樹木の大男が生まれる。


「……アベル?」

「ッ、ロクサナ、先に行って!僕はここに残るよ」


 焦りと怒りと困惑と絶望。全部をひっくるめて飲み込み、覚悟を胸に叫ぶ。無事だった騎士たちが、恐怖しながらも樹化したアベルへと攻撃を開始する。

 走り出したキルハの背中に続いて、ロクサナも禁忌監獄へと走る。アベルの異常は、少し違うものの以前キルハが見せたものと酷似していた。己の肉体を樹木へと変える技。

 脳裏に、ディアンのナイフに頭を貫かれたキルハの姿がよぎる。こみ上げる恐怖から視線を逸らすように、ロクサナは積みあがるがれきを飛び越えて、破壊された禁忌監獄への入り口へとその身を躍らせた。





 壊れた天蓋の隙間から監獄の通路に飛び込み、一回りほど通路を進すめば、視界は急速に暗くなっていく。荷物から松明を出し、魔具によって火をつける。片手がふさがることは戦闘能力の低下を招くが、闇の中ではどんな奇襲を受けるかわからない。罠の類がないとも言えず、ましてや騎士が潜伏している可能性は十分にある。もっとも、地上に現れたアベルとの戦いの応援に出向いたのか、禁忌監獄入り口付近には人の気配はなかった。

 遠くから響く戦闘音を聞きながら、ロクサナは小走りに禁忌監獄の中を進む。

 かつて、不安と絶望に心沈んでいた自分を思い出した。どうして絶望していたのかも思い出せず、ただ当時の絶望だけが心の奥から浮かび上がる。その意味を、今のロクサナは知っている。魔女として覚醒しながらも弟を救えなかった絶望だろう。けれどその記憶は、弟に関する記憶は、すでにロクサナの中にはない。

 わずかに歯を食いしばる。鎖につながれ、引きずられるように運ばれた道をたどる。螺旋を描く通路を走っていたロクサナは、けれどすぐにそのペースを遅くする。牢屋に、人影があった。一つ、また一つ、闇の中で息をひそめるようにして囚われの存在がいた。

 だが、ロクサナが足を止めたのは、彼らを救出するか否かで悩んだからではない。

 その様子はおかしかった。彼ら彼女らはみな、虚空をぼんやりと見上げ、言葉にならない声を漏らしていた。


「アアアアアアアア――」

「オゥオオオオオオオ――」


 それはまるで、壁に空いた穴から吹き込む隙間風のよう。意思なき声がロクサナの耳朶を震わせる。

 一つの牢屋の前で足を止める。記憶が正しければ、そこはかつてロクサナが捕らえられていた牢屋だった。その、中に。光を失って虚空を見上げる、魔女と思しき男の姿があった。

 その顔も名前も、ロクサナは知らない。なんの関係もない。ただ、同じ魔女であるという直感があった。

 その、男は。両足のない男は、ただ光の失った目で空を見上げ、ほかの囚人と同じようにうめき声をあげていた。空虚な声がまじりあい、人気のない暗い通路の奥へと木霊しながら消えていく。


「どう、なってるの?」


 アヴァンギャルドがなくなったことで、行き先が消えた魔女たちが暴行のはけ口にされている。あるいは長い拷問をされている。その果てに心を壊した――そう、思った。だが、道行く先にいるすべてが心を壊した状態にあるなど異常だった。

 ロクサナは知らない。彼らがすでに、ただ呼吸を繰り返しているだけの屍だということを。魂を砕かれた者たちは、考えることもできない肉塊でしかない。

 生きながらにして死んでいる者たちを前に、ロクサナは一層焦燥を強くした。もしかしたらマリアンヌも同じような状況にあるかもしれない。

 救出対象の無事を祈りながら、ロクサナは通路の奥へと走る。頭上から響く戦闘の反響音は止まらない。それどころか時間を経るほどに大きく、強くなっていた。

 ロクサナの足が再び止まる。倒壊した壁や天井で道が完全に閉ざされていた。

 ロクサナは禁忌監獄について詳しくない。その構造についてわかっていることといえば、禁忌監獄は地面に垂直に開けられた巨大な穴の周囲を螺旋状に続く道の横に無数の牢獄が設けられているということくらいだった。

 ここまでの道は一本戦だった。他に道があるのか、あるいはがれきを吹き飛ばして進む必要があるのか。逡巡を見せるロクサナは、ふと松明の炎にきらめくものを視界の端に捉える。


「……糸?」


 それは、非常に細い金属のワイヤーのように見えた。銀の糸は意思を持ったように空中をきらめく。それは、ロクサナの見間違いでなければ通路をふさぐがれきのわずかな隙間の向こうから続いているように見えた。それは、これまでロクサナが走ってきた道の先、光の届かない闇の向こうへと続いていた。

 罠か何かかと考えたその時、ワイヤーが大きく揺れ、鞭打ちのように無事だった壁に傷をつける。連続で翻る美しい銀糸が、壁に図を刻む。

 示された矢印を前にロクサナは目を見張る。糸が揺らめく。示された矢印の方へと進めというように。


「誰?もしかしてマリアンヌ?」


 返事はない。第一、マリアンヌがこんな器用なことをできるとは思えなかった。万能な気配のあるマリアンヌだが、武器を使うような戦いにおいてはひどく不器用だった。

 がれきの先から返事が聞こえることはない。そもそもその向こうに人がいるのかどうかもわからない。何しろ、数十メートルほどの長さのワイヤーが、持ち主なしに動いて図を描くのだから。

 これが新手の罠かと疑うのか簡単で、けれどロクサナの心が違うと告げていた。心によぎった一抹の再会の予感から目をそらすように、ロクサナは矢印で示された先へと来た道を引き返す。

 銀糸がきらめく。揺れ動く糸が壁に図を刻み、ロクサナに道を指し示す。強調するように揺れる銀糸が示すは、壁の奥へ向かえというような遠近感のある上向きの矢印。矢印の先端に感じたわずかな既視感に従って、ロクサナは壁に触れる。そこに、わずかな凹凸を感じた。何かの、模様のようなものだった。

 それは、ロクサナの勘が正しければワルプルギスの拠点へと通じる壁に共通するものだった。


「……お願い」

『いいだろう』


 端的に言葉を交わしたレッドドラゴンの意思が、ロクサナの指が触れる先へと魔力を送り込む。わずかに赤い光を放った鎧から伸びる軌跡が壁に触れ、瞬間、壁が淡い白色に発光する。

 ゆっくりと、壁が開く。巧妙に偽装された通路がロクサナの前に現れる。そして、どこからともなく現れた新たな銀の糸が、その奥に向かって進んでいく。

 逡巡も見せず、ロクサナは進む銀糸を追うようにして闇の先へと向かった。





 細い、松明で照らしても視認困難な無数のワイヤーが禁忌監獄の中を進む。その糸は、牢獄の中で無気力にうごめく魔女たちの首に絡みつき、その命を終わらせる。そして、上階で起こった騒動へと駆け付けようとした騎士の首を刎ねる。

 魔女に救い(死)を、騎士(王国)に復讐(死)を。

 うごめく銀の糸の先を片手でつかみながら、ディアンは一人闇の中を歩く。隠されてきた禁忌監獄の秘密通路、誰も使ってこなかった暗い道をたどって、彼は一人歩いていく。

 ふと、彼は来た道を振り返る。そこには誰もいない。何もない。ただ闇だけが続いている。

 目を閉じたディアンは、少しだけ嬉しそうに、楽しそうに笑って、ワイヤーの一つに魔力を送り込む。

 誰も、アヴァンギャルドの者も、騎士も、師匠も、ディアンが魔女であることを知らない。極微量な魔力しか宿していないディアンは、魔女だと気づかれない魔女だった。もっとも、それが理由でディアンは己が魔女であることをアヴァンギャルドに入るまで理解していなかった。

 怪盗である師匠の下で訓練をしているとき、彼女はディアンがひどく器用であることに感嘆した。特にディアンは、糸の操作が非常にうまかった。まるで生き物を操るようにディアンはワイヤーを動かして敵を切断し、隙間から通して閉ざされた扉を開いてみせた。

 それは、魔法だった。操糸魔法。微量な魔力を送り込んで支配下に置いた糸を自在に操作する魔法。支配した糸は、ディアンの感覚を広げる。糸に伝わる音が、魔力が、禁忌監獄にやってきたその人物の存在をとらえていた。

 わずかななつかしさのまま、ディアンは苦笑するようにこぼす。あいかわらずっすね、とつぶやき、けれど来た道を戻ることはない。

 再び行く先へと向き直ったディアンは、もうその顔に笑みを浮かべてはいなかった。

 その暗い瞳は、何も語らない。


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