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白百合の涙  作者: 雨足怜
魔女編

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76/96

76トレント

 それは、ほんの些細な違和感だった。

 王都に向かって走る荷馬車の上で、キルハは顔を上げて周囲を見回す。アヴァンギャルドの中で培った勘、嫌な感覚をつかんでいた。少しずつ、気づかれないように忍び寄っている危険の気配。魔物か、騎士か、あるいはまったく別の何かか。

 貸馬車の御者を見る。この仕事を続けて三十年というベテランの男からは嫌な感じはしない。キルハたちの正体に気づいていたり、騎士たちに魔女を突き出そうとしたりといった様子じゃない。聞こえてくるどこか調子はずれな鼻歌は、そんな警戒を吹き飛ばして余りあるものだった。

 それならば何かと、キルハは周囲にあるものをつぶさに観察する。踏み固められた道は土肌が露出しており、ところどころわずかかにくぼんでいる。そのたびに馬車が小さく跳ね、乗り心地は悪い。道の左側にはうっそうと生い茂る森、右は草原。森の外延部に沿って続く道の先にも、怪しい人影はない。


「……気のせい?」

「どうしたの?」

「ロクサナ、何か変な気配を感じたりしない?こう、姿を隠した魔物がいたりとか」


 ロクサナの鈍感さには信用を置いているキルハだが、彼女もまたアヴァンギャルドで戦い抜いた歴戦の猛者だ。その戦闘経験がもたらす感覚が何かを見つけ出す可能性はなった。

 右を見て、左を見て、馬車から身を乗り出して、目を細くして道の先をにらむ。


「何もなそうね」

「本当に?」

「そう、だと思うけど」


 不思議そうな、けれど険しい顔でロクサナはつぶやく。

 禁忌監獄に二人だけで奇襲をかける。そのせいで緊張しすぎたあまりありもしない危険に敏感になっているだけだと、そう笑い飛ばせればよかった。だが、少なくとも索敵能力はロクサナよりキルハの方が高い。キルハが警戒を強めている以上、何かある可能性は高かった。

 そして、それは正しかった。

 ガクン、と馬車が大きく跳ねる。道に伸びていた樹木の根を踏んでしまった馬車は少しだけバランスを崩しながらもそれを乗り越えようとして。

 瞬間、根が地面よりその先端を持ち上げて馬車の車輪に絡みついた。馬車の動きが止まり、後部が浮き上がる。

 強烈な力で背後へとひかれて、馬がバランスを崩す。御者台から転げ落ちた壮年の男が悲鳴を上げる。

 どうと倒れ伏したその音と同時に、ロクサナとキルハは馬車から飛び降りて植物の根へと剣を振るう。

 ぐにゃぐにゃと意思をもって動く根はトレントのもの。

 樹木の魔物。トレントはその枝や根を自在に動かし、鋭い先端で獲物を刺し貫き、あるいは首を絞めて獲物を殺す。その隠密性と奇襲性は驚異の一言であり、ただの木だと思っていたものが瞬間にして牙をむくのだから、人間にとってはただの獣のような魔物以上に危険度の高い存在だった。


「来るよ!」

「わかってる!」


 道の脇に生えていた樹木がその枝をしならせる。バキバキと音を立てて剥離した幹の先、目と口のような洞が現れる。

 揺れる枝が二人に襲い掛かる。ロクサナが迫る枝葉を切り払う。鞭のようにしなる枝を切り落として作られた隙間にキルハが身をねじ込む。

 上下左右から押し寄せる枝と根の攻撃だが、それが届くよりも早くキルハは前へと走る。迫るキルハを、トレントはとらえられない。

 目前に迫ったトレントの幹めがけて、キルハは魔具でもある己の相棒の剣を振りぬこうとして。


「キルハ!」


 即座に横に跳ぶ。キルハがいた場所を、強烈な密度で地中から伸びた根が貫く。その量は、明らかに目の前のトレント一体のものではなくて。

 周囲に生えていた木々が、風もないのに一斉にその枝を震わせる。


「嘘!?」

「離れてッ」


 そばにある木のすべてがトレントである。その事実に驚愕したキルハの動きが少しだけ遅れる。その瞬間、地面から生えたトレントの根がキルハの足に絡みつく。

 とっさに剣で切り払ってその場から飛びのくが、壁のように迫る無数の枝をよけるには至らない。剣を振るおうにも体勢が悪く、迫る攻撃の密度の前には焼け石に水だった。

 万事休す。だが、そこに割り込んだロクサナが片手でキルハの襟首をつかみ、かばうようにその体を背後へと引く。


「ロクサナ!?」

「う、ぐぅぅぅぅッ!?」


 片腕でふるった剣で数本の枝を切り飛ばすも、その攻撃のすべてを防ぐことはできなかった。鋭利な枝が、先端を切り落とされた枝がロクサナを襲い、その体を貫き、あるいは強烈な打撃を浴びせる。

 ロクサナの肩と脇腹を貫いた木の枝を切り落とし、キルハは抱き寄せるようにして背後へと飛ぶ。

 木の根が追ってくる。だが、それは無限に伸びるわけもなく、キルハの頬に触れたところで伸び切ったようにピンとなって動きを止めた。

 バックステップ。ロクサナを片腕で抱いたまま、キルハはトレントから距離をとる。その手を、ロクサナの腹部から漏れる血が汚す。

 歯を食いしばるキルハの耳に絶叫が届く。視界の端、御者の男と馬がトレントの枝にからめとられていた。

 間に合わない――両者を切り捨てる選択をしてキルハはトレントから逃げるために街道を走りだす。

 トレントは動きが遅い。ゆっくりと根を動かして大地を進むことはできるが、それはロクサナを抱えて走るキルハに追いつけるようなものではない。

 このまま逃げ切れる――その考えは、少しばかり甘かった。

 突然の先頭に、キルハは思考が止まっていたのか。なぜこんなところに大量のトレントが存在するのか、その理由を考えていたのならば、結果は少し違ったかもしれない。

 一瞬、キルハの視界に影が落ちる。鳥か何かが太陽の光を遮ったのかと、そう思って。

 トレントたちの群れの向こう側から山なりに飛んだ球体――人間の頭部くらいの大きさの果実が、キルハの走る先に落ちる。

 見たことのないトレントの攻撃を前に、警戒を強めたキルハの視線の先で、真っ赤な果実から白い根が生え、地面に突き刺さる。ひょっこりと双葉が生えたかと思えば、次の瞬間には勢い良くその背丈を大きくしていく。


「な、ぁ!?」


 一瞬で若木となったトレントがキルハに向かって枝を振るう。とっさに回避して、流れるように若木の幹を切り裂いて横を走り抜ける。感じた手ごたえにほっとしたのもつかの間。

 無数の影がキルハの頭上を飛び、進路に落下する。色とりどりの、けれどどこか非現実的な原色一色の果実たちが勢いよく芽吹き、若いトレントとなってキルハの前に立ちはだかる。

 ばかげた成長速度と攻撃の密度を前に、キルハは足を止めて防戦する。

 迫る枝が腕を打つ。歯をかみしめて痛みをこらえるキルハは、焦りをあらわに剣を振るう。ロクサナの体からこぼれた血で、キルハのズボンがべっとりと服に張り付く。

 それは間違いなく致命傷。死んでも時間が巻き戻って生き返ると理解はしている。ただ、だからと言ってこのまま何もできないままでいる気はなかった。

 恐怖していた。キルハかつて、これほどにロクサナの死を実感したことはなかった。せいぜい目の前で魔物に殺される姿を見た程度だった。

 こぼれる血の温かさが、吐き気を催すほどの血臭が、少しずつ弱まっていく脈拍と浅い呼吸が、ロクサナの死を伝えてくる。

 そして何よりキルハが恐怖していたのは、ロクサナの記憶の喪失にあった。

 ロクサナの蘇生の代償の記憶。それは時に、ロクサナから大量の過去を奪っていく。その代償が、キルハという個人に関する記憶のすべてである可能性だってあるのだ。何しろ、キルハはそうしてロクサナに忘れ去られたアヴァンギャルドの者を知っている。ある日から唐突にロクサナの口から上がらなくなった亡き師匠の存在が、その絶望の可能性を強くしていた。

 ロクサナを死なせたくない。死ぬとわかっていてもあきらめたくない。魔法があるからと妥協などできない。

 その焦りのまま振るった剣が、倒れこむように迫るトレントの幹に深く突き刺さる。


「しま――ッ」


 抜けない剣から手を放す。大地に倒れたトレントはそれによって刃が体を貫通して絶命するも、代償にキルハの剣を奪い取った。

 倒れたトレントの枝で切られた頬から血を流しながら、キルハはひどく引きつった顔をしていた。魔具の剣を失い、手持ちにあるのはナイフのような刃渡りの短いものばかり。これでは一撃でトレントを倒すことができない。

 トレントの討伐方法は、幹を両断すること。ナイフでそれをなそうと思えば一体どれだけ得物を振るうことになるというのか。一体を相手にするならともかく、複数体と戦う状況でそれをなすのは不可能と思われた。

 宙を舞う果実によるトレントの増加は止まったが、それはキルハたちの逃げ道を封じたから。止まったということは、急成長するトレントの種である果実は、何かの代償を持っているということで、無限に使用できる手段ではないことを意味していた。

 若木に囲まれ、背後からはゆっくりと成長したトレントの集団が近づいてくる。絶望的な状況の中、トレントの数に限りがあるということだけが救いだった。


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