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白百合の涙  作者: 雨足怜
魔女編

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75/96

75末路

 暗闇の中に軽快な足音が響く。感情の乗っていないうめき声の中に混ざるリズミカルな音がぴたりと止まる。

 通路が行き止まりになっていることに気づいたディアンは、けれど引き返すことなく壁に手を触れ、何かを探す。

 隠密能力に秀でたディアンは、騎士たちの隙をついてここ禁忌監獄の地図を手に入れて、侵入してきていた。頭の中に叩き込んだ地図には詳細な情報は書かれておらず、けれどこの先に道があることはわかっていた。

 地図を盗み見られることへの対策として行き止まりの突破方法を口頭のみで伝達することにしたのだろうが、この手の隠し通路を暴くことはディアンの得意分野だった。

 壁の一部に引っ掛かりを発見。その隙間の奥へと指を押し込めば、扉の向こうでかちりと何かが嵌る音が響く。

 壁の中で魔力が動く。まるで何か回路のようなものがあるように指向性をもって進む魔力が行き止まりの壁全体へと魔力を伝わらせ、行く手を阻む石壁が中央で二つに割れ、その先に闇が現れる。


「……もう少し凝った作りにはできなかったんすかね」


 やれやれと肩をすくめるディアンだが、一切警戒レベルを下げていない。ますます意識は研ぎ澄まされ、細められた目が闇を見抜くように通路の先をにらんでいた。いつでも腰吊るしてあるナイフを抜き放てるように意識しながら、ディアンはゆっくりと開かれた道の先へと進む。

 先ほどの通路は、魔具と呼ぶべき壁で閉ざされていた。けれど実のところ、あのような仕掛けはそれほど珍しいものではない。特に、この王国が建国される前から存在する建物には、あのような仕掛けが、あるいは壊れたその痕跡があったりする。

 それは、ワルプルギス王国時代に作られた建造物に時折用いられた魔具の仕掛けだった。つまり、ここ禁忌監獄もまたワルプルギス王国時代、あるいはそれ以前に建造された場所だった。巨大な縦穴、その周囲に螺旋を描くように通路が下へと続いており、通路の左右に牢獄が無数に並ぶ。先ほどの通路手前までを上階とするのであれば、ここから先は下階。その変化は、通路の片側の壁が消え去るという形であらわされた。


「……落ちたら下まで真っ逆さまっすね」


 底の見えない暗闇を見ながらつぶやく。その声音に、けれど恐怖はない。

 縦穴の周りを掘り進めたように存在する通路から見下ろす先、緩やかに乱戦を描いて続く下の通路をにらむ。鍛え上げられたディアンの視力は、闇の先でわずかに揺れる炎を見た。おそらくは騎士、あるいはその関係者と思われる者たちだが、ディアンの侵入に気づいた様子はない。

 足音を殺し、静かに進む。気配もなく、音もなく、闇に紛れるその様は凄腕の暗殺者のよう。けれど彼は怪盗、あるいはその弟子だ。

 足を止める。通路に突き出した壁の陰に身を潜め、その先で揺れる炎の光に照らし出された研究者風の者をにらむ。血の跡がこびりついた白衣をまとう者たちは、牢屋から誰かを連れ出そうとしていた。

 二人の男に腕をつかまれて引きずりだされた女を見て、ディアンは少しだけ目を見開く。その瞳は、ただひたすらに闇に染まっていた。

 ゆらりと、ディアンが壁の陰から踏み出す。一瞬にして距離を詰めたディアンは、真っ先に明かりを持っていた研究者の首をへし折り、その体ごと松明を縦穴へと押し出す。

 幅四メートルほどの通路の先に男が転落したことで、床に光がさえぎられて視界が闇に染まる。

 パニックに陥った研究者たちが悲鳴を上げようとしたその時には、彼らの喉にはナイフが突き刺さっていた。

 崩れ落ちる研究者たちの体から血が床にあふれていく。血だまりに沈む男たちを見下ろしていたディアンは、彼らの死体を穴へと投げていく。遥か下、地面に落下した男たちの体がつぶれる音がむなしく響く。

 視界から遺体が消えた時点で、ディアンの頭の中から彼らの存在は消え去った。地面に倒れて動かない虜囚の女へと歩み寄り、その顎に手を添えて顔を上げさせる。


「………そう、っすか」


 鋭く細められたその目に宿る感情はうかがえない。ただ、その短い一言には、言葉にでいない途方もない感情が込められていた。

 ただ息をするばかりの女。いつから禁忌監獄に閉じ込められていたのか、体からは悪臭が香り、髪は伸び放題、衣服もボロボロ。触れた皮膚がひどく脂ぎっていた。それでも、その顔にある面影は、ディアンの記憶を激しく揺さぶっていた。


「ほんと、何やってんすか、師匠……」


 か細い、苦悶の声が漏れる。師匠と呼ばれたその女性はディアンを見ない。その心は、魂は、すでに壊れていた。魔力を無理やり吸い出された彼女は、もう自我を宿していない。ただ生理現象を行うだけの生きる屍だった。

 ディアンは、怪盗を名乗る女性に拾われ、後継ぎとして育てられた。その生活は今も鮮烈にディアンの記憶に刻まれている。楽しかったのだ。やっていることはただの悪行であっても、その時間は、ディアンにとって非常にいとおしいものだった。

 それは、師匠である女性との事件だったからだ。二人でいれば、何でもできる気がしていた。王国だって相手取れる気がしていた。

 それは、幻想だった。

 ディアンは捕らわれた。そして、アヴァンギャルドに入れられた。

 師匠は、ディアンを助けなかった。その、はずだった。

 けれどディアンの師匠である女性は、今確かにディアンの目の前にいた。

 光のない瞳が痙攣するように揺れる。一瞬、その瞳がディアンをとらえたような気がした。それは、気のせいだったかもしれない。けれど、ディアンはほんの一瞬、無表情な女性の顔に、わずかな笑みが浮かんだのを見た気がした。

 ズゥン、と頭上で振動が響く。剥落した壁の土が穴を通って下へと落ちていく。巨大な岩が、鉄格子のなれの果てが、穴の下へと落ちていく。

 顔を上げる。暗闇の先、うごめく触手状のものがディアンの目に映る。


「始まったっすね」


 それは、ディアンがアベルに飲ませた薬の効果だった。体内に魔物の因子を取り込み、肉体を魔物のものに変えるおぞましい下法。キルハの奥の手であったそれは、けれど二度目の使用を想定した濃度の高いものだった。体に免疫がついて発動できないことを危惧したキルハが濃縮していたその樹化呪術薬に含まれた大量の魔物因子は、アベルの制御を離れて暴れていた。

 体が肥大化、無数の植物の枝が伸び、大地を砕く樹木の根のように禁忌監獄の壁に突き刺さり、穴をあけ、破壊を始めた。

 上から、下から、わずかに騒がしい声が聞こえてくる。まだ下に王国側の人間がいることに気づいたディアンは、わずかな逡巡の後、師匠の体を抱き上げる。

 そうして、ゆっくりと穴へと向かう。女性は抵抗しない。意思なき女は、ただ黙ってディアンの行為を受け入れる。

 穴の先に、その腕を伸ばす。女性が、小さくうめく。


「さよならっすね。あんたはきっと、生き恥をさらすよりはよっぽどましだっていうっすよね?」


 返事はない。そのことに落胆はない。ただ、もう一度自分をその目に映してくれないかと思いながら、ディアンはその手を放そうとして。


「あ、うぁ……」


 女が呻く。その声と同時に、体から魔力が迸る。

 女が纏う衣服がほつれ、糸に戻る。空中で寄り集まった糸が女とディアンの体をつなぐ。

 わかっていた。この状態になっている時点で、師匠が魔女であったことはわかっていた。そして、発現したその力に、ディアンは少しだけ運命を感じて笑った。


「あんたも魔女だったんすよね。いや、ほんと、人生は予想のつかないことの連続っすよ。ねぇ、そうは思わないっすか?」


 女は答えない。ただ、己を失ってなお死を拒むように互いをつなぐ糸を強固にしていく。

 だが、意思なき呪術が生み出した蜘蛛の糸は、女をつなぎとめるには弱すぎる。

 ヒュ、と。どこからともなく飛んできたナイフが女とディアンをつなぐ糸を切る。

 ディアンが、腕を話す。女の体が、落下を始める。

 救いを求めるように、女が手を伸ばす。その手を、ディアンはただじっと見つめていく。

 ディアンでも見通せない闇の先に女の姿が消える。それと同時に、頭上から岩が雨のように降ってくる。


『オオオオオオオオオオオ』


 アベルが、アベルであり魔物でもある何かが咆哮を上げる。

 女の最期の音は、聞こえなかった。崩落する岩石に飲まれて、女は闇の中で散った。


「これで、ようやく終わったっすね」


 寂しそうに告げるディアンの頬を一滴の涙が伝い、闇の底へと落ちていった。縦穴に背を向けたディアンは、誰はばかることなく歩き出す。その体を、その人生を縛る鎖は、心に刺さった楔はもう存在しない。

 すべてを終わらせたディアンは、崩壊を始めた天井の崩落の先に姿を消した。


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