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白百合の涙  作者: 雨足怜
魔女編

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74地底での再会

 掌から剣を抜く。這いつくばって鉄格子に近づき、その先、通路を挟んだ反対側にいるアベルに向かって手を伸ばす。少しでも効率よく呪術を発動できるようにと。


 想いが、消えていく。風化するように、マリアンヌの記憶が無価値なものになり、そこに込められていたマリアンヌの感情がなくなっていく。

 既に貴族時代、アヴァンギャルド時代に培った想いは消えている。親愛、友情、仲間意識、そういったものすべてを燃料として炉にくべて、マリアンヌは癒しの力をひねり出した。それが、マリアンヌの呪術に必要な代償だから。


 だが、足りない。アベルの体を癒すには、死線の上を行き来する彼を安全な状態までもっていく前に、アベルが死んでしまいそうだった。

 想いが、枯れていく。心が灰色に染まっていく。これ以上は呪術を使うなと、魂が警鐘を鳴らす。

 現実を突きつけるように刺し貫かれた掌がジンジンと痛む。痛みのせいで途切れそうな集中を何とかつなぎとめて呪術を維持しながら叫ぶ。


「わかってるわよ、でも、ここでやらずにいつ立ち上がるのよ!?わたくしが呪術を手に入れたのは、きっと今、この時のためにあったのよッ」


 嫌だと叫ぶ心に鞭打って、マリアンヌはアベルと培った想いを燃料にする。温かな日々の記憶が急速に色あせていく。アベルへの親愛、恋情が、愛情が、消えていく。

 もういいんじゃないか――心がささやく。こんな男を癒すより、自分の傷を治療すべきだと心が告げる。こんな男と、そう表現するほどに既にマリアンヌの中でアベルという存在はちっぽけなものになっていた。

 アベルのことが好きだったという記憶はあって。けれどそれが全くの他人事であるかのように感じる。むしろ吐き気さえ覚えていた。自分は本当に、こんな変態(ドM)のことが好きだったのかと、マリアンヌは己に問う。問いながらも、呪術を止めることはしない。それが、つい先ほどまでの己の望みだと理解しているから。


 冷たい石畳の上に、掌にあいた穴から流れ落ちた血がたまる。広がる赤は、ひどく不吉だった。

 涙で視界がにじむ。どうして泣いているのか理解できないまま、マリアンヌの頬を一筋の雫が流れ落ちる。

 アベルが苦悶の声を上げたのと、遠くから石畳を踏む足音が響いたのは同時だった。


「ッ!?」


 とっさに闇の先をにらむマリアンヌの耳が続く足音をとらえる。その音は、少しずつ大きくなっていった。

 先ほど帰ったばかりのジークヴァルドが戻ってきたのかと思って。激しい怒りを飲み込みながら、マリアンヌはその人影が現れるのを見る。

 やがて、闇の向こうから姿を現した人物を見て、マリアンヌは大きく息をのんだ。

 知っている顔だった。つい最近まで、交流のある相手だった。戦友であり、裏切り者。アベルと意気投合していた、靴下愛好家の変態。


「……ディアン!?」


 驚愕に、呪術の維持ができなくなる。慌てて再会しようとするも、もうマリアンヌの体には魔力が残っていなかった。


「久しぶりっすね。元気そうで何より……とは言えないみたいっすけど」


 懐かしい軽薄な言葉に涙腺が緩む。目の前にいるのが自分を裏切った相手だと思い出せば、胸に満ちた熱はすぐに冷めた。

 救援にわずかに期待した心は、けれどその落差に悲鳴を上げていた。

「……何を、しにきたのよ。捕まったわたくしたちを笑いに来たわけ?いい趣味をしているじゃない」

「ふんふん、意外と元気っすね?」

「うるさいわよ、裏切り者。よくもぬけぬけと顔を出せたわね。っていうか、一応元アヴァンギャルドのあなたがよくもまあこうして自由に行動することが許されているわね」


 罪人として捕らえられているのであれば、ディアンと禁忌監獄はぴったりの相性をしていた。けれど牢獄の外を悠然と歩くというのはおかしい。見張りがいるのかと闇の奥へと目を向けるが、そこには気配の一つもありはしなかった。


「……あなたは何がしたいのよ?」


 焦燥感に駆られながらも、今を逃せばもう機会はないだろうからと問いかける。

 それは、ずっとマリアンヌの心の中にあった思いだった。いや、ロクサナもキルハも、アベルも抱えているだろう疑問だった。どうしてディアンはアヴァンギャルド崩壊のその日、騎士たちに与する道を選んだのか。

 その言葉を聞いたディアンは、けれどその顔に浮かべた軽薄な笑みをゆがめることなく、ただ肩を竦めて見せるばかりだった。


「ボクにはボクの目的がある、ただそれだけのことっすね。騎士なんて知ったことじゃない」


 その言葉は、やっぱり軽薄な響きを伴っていたけれど、なんとなく心からの言葉のようにマリアンヌは感じていた。ディアンの目的――ふと、もうずいぶん前に感じる話を思い出した。夜の森の中で交わした言葉。


「やっぱり、師匠さんが関係しているのかしら?」


 元怪盗の弟子であるディアンは、師匠との再会を目指してマリアンヌたちを一時共闘する道を選んだ。その道を違うというのなら、騎士たちに協力することで師匠と再会することができるなら、ディアンは憎き騎士と手を組むかもしれない。

 果たして、ディアンはただ肩を竦めて、肯定も否定もしなかった。


「無言は肯定と取るわよ」

「そうっすね。別に、間違ってはいないっすよ。ただ、正しくもないっすけど」


 なぞかけのように話すディアンは、そこで一呼吸おいてマリアンヌから視線を外す。対面の牢屋、そこに倒れるアベルを、悲しそうな目で見つめる。

 ゆらりと、持ち上げられた腕が何かをふるう。金属が悲鳴を上げ、アベルを閉じ込めている牢屋の鍵がごとりと落下した。


「……は?ちょっと!」


 マリアンヌの困惑をよそに、ディアンはアベルのもとへと歩み寄り、その肩をゆする。わずかな苦悶の声が口から洩れる。


「ギリギリっすね。……アベルさん、起きてるっすか?ほら、痛み(快楽)を与えてあげるっすから覚醒してください」

「……ぁ、」


 意識は、あった。わずかに開かれた瞳は、けれど焦点が合っていない。震える唇からは言葉が紡がれることはなく、ただ浅い呼吸が漏れる。


「よかった。間に合ったっすね。さて、アベルさん。同じ変態のよしみとして、選択肢を上げるっすよ。このまま死ぬか、おぞましい下法にその身を染めるか……どちらを選ぶっすか?」

「まさか、アベルを助ける方法があるの!?」

「静かにしてくれないとアベルさんの声が聞こえないっすよ」


 おぞましいなどと言いながらも、ディアンはひどく楽しそうに体を揺らす。濁った瞳は、けれど一瞬マリアンヌの方を見て、それから一層鋭い光を宿してディアンを射抜く。


「……ぁる」

「あれ?ひょっとして、ひょっとするっすか?」

「何よ?」

「いや、アベルさんが恋愛感情でも抱いているのかなって」

「わたくしたちは恋仲よ?」


 ただの事実だと端的に述べるマリアンヌを見て、ディアンは首をひねる。彼はもっと、恥ずかしそうに微笑を浮かべながら告げると思っていた。だが、マリアンヌの顔には苦々しさと決意がにじむばかりで、甘酸っぱい感情など少しもうかがえない。

 そんな感情は、もうマリアンヌの心には存在しなかった。

 そのことがつらくて苦しくて、アベルと恋仲だったという事実に吐き気を催しながらも、マリアンヌは敵に弱みを見せるものかとにらみ続ける。


「そうっすか。いやぁ、少し目を離していた隙に完全に置いて行かれちゃったっすね。ま、変態でも未来を紡げるっていうのは、救いと言えるっすかね」


 遠くを見つめる目で天井を見上げたディアンが寂しそうに笑う。その表情の訳を問いかけるよりも早く、ディアンは懐から取り出したガラス容器をアベルの視界に映す。


「さて、お望み通り力を与えるっすよ。といっても、これはボクじゃなくてキルハさんの奥の手っすけど。いやぁ、あの時掏っておいてよかったっすね。まさかこんなところで役に立つなんて」

「キルハの、奥の手?」

「そうっすよ。魔物の因子を取り込んで肉体を魔物のものへと変える……樹化呪術薬といったところっすかね?」


 それは、アヴァンギャルド崩壊の日に、キルハが見せた奥の手だった。自らの肉体を樹木に変え、手数と再生能力を手に入れたキルハは非常に強かった。最も、そんなキルハをディアンはたおしてみせたのだが。

 液体が、アベルの口内に流れ込む。それが喉の奥に消えたのを確認してから、ディアンは軽く膝についた砂を払って牢屋から出る。


「……どこへ行くのよ?」

「どこへでも。ああ、その薬、たぶん効果を発揮するまでに少し時間があるっすから、それまでは待ちっすよ。それじゃあ、これでさよならっす」


 背中を向けてひらひらと手を振るディアンは、禁忌牢獄、そのさらに底に向かって歩いていく。その背中が闇に消えるまで見送ったマリアンヌは、それからアベルのことを思い出し、小さな変化の一つも見逃すまいと目を皿にして観察を始めた。


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