62生きること
レイラが、死んだ。その事実は衝撃を持って私の心を粉々に打ち砕いた。
恥ずかしげに微笑むレイラの顔を思い出した。困ったような顔で袖を引っ張る姿が脳裏をよぎる。楽しげな笑い声が耳の奥で響いていた。
その全ては、もう過去のものになった。
レイラは、死んだのだ。
喪失感が足下から這い上がる。突然地面が消失して、ぽっかりと開いた闇に飲み込まれたように感じた。
世界が、薄闇に染まっていく。視界から色が消えた。全ての音が意味を失い、溢れた感情で心壊れるのを防ぐために、私は考えるのをやめた。
ただぼうっと、無事だった屋敷で日々を過ごした。
遠くからは、相変わらず絶望にすすり泣く声や、新たな生活のために奔走する活気ある声が聞こえて来た。
私は、涙一つ出なかった。私の心は、どうしようもなく壊れているらしかった。
「……ロクサナ。もう夜だよ」
気づけば視界は夜闇に染まっていた。もうすっかり耳になじんだキルハの声が聞こえた。気遣いの言葉の奥には、大きな悲しみがある気がした。
「…………わかってる」
自分の体ではないように思えるほど、声が上手く出なかった。そう言えば、もう何日も言葉を発していなかった気がする。
今日はブラックドラゴンの襲撃から何日後なのだろうか。
まあ、どうでもいい。レイラの死に比べれば、全てがどうでもよく感じた。キルハの気遣いさえ有難迷惑だった。
放っておいてほしかった。
私は、呪われているのだ。こんな私が分不相応な幸せを求めて、偶然それを手に入れてしまって。
だから、神か何かが私に不幸をもたらしたのだ。私から、幸福な日常を奪い去っていったのだ。レイラの命が、奪われたのだ。
ブラックドラゴンは、私を狙ってこの街に襲い掛かった。私のせいで、この街は襲われた。多くの人が死んだ。レイラも死んだ。それは、私のせいだ。私がこの街に居たから。
――私が、レイラを殺した。
こんな私なんて、消えてなくなってしまえばいいのに。私の命を捧げてレイラが生き返るなら、私は喜んでこの命を断とうと思う。
レイラ、レイラ。私をおかあさんと呼んで慕ってくれた彼女は、もういない。私の幼馴染の娘であり、おそらくは私の弟の子どもである彼女は、もういない。
ああ、レイラの母を見つけ出そうと思っていたのに、それももう何の意味もない。レイラに、母親と再会させてあげたかった。本当に今も生きているのか、どこにいるのかもわからない彼女を、見つけ出そうと決意したはずなのに。
全てが、手のひらの中から零れ落ちていく。
全てが、失われていく。
ああ、もう、どうでもいい――
夜の涼しい風が頬を撫でる。
空に昇った丸い月に照らされながら、私はそっと目を閉じた。
ぽっかりと、心に穴が開いたような思いだった。
気づけば、誰かを探していた。これまで当たり前のように平穏な日常の中にいて、平穏な日常の象徴となりつつあった彼女の姿を、目で追い求めていた。
レイラ。彼女は、ブラックドラゴンとの戦いの中で死んだ。
いや、死んだと、確実に決まったわけじゃない。でも、たぶん、彼女はもう、生きていない。
レイラと一緒にいた少女曰く、レイラは夥しい血を流し、絶望的な状況にあったという。無事なわけがない。無事であれば、とっくに帰ってきているはずだ。
わかっては、いる。レイラはもう死んだ。そう、わかっているのに。
僕はまだ、心の中でレイラは生きているのではないかなんて、そんな希望を抱いていた。
まだ、レイラの遺体は見つかっていない。それだけが、全てだった。
だから今日も、僕はレイラの姿を追い求めて、街の中を彷徨う。
ロクサナに、元気な姿を見せてほしい。ロクサナに、元気になってほしい。レイラに、戻ってきてほしい。再び、ブラックドラゴンの襲撃前の平穏な日常を取り戻したい。
街には、悲しみが満ちていた。多くの人が死んだ。今も、がれきの中から遺体が見つかる。泣き崩れる人の嗚咽が響く。沈鬱な空気が、街全体に広がっていた。
夜。帰宅してすぐ、僕は庭のウッドチェアに座ってぼんやりと虚空を見上げているロクサナの姿を目にとめた。一瞬、その姿が死神のように見えた。あるいは亡霊。
生と死の境にいるような、そんな希薄さと不思議な気配をまとうロクサナの顔には、虚無があった。たぶん、大きすぎる悲しみに、心が麻痺しているのだと思う。
母と呼んで慕ってくれていた少女の喪失は、ロクサナの心を大きく揺さぶっていた。呼びかけるも、ロクサナの返事は軽い。まるで僕がここにいないように、ロクサナは僕を見ることもなく、黙って虚空を見上げていた。
その目が、横顔が、死を求めているように見えた。それは、最近隠れていたロクサナの本心の発露だった。
瞬間、僕はロクサナの体を強く抱きしめていた。
柔らかな体。甘い匂い。温もりが、僕の心に広がっていく。
「……痛い」
「ごめん」
腕を離そうとすれば、ロクサナはそれを止めるように僕の腕をつかんだ。
「違う、の。心が、痛い。苦しくて、悲鳴を上げている……はずなのに、涙も一つも流れないの。私は、こんなに薄情だったの……?」
呆然と、つぶやかれる言葉に、僕は返す言葉が見つからなかった。心の痛さを、悲しみをわかっている時点で、薄情などではない。ロクサナは、血の通った一人の人間だ。魔女だとか、そんなことは関係なく、今ここに生きている一人の人間だ。
けれど、そんな言葉をロクサナが求めているようには思えなかった。
たぶん、後悔しているのだと思う。たとえ足手纏いになってしまうとしても、レイラを連れて行けばよかったと。そうすれば、守れたのかもしれないのにと。
そうだ。僕たちは、レイラを戦いの場から排除して、それで守れたと安心していたのだ。だから、レイラに魔具の一つも渡すことをしなかった。
僕の、せいだろうか。僕がレイラの安全に配慮していれば、レイラは死ななかったのではないだろうか。僕が、ロクサナをこんな苦しみに陥らせているというのだろうか。
心が軋んだ。心臓が激しく鼓動を刻む。
苦しい。辛い。けれど、これは現実だ。これが、現実なんだ。
砂上の楼閣にある人類に、平穏は遠い。僕たちは、魔物という怪物たちにいつ滅ぼされてもおかしくない日々の上に、今日という日を生きている。
どうか、お願いだから。これ以上僕から、僕たちから、大切なものを奪っていかないでくれ。
そんな願いは、誰にも届くことはなく。絶望という形で僕たちの心に降り積もっていった。




