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白百合の涙  作者: 雨足怜
アヴァンギャルド編
6/96

6強襲

残酷描写があります。ご注意ください。

 レミがアヴァンギャルドにやってきてから、おそらくは二年ほど。その間、彼女は開拓を進め、土地を改良し、水を確保し、野菜の種を集め、耕した。


 その道のりは生半可なものではなかった。幾度にも渡る魔物の襲撃で小さな畑は踏み荒らされ、あっけなく無残な姿へと変貌を遂げた。当時は薬草畑としての側面が強かったレミの最初の畑は、さらにその芽を魔物たちに食い荒らされて完全に消滅した。

 二度目の挑戦では、野菜の栽培を試みた。だが、そもそも土地が汚染でもされているようで、持ち込んだ野菜は黄緑色の頼りなさげな双葉こそ広げたものの、そのまま枯れてしまった。

 そして、三度目の正直とでもいえばいいのか、レミの畑は成功した。


 成功して、はいよかったね――とはいかない。この人類生存圏外の森は、人類が生存できていないだけの理由があるのだ。それは言うまでもなく、まるで親の仇のように人類の姿を見つけると襲い掛かってくる凶悪な魔物たちの襲撃にあった。


 そんなわけで、あまり強い者が存在しないレミ一派に派遣されるような形で、私は今日も畑の護衛についていた。他の者は周囲の魔物たちを排除する遠征に出ている。

 私一人で畑を守れると判断されたことに、認められていると喜べばいいのか。あるいはまだそれほど強くない私に畑を任せるほどに、レミの畑への関心は薄いと嘆けばいいのか。ぐるぐると考えながら、私は警戒を続けた。


 やはりというか、まるで私たち人間の臭いでもかぎつけたように魔物はやってきた。突進して木の幹をへし折った存在が、一直線に畑に迫る。その進路に割り込もうとした私だったが、聞こえてきた怒号に足を止める。

 俺たちでやってやる、お前は引っ込んでいろ――レミ信者とでもいうべき男女の制止の呼びかけが聞こえた。私はいざという時のためにいつでも動けるようにしながら、彼らの戦いを見守ることにした。

 こうして比較的安全な状態で戦いの経験を積めるというのは、彼らにとってこの上ない好機だった。私が戦闘経験を積んだ際は、死なないとわかっていなかった最初から精鋭たちとともに狩りに出された。私は初陣であっけなく死んで、死ぬのであれば多少無茶な訓練を行っても問題ないと判断され、私は地獄のような訓練をすることになったのだ。

 口の中にねじ込まれるおぞましい味の毒のミックスジュースを思い出した。


 グオオオオオ――断末魔を響かせて、トリケラボアと呼ばれる魔物が地面に倒れた。顔の骨が横に大きく広がった、シールドバッシュを決めてくるような恐るべき突進を披露するイノシシの外見をした魔物だが、突進以外に取り立てて気を付ける攻撃はない。魔法も肉体の強化と、頭部を鋼鉄のごとく丈夫にするものだけで、突進を回避しながら頭以外を攻撃すれば簡単に倒せる魔物だった。

 まあ、あまり戦闘経験を積んでいない彼らにとっては激しい死闘だっただろう。


 トリケラボアの足は、畑まであと一歩のところまで迫っていた。トリケラボアを見事倒して見せたレミ信者の男が、槍を手に勝鬨を挙げた。

 やったぜ、守ってやった!魔物なんて怖くねぇ――そんな威勢のいいことを言いながら、彼らはまだ死んでいない魔物を前に勝利を分かち合った。


 魔物との戦いにおいてまずアヴァンギャルドで教え込まれることは、魔物は確実に息の根を止めて、かつ死んでからしばらくも決して残心を解いてはならないというもの。

 魔物の中には驚異の再生能力を持っていて瞬く間に回復して襲い掛かってくる化け物のような存在もいれば、そもそも私たちが想定する急所が急所でも何でもない魔物も存在する。さらに質が悪いのは、死を引き金に相手を道連れにしようと魔法を放ってくる場合だ。例えば私がかつて戦った魔物の中には、死の瞬間に首が切り離されて、分かれた頭部が空中を飛んで噛みつこうと牙をむくという、生物として明らかにおかしな存在がいた。無数の足を持つトカゲ――通称センチピードリザードは、そうして私の命を奪いかけた。

 最も、今こうして懐かしむことができることからわかるように、私は迫る頭を剣で叩き落として事なきを得た。もし生首に噛みつかれて死ぬようなことがあったら今、思い出して苦笑だけでは済まなかっただろう。


 そんなわけで、戦闘の最中以上に危険なのが魔物の死の瞬間だった。

 アヴァンギャルドの一員として鍛え上げられた動体視力だからこそ見抜けたほんの少しの身じろぎは、予備動作。

 勝利に歓声を上げるレミの信者たちは窮地にあった。


 私は彼らを救うべく、剣を片手に重心を前に傾けた。


 そんな私は、けれど走り出すことはなくその場に立ち続けた。

 私の横をまるで疾風のように走っていったのはレミだった。その年齢からはおよそ想像もつかない脚力を誇るレミは、おそらくは私以上の足の速さをしていた。それは、レミのこれまでの畑作の困難さを示していた。


 畑を作るためのすべての苦労を経て、レミは強くなった。例えば、畑の肥料を獲得するために、レミは魔物の骨粉を利用する方法を考え付いた。それは、魔物の骨髄には大量の栄養と、魔力が宿っているからだった。キルハ曰く、魔物は骨髄に魔力をためることで、およそ一般的な生物には発揮しえない強い力を獲得するのだという。骨に蓄えられた魔力は、ただそこにあるだけで全身を活性化し、あるいは骨から筋肉へと魔力を流すことで、その動きは瞬間的にさらに跳ね上がる。

 そんなわけで、レミは魔物の骨を手に入れて畑の土を改良するために、魔物を殺し続けた。殺して、骨を集め、キルハやその他研究者肌な者たちの協力を経て、骨からとてつもない性能を誇る肥料を作ることに成功した。


 そして、畑を魔物から守るために、レミはさらに己を鍛えていった。

 培った人生経験からくる、相手の次の動きを読む先読みの力と、風のような高速移動。鈍足な代わりに圧倒的な防御力を誇る魔物にこそ勝てないものの、大抵の魔物はレミの敵ではなかった。

 もはやアヴァンギャルドで十指に入るかという戦闘能力を得たレミが救出に向かった以上、私にできることは何もなかった。


 わずかに抜いた剣を鞘に納める。

 そして私は、体表を燃えるような赤銅色に変えて最後の攻撃を敢行しようとしていた魔物の首を刎ねるレミを横目に、畑の反対側の警戒が薄れた方向をにらんだ。


 ちりりと、首の裏にわずかなひりつきがあった。何度も死んで経験してきた、死の予感。脅威となる存在が接近しているのか、あるいは魔物狩りに出たアヴァンギャルドの精鋭たちの方に何か問題があったのか。いや、この感覚からすると私自身に死が近づいていそうだ。


 その方角は、キルハやアベルら主力が足を運んだ森の奥地であり、そして昨日ツインヘッドベアがやってきた場所だった。

 ツインヘッドベアは、頭二つというまともな生物とはかけ離れた姿をしている。二つの司令塔がいがみ合って肉体の制御すら危ういのではないかという予測とは裏腹に、非常に強い魔物だった。一方の頭が肉体を操り、もう一方の魔物が魔力を制御して恐るべき膂力を的確なタイミングで発揮したという。全身の骨に蓄えている魔力を移動させて足や腕に集め、それによって身体強化の魔法を使うこともなく魔力消費を極限まで少なくして戦い続けることが可能なのではないかとキルハが話していた。

 そしてそんな強い魔物は、私たちが拠点としている魔物の領域の浅い場所にはいないはずだった。何しろ、その手の強い存在は軒並み私たちが、あるいは先人たちが滅ぼしてしまっているから。


 つまり、ツインヘッドベアが現れたのは異常事態で。だからこそ、人一倍野菜料理にほれ込んだアベルを旗頭に、魔物の領域の異常の調査――あるいはタコ殴りに向かったのだった。


 バサバサと鳥が飛び立つ。黒い影が連なるそれは、まるで橋のように空に線を描いていた。空が割れたような不吉な光景を見せて、鳥たちは私たちの頭上を通過して、森の外延部へと飛んでいく。

 まるで、逃げるように。


 ぞわりと、背筋に強い悪寒が走った。

 疾風が吹きぬける。

 気づけばレミは血濡れた槍を杖のように地面に突き立てて、私のとなりに並んでいた。血の臭いは、たぶんレミの槍から香るものだけではなかった。


「強敵ねぇ。勝てるかしら」

「さぁ?姿も見えていないし、なんとも言えないよ」


 そんな軽口をたたいていないと気が狂ってしまいそうだった。ぎゅっと握った手の中はひどく湿り気を帯びていた。

 ドクン、ドクンと心臓が早鐘を打つ。全身がゆっくりと熱を帯び、思考が加速する。

 視界から色が消えていく。

 ひどく遠くの物音のようにすら思えるレミの声を聴きながら、私は森の先をにらんだまま肩をすくめた。


 無性に、アベルやディアンのどうしようもなくあきれてしまう言葉が聴きたかった。いつものようにろくでもない、変態的な彼らの性癖の話を聞いていれば、この身の中で広がっていく不安の芽もあっさり切り払われる気がした。

 けれど、ここに頼りになる彼らはいない。主要戦力は私とレミの二人。あとは、ともすれば足手纏いになりかねない、半ば農民と化した槍部隊が六人。

 絶望的な戦力差だった。


 ザザザザ、と激しい風によって枝葉が強い音を立てる。巻き上がった砂を含む風から守るように目を細くした。

 森が悲鳴を上げていた。木々がへし折れ、勢いよく倒れる破壊音が聞こえた。敵は歩くだけで森を破壊するような巨体だと判断した。その姿は高い木々と広がる枝葉に隠れて、まだ見えない。とはいえ少なくとも木々の高さを超える化け物ではなさそうだった。そんな存在が拠点に近づいていれば、アベルたちが気づかないはずがないから。

 あるいは彼らは、近づいてくる存在によって既に倒されてしまったのではないだろうか――そんな嫌な想像をしてしまって、体の芯を強烈な恐怖が通り過ぎて行った。


 瞼の裏に、血に濡れたアベルの姿が映った。生傷の絶えない彼は、両腕を失い、それでも気持ちよくて仕方がないとばかりに笑って――声が消える。その姿が、キルハに変わる。困ったように笑う彼の口元から、一滴の血が流れ落ちていた。その胸元には、ぽっかりと穴が開いていて、どくどくと血があふれていた。××××――キルハが、何かを言った気がした。私の名を、呼んだのだろうか。

 鼓動が早くなる。全身の産毛が逆立つ。足が震えた。

 震えをこらえるために、強く奥歯を嚙み締めた。


「ロクサナ、来るわよ!」


 大丈夫、とばかりにレミが私の拳を上から包み込むように強く握った。温かな、生きている者の感触が、恐怖に囚われた私の心を氷解させる。

 気づけば、ドスン、ドスゥンと重い震動が響いていた。


 レミの声によって現実に引き戻された私の視界の先、魔物の襲撃対策としてアベルたちが出かけに一時間ほどで切り広げていった畑周りの平野の先、見える緑の上に、土煙が立ち上っていた。


 怪物が、ゆっくりと近づいて来る。


 赤い輝きが見えた。熱を感じた。

 全身の鳥肌が立った。

 今すぐこの場から逃げないといけない――そう考えるよりも早く、体はその場から駆け出していた。手を開き、指を絡める。レミを引きずるようにして走り出す。


 そして、次の瞬間。

 世界が光に染まった。真っ赤な、夕日のような光。

 それはたぶん、炎だったと思う。土煙の先から一直線に放たれた灼熱の奔流は、射線上にあった木々を焼き払い、大気を焼き、異臭を発しながら私たちへと襲い掛かった。

 私は、その熱から逃れるように体勢を一層低くして地面すれすれを走り抜けた。レミの体が不思議と軽くなった気がしたけれど、振り向いている余裕はなかった。

 背後、体の上を熱波が通り過ぎた。一瞬で気化した大地の爆風に体を押されて、体勢が崩れた。十メートル以上ごろごろと地面を転がって、ようやく体が止まる。


 全身が激しく痛んだ。目が回って、胃の中のものが飛び出しそうだった。

 視界を開く。明滅していた焦点が、ゆっくりと線を結んでいく。

 異臭がした。空気が焼ける、恐るべき臭い。倒れながら顔を上げて世界を睨む。視界の先には、どろどろに溶けた赤い大地があった。炎が走り抜けた部分の地面が、大体五メートルほどの幅で焼け落ち、その線がどこまでも続いていた。

 そして、その熱は畑を焼き、どこか毒々しい色合いをした野菜たちの半分以上を一瞬で焼失させてしまっていた。残る野菜も、激しく燃え上っていた。

 そこには、炎の絨毯が広がっていた。レミが丹精を込めて育てた、私たち、そして人類の希望となるはずの畑は、あっけなく消滅した。けれど、レミがいれば、畑はまた作れる。レミが、いれば――

 死の臭いがした。立ち上る黒煙が、私の心を揺さぶった。私は、大丈夫ですかと、畑をこよなく愛するレミの様子を確認するために、握る手の先へと視線を向けた。


 予想は、していた。心のどこかで理解していた。軽くなった手の先。そして、地面を転がる中、レミの体が大地にぶつかることによる衝撃も、手を引かれる感覚もなかったから。予想は、していたけれど、その光景は衝撃をもって私の心の奥底の、まだ残っていた柔らかいところをえぐった。

 視線の先、私が握っているのは、レミの腕だけだった。肘より少し上のところで炭化して焼き切れた腕と、私は手をつないでいた。

 手は、動かなかった。まるで固まったように動かないまま、私は握る手の中に残るレミの手の平の熱を感じていた。その熱が、レミという命がそこにあった証明なのか、炎の熱なのか、わかりはしなかった。


 ゆらりと、体を起こす。硬直していた手から、レミの腕が落ちる。

 全身のあちこちが痛むだろうと、そう思っていた。

 けれど、体は少しも痛みを訴えることはなかった。そして、ようやく理解が追いついた。私は、今の一瞬で死んでしまったのだと。死んで、肉体の時間が巻き戻り、体に負った傷がなくなった。

 原因はたぶん、熱。業火の奔流によって焼かれた空気が、私を体の内側と外側から焼いて、脳が致命的なダメージを負って死んだのだと、そう思った。何しろ、今も周囲の大気は激しい熱を帯びていて、私の全身から汗を吹き出させていたから。

 私はさっと自分の体を見下ろして、傷がないことを確認した。かなり強く、そして丈夫な魔物素材の服は、表面がわずかに焦げているだけだった。

 そして、レミやその信者たちの姿を探した。


 見つからなかった。

 見つかるはずもなかった。

 大地すら焼き溶かす灼熱に直撃した彼らが、生きているはずがなかった。そう、予想はできていた。彼らは、射線上、私とレミの後ろにいたのだから。

 けれど、予想はできていても、彼らの死の事実は私の心に重くのしかかった。


 絶望した。世界を一層強く呪った。


 どうして私たちはこんな目にあっているのか。どうして私たちは、魔物などという化け物と戦っているのか。もし神などという存在がいるのだとすれば、その存在はきっとどこまでも自己中心的な、人間をモルモットのように見ている神だと思った。弱い人間が魔物に翻弄され、絶望し、それでもあがく姿を見て楽しんでいるのではないだろうか。


 怒りのせいか、自分の弱さに打ちのめされたからか、視界がにじんだ。泣くなと、そう自分に言い聞かせても涙は止まらなかった。周囲の大気に比べればひどく冷たい涙が、頬を伝って流れ落ちる。

 レミが死んだ。私の仲間が、私の記憶を覚えていてくれる存在が、また一人消えた。

 そして、私もまた死んで、わからないけれど、何かの記憶を新たに失った。喪失感すらないことに、私はさらに絶望した。

 けれど、絶望に打ちのめされて虚無に染まっていく私の心は、一瞬にして戦意に飲まれた。


 視界の中、巨大な影が揺らぐ。

 砂塵の先から姿を現したのは、高さ五メートルほどの、巨大な爬虫類だった。長い首を持ち上げる緋色のトカゲ。その背中には、右から左まで十メートルを軽く超える皮膜の翼があった。

 ドラゴン。魔物の中で最も有名で、たびたび人類を襲撃しては絶望の記憶を刻み付ける怪物が、そこにいた。まるでお前たちごときに空を飛ぶ必要性など感じないとでもいうように、トカゲ畜生はぞっとするほど感情の見えない金色の瞳で私を見ていた。シュルル、と口から舌が飛び出すとともに、その口内から炎がもれ出した。

 先ほどの灼熱の攻撃が、ドラゴンが吐いたブレスという魔法であったと、私はようやく理解した。

 理解して、そして。私は、自分一人ではどうしようもない強敵と相対していて、これから何度も死ぬことになるのだと、そう痛感した。

 魔物の中でも強者に該当するドラゴン相手に一人で立ち向かい、死なずに済むほど私は強くない。そもそも勝利を収められるかどうかもわからない。私一人では絶対に勝てないし、レミたちの復讐を果たすこともできない。だから、何度も殺されて、魂を苛む激しい痛みを感じて、死んで、記憶を失い、大切な過去を、忘れていることにも気づけなくなる。


 強烈な喪失感が押し寄せる。この戦いの果てに、私は大切な記憶を失うかもしれない。弟の、妹のような幼馴染の、両親の、故郷の記憶が、完全に失われてしまうかもしれない。

 怖くて、仕方がなくて。

 それでも私は、剣を強く握りしめてドラゴンめがけて走り出した。


 私の中には、怒りがあった。それは、死ねないことへの怒り。私を死なせてくれない、何者かの意思すら感じさせる呪いのような魔法に対する怒り。あるいは無力な自分に対する怒り。レミたちの仇を討つことができないかもしれないと諦観を抱いてしまった自分に対する怒り。そして、この期に及んで私をただの羽虫のようにしか見ていないような、戦意を感じられないドラゴンに対する怒り。


 私たちは地上をうろつくゴミじゃない。世界に巣くう癌のような存在でも、十把一絡げにまとめて吹き飛ばしていいような者でもない。私たちは、生きているのだ。辛くても、苦しくても、この世界を生きているのだ。

 そんな私たちを、ゴミを焼却するように消し飛ばしたドラゴンが、許せなかった。

 私たちだって、人類の生存圏を広げるために魔物を殺しているけれど。

 そのことを棚に上げて、私は強く剣を握りしめて走った。


「行くよッ」


 緩慢な動きで、ドラゴンが前脚を持ち上げた。私の視界に、影が落ちる。

 私は、その踏み付けから逃れるべく、あるいはドラゴンの胴体に接近するべく、さらに加速した。


 先人たちの戦いの経験が、アヴァンギャルドという組織の強みの一つ。語り継がれる様々な戦いと魔物の弱点に関する情報は、私にも受け継がれていた。すでにこの世を去った先輩たちの顔が脳裏に浮かんだ。

 ドラゴンは腹部だけが鱗に覆われておらず、たやすく傷つけることが可能だ――姉後肌の女性の声が聞こえた気がした。大剣使いの彼女は、そのドラゴンによって食い殺された。漆黒のドラゴン。


 腹の下に潜り込み、剣をふるう。ドラゴンの巨体に対して爪楊枝ほどのサイズでしかない私の握る剣は、ドラゴンの皮を浅く切り裂き、その奥に広がる分厚い筋肉の壁に阻まれた。


「私たちをなめないでよッ」


 いける、とそう思って。私は自分を鼓舞するように叫んだ。


 刃が通るのであれば、戦えないわけではない。このままドラゴンが舐め腐った対応をしていれば、私にも勝機があった。ドラゴンが、私を敵と認識しなければ、だが。

 飛び散った血が頬を濡らした。熱湯のごとき温度をしていたそれが肌を焼いたけれど、その痛みは気にならなかった。

 私の体を押しつぶすように、ドラゴンが腹部を大地につけようとする。あるいはそれは、弱点でもある腹部を守るための行為だったのかもしれない。

 巨体が迫る中、片足で地面を蹴って転がる。

 ぐるぐると視界が回る。


 腹の下から脱出した。その直後、ズゥン、と震動。ドラゴンの腹が大地にわずかに沈み、地面を揺らした。

 起き上がる私の視界に、真っ赤な光が見えた。ドラゴンの口内から、灼熱の炎が覗いていた。

 ドラゴンの、ブレス――思考が答えにたどり着くよりも早く、私はその場から飛びのいて。


 炎が、私の全身を襲った。


 一瞬だった。

 何も感じることなく、私は死んで。何も存在しない虚無の世界へと意識が引きずり込まれた。

 暗闇。何も見えない――正確には、自分が目を開いて世界を見ているのかどうかもわからない、不思議な虚無の世界。肉体の感覚が一瞬にして喪失する。これが死後の世界なのか、あるいは生と死の狭間にある第三の世界なのか、私にはわからない。

 けれど、わかることが一つ。私はこの場所に、この状態に覚えがあって、そして私はこのまま死ねないということだった。

 何もない無の世界に、熱が灯る。熱は、私の体があるはずの空間に生じたように思えた。これも、いつものこと。

 その熱が流れを生み出し、そして私という存在を包み込む。

 熱に背中を押されるように、あるいは濁流に流されるように、私の精神は肉体へと帰還する。


「ぐ、あああああああ⁉」


 着地。灼熱の炎が私の足を焼く。すぐに飛びのいたけれど、火傷がひどい。靴の中は、見るも無残な状態になっているだろう。

 その一方で、靴や衣服は表面が焦げた程度で、まだ形を保っていた。さすがは魔物素材の防具。並の武器や攻撃では傷一つつかない最高級品のそれは、熱にも恐ろしいほどの耐性を持っていた。

 手を握る。わずかな違和感。防具と同じアヴァンギャルドの鍛冶師特性の武器は、少しも熱にやられてはいない。

 剣を握っていない方の手のひらをちらと見る。私の手には、剣を握る者に特有のマメも、戦いの中でついた傷もなかった。

 戦闘の痕のない、鍬を握ってできたマメだけがある手を見るたびに、私は自分の死を痛感する。時間の巻き戻った十五歳当初の私の肉体には、戦士としての筋肉もついていない。ただ、肉体の時間が巻き戻るとは言っても、脳は完全には巻き戻らないらしい。それは私の記憶が完全に失われるわけではないことが証明しており、これまで培ってきた戦闘経験や、洞察力、視神経など、脳に関する機能については、私は死んでも能力を持ち越すことができた。


 一週間の戦闘によって培われた戦士の卵としての体は消えた。私は無能な農民の小娘に成り下がり、ドラゴンの強さは変わらない。


 ああ、本当に絶望的だ。そして虚しいことに、私は自分が蘇生の中でどんな記憶を失ったのかもわからない。

 ひどく心が乾いていた。どうして私は戦っているのか、わからなくなっていた。何か、心が激しい衝動に駆られていたような気がしていた。でなければ、私はドラゴンに立ち向かうはずがない。


 ――私は、どうしてドラゴンと戦おうとしているのだろうか?

 戦いの理由に関する記憶がピンポイントで失われたようだった。そのことに気づいて、私はひどく動揺――することはなかった。

 その混乱は、もはや慣れたものだった。死んだという事実さえ覚えていれば、私は即座に次の行動に打って出ることができる。感情を切り捨てて、すべてを棚上げして、ただ目の前の敵に立ち向かうように思考が最適化されている。

 ただ一度、自分がどうして死んだのか、直近の死の記憶を失ってしまった時以外は。


 そうして、私は戦い続けた。

 何度も死んだ。もはや数えきれないほどに。その中で、私は自分が数秒前に死んだ事実を忘れてしまっていたこともあり、そのことで混乱しているうちにさらに殺された。ドラゴンと戦闘中であったことを忘れて、奇襲を受けたのだ。


 死んで、記憶を失って、死んで、死んで、死んで――それでも、私は死ななかった。死ねなかった。私は確かに、二本の足で大地に立っていた。

 いくらつぶしてもよみがえる私を、最初の頃、ドラゴンは不審そうに見ていた。それから、いくらでも潰せる爽快感のある玩具とでも認識したのか、リズミカルに私を踏みつぶし、焼きつくした。けれどそのうちにいくら振り払っても消えない羽虫と同程度に思ったらしく、怒りを感じさせる形相で私に攻撃をしてくるようになった。


 それでも、私は逃げなかった。逃げることができるとは思えなかった。


 ただ、戦った。ただ、耐え続けた。

 ドラゴンが脚を振り下ろす。強い風を吹かせながら迫る黒曜石のように鋭い爪を見ながら攻撃を避ける。進もうとした私の体は、続けざまに振るわれたドラゴンの尻尾に吹き飛ばされて大地を転がった。

 耳鳴りがした。その音に交じって、遠くから森がうなるような音が聞こえた。それは、私の勝利の音だった。


 体のあちこちに裂傷を負い、血を流すドラゴンは、血走った目で私をにらんでいた。私だって、ただやられていたわけではないのだ。ドラゴンが私をとるに足らない敵だと認識していたことと、私が死を覚悟して強襲を仕掛けたこと。その二つによって、ドラゴンの片翼の皮膜は大きく切り裂かれ、その巨体が飛ぶことはなかった。

 上空から地を這う人類を一方的に攻撃することも、飛んで逃げることもできないドラゴンもまた、森に似つかわしくない異様な音を聞いて、わずかに私から意識をそらした。


 そして、次の瞬間。

 遠くから勢いよく飛んできた銀の円錐が、ドラゴンの頭部に真横から着弾した。

 それは、アヴァンギャルドの一人、金属操作の魔法を使う男の移動手段であり、攻撃方法だった。自分や仲間を金属の弾丸の中に入れ、弾丸を魔法で動かして飛ばし、はるか遠くへと移動する。


 化け物じみた肉体の頑丈さを誇るアヴァンギャルドの者たちだからできる移動法によって、増援が駆け付けた。


 衝突によってドラゴンの頭部が勢いよく跳ね飛ばされ、頭部に引っ張られるようにして、その巨体が地面に倒れこんだ。盛大な土煙が舞い上がる。大地が揺れ、私はその震動に耐えることができなくて倒れこんで――


「まったく、無茶をしすぎだよ」


 ふわりと私の体を抱き寄せたキルハが、耳元でささやいた。私はどう反応していいかわからず、ただ苦笑をキルハに返した。疲労のせいか、口の端は引きつったようにしか動かなかった。体ももう、動かすことはできそうになかった。立っていることさえできないほどに、体も、心も、疲弊しきっていた。

 やれやれ、とキルハが首を振り、それから身に着けていたマントを脱いで、私の体にかけた。そこでようやく、私はとても人前に出られないような姿をしていたことに気づいた。多分、キルハは私の体を見ただろう。度重なるドラゴンの攻撃に抗いきれなかった防具はぼろ布と化し、大きな穴の間から私の裸体が見えていたはずだ。

 大事なところは、見えていなかっただろうか?多分、紳士なキルハは見ていないだろう。――見ようとしないキルハが、なんだか無性に腹立たしくて。そして同時に、キルハになら見られてもいいと思っている自分に気づいて、私は頭から湯気が昇りそうだった。


 どうしたの、とキルハが私の目をのぞき込む。なんでもないといいながら、私は自分の頬が茹蛸のように赤くなっているのを自覚した。ああ、どうか顔の赤さにキルハが気づきませんように――


 ドラゴンの絶叫が聞こえた。思考が現実へと引き戻される。

 大地の上で激しくもがいていたドラゴン。魔物の中の強者とは言え、頭部に強い衝撃を受けて脳震盪状態にあって、アヴァンギャルドの主力部隊の総攻撃を受けて無事でいられるはずもなかった。

 あちこちの骨が折れ、体の一部がクレーターのように凹み、ひび割れた鱗の先からおびただしい血が流れていていた。尻尾は付け根から切り落とされ、爪がはがれ、顔が陥没し、口から血の混じった泡が見える。

 あっという間に、私を何度も殺したドラゴンは満身創痍になっていた。


 虚無感が、私を襲う。目の前で恐るべき攻撃を繰り出す者たちに比べて、私は無力だった。

 そんなドラゴンの胸部、心臓へと金属の針が突き刺さった。ドラゴンはビクンと大きく痙攣をした後、その体から力を失って、だらりと舌を見せながら地面に頭部を横たえた。


 私はドラゴンの死を見届けて、安堵から意識を手放した。

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