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白百合の涙  作者: 雨足怜
ブラックドラゴン編

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59/96

59絶望の先

 戦いは続く。

 街が破壊されていく。

 美しかった石造りの建物は壊れ、きれいに敷き詰められていた敷石は吹き飛び、大地が露出していた。その大地も、ブラックドラゴンの攻撃によって小さなクレーターが無数にできていて、無残な姿をさらしていた。

 凹凸の激しい地面を、跳ねるように移動する。平らな地面のほうが走りやすいが、ブラックドラゴンの視界から逃れることができるという点では有効な方法だ。

 強い相手に、馬鹿正直にまっすぐ挑む必要性はない。森で木々の幹に姿を隠して奇襲と逃走を繰り返すように、穴に身を隠すことで少しでもブラックドラゴンの隙を狙う。


 いつまでたっても私たちを倒せないからか、ブラックドラゴンは一層苛烈に攻撃を放った。

 風の刃が乱れ飛び、私たちの背後にあった建物をずたずたに切り裂き、倒壊させた。

 ブラックドラゴンの口から漏れたブレスが顔の両側、空中で無数の炎の槍へと変化して襲い掛かってきた。

 大地を焼くその攻撃に冷や汗が流れた。

 恐怖に心が悲鳴を上げていた。すぐにでも逃げ出したい。ブラックドラゴンなどという勝てない相手の前から去ってしまいたい――けれど、できない。

 ブラックドラゴンは私たちを逃がしてはくれないし、何よりこの街には知人友人が、レイラが、いるのだから。


 レイラは、無事だろうか。建物の倒壊に巻き込まれていやしないだろうか。


 心配が、動きを乱す。

 地面を踏みそこない、体が傾いた。

 ブラックドラゴンが竜巻を生み出して、背中にたたきつけるような強風を受けて、私の体が舞い上がった。

 浮遊感、そして、私を射抜くブラックドラゴンの怒りの形相。


「ロクサナ!」


 キルハが私を呼ぶ声が聞こえた。

 ブラックドラゴンが翼を羽ばたかせ、無数の風の刃をマリアンヌに向かって飛ばす。その攻撃からマリアンヌを守るべく、アベルが射線に割り込む。盾にするように前で組まれた両腕を風の刃が襲い、すでにボロボロだった防具を切り裂いてその肌に傷ができる。


 私を吹き飛ばした竜巻が、解除される。

 集められていた風が周囲へと解放され、暴風となってキルハ達三人を襲った。

 マリアンヌの悲鳴と、くぐもったうめき声が聞こえた。


 ブラックドラゴンの顔が、私に迫る。

 開かれた口内に、渦巻く常闇の息吹が見えた。

 死が、そこにあった。

 けれど、その程度では私が眠りにつくことはできない。その程度で人生が終わるほど、私にかけられた呪いは弱いものではない。


 死がまた一つ、私の記憶を奪う。

 その覚悟とともに、再生と同時にブラックドラゴンに一矢報いるべく、私は剣を強く握りしめて。


 そして。


「グルアアアアアアッ」


 すぐ傍、ブラックドラゴンとは反対側から、そんな咆哮が響いて。

 そして、まるでブラックドラゴンの姿を中途半端に写し取ったような灰色のドラゴンが、ブラックドラゴンに体当たりを仕掛けた。


 ブレスが、空を焼く。

 三度目のそれで、空はとうとうブラックドラゴンの魔法から解放され、急速に青空が開けていった。


 強い日差しが照り付ける中、黒と灰色の二体のドラゴンが絡み合う。突然の事態に目を白黒させていたブラックドラゴンだが、立ち直りは早かった。

 まるでその存在を絶対に許してはならないというように、ともすれば魔王呼びされていた私に対して以上に、ブラックドラゴンは現れたドラゴンへと強烈な攻撃を浴びせた。


 振り上げたしっぽのうろこが、形を変える。まるでスパイクのように無数のとげが生えたしっぽが、灰色ドラゴンの胴体へとたたきつけられた。

 くぐもったうめき声をあげる灰色ドラゴンはといえば、ブラックドラゴンの片腕にがっしりとかみつき、鱗を砕いてその奥の肉へと牙を届かせていた。

 一撃、二撃、三撃――ブラックドラゴンの尾による攻撃は続く。灰色ドラゴンの体は、あちこちの鱗が割れ、夥しい血が大地を染めつつあった。


 状況は、よくわからない。

 けれど今が好機なのはよくわかった。

 ブラックドラゴンは灰色ドラゴンによって動きを止められていて、その攻撃もまた灰色ドラゴンに集中している。

 だから、走った。前へ、千載一遇の勝機をものにするために、前へ。

 それはキルハ達も同じだったらしく。私たちはそろってブラックドラゴンへと全力の攻撃を放った。


 跳び上がったキルハの斬撃が、ブラックドラゴンの頭部に直撃し、ブラックドラゴンの頭を激しく揺らした。

 アベルの攻撃が、ブラックドラゴンの尻尾の軌道を歪ませ、その攻撃を灰色ドラゴンへと届かせない。鱗を握っての殴打が、次々とブラックドラゴンの鱗を砕いていく。

 マリアンヌの呪術が、鱗という防御を失った部分へと襲い掛かる。発火の呪術はその体内へと入り込み、ブラックドラゴンの肉体の大部分を吹き飛ばした。どうやらブラックドラゴンの魔力攻撃に対する高い防御力は鱗に由来したらしく、その肉は大きく燃え上がり、えぐれた。


 そして私もまた、ブラックドラゴンの鱗を切り飛ばし、その奥へと刃を進めた。


「ガアアアアアッ⁉」


 悲鳴混じりの咆哮が響く。それと同時に、ブラックドラゴンの片腕が、灰色ドラゴンに噛み千切られる。

 だが、ブラックドラゴンとてただでやられはしなかった。

 憤怒を炉にくべるように、強烈な火力のブレスを灰色ドラゴンへと放った。

 至近距離で発動されたそれを、灰色ドラゴンはよけることができず、その全身が漆黒の炎に包まれ、衝撃によって巨体が宙へと吹き飛んだ。


 ブラックドラゴンの尻尾が振りぬかれる。それに、アベルとキルハが吹き飛ばされた。

 回避しようとしたところで、ブラックドラゴンの無事な前脚が私を握りしめた。

 万力のように締め上げる力に、私は全身の骨が悲鳴を上げるのを感じていた。視界はちかちかと点滅し、体内が異様に熱を帯びている一方で、急速に体から熱が消えていこうとしていた。


「……羽虫ガ我ラヲ騙ルトハ許シ難イ」


 羽虫?人間が、騙る……?

 極彩色を描く視界を、ゆっくりと動かす。脳が激しく痛んだ。それを無視するように見つめた先。ブラックドラゴンのブレスの炎に包まれていたドラゴンは急速にその体を小さくさせていって、ついには一人の人間へと姿を変えて墜落した。

 その少女は、キッシェ。獣化呪術の使い手の少女だった。

 獣化というのは、魔物の姿になることができるほどの力だったらしい。そのことに驚愕しつつも、私は激しい痛みに奥歯を嚙み締めた。

 ズン、と振動が全身に響き、体が悲鳴を上げていた。

 ブラックドラゴンが、ゆっくりと前に進んでいた。私の体を前足で握ったまま、二足、いや、尻尾を含めた三足で歩行して。


「不遜ナル愚者ヨ、貴様ニハ死スラ生ヌルイ」


 そういいながら、ブラックドラゴンは口に恐るべき魔力を集め始めた。視界の端、これまでと同じ漆黒の奔流の中に、恐るべき純白の光が満ちた。

 まだら模様のブレス。それが意味するところは分からなかったけれど、強烈な悪寒が全身を走り抜けた。


 死すら生ぬるい、責め苦。それは、どんなものだろうか。わからない。わからないけれど、わかることが一つ。キッシェに放たれようとしているそれは、きっとこの後すぐ、私に向かって放たれる。

 キッシェは、立ち上がらない。ただ、失った片腕をぼんやりとした目で見つめ、それから私の顔へと視線を動かし、ふわりと、笑った。口が、言葉を紡ぐようにゆっくりと動く。

 あとは頼みました――そんな、声が聞こえた気がした。か細い、蚊の鳴くような声であろうそれは、私には届かなかった。

 けれど、私に伝わったことを理解したのか、キッシェは満足そうに眼を閉じ、ブラックドラゴンの攻撃を受け入れる体勢になった。


 わからない。私には、わからない。

 キッシェは、私とは違って何度もよみがえることはない。死は、一度きりのもので。死ねばそれまで積み上げていたすべてが一瞬にして失われる。

 その喪失を覚悟してなお、どうしてそんな顔ができるのかが、わからない。

 どうして、私に向かって後を頼むなどというのかが、理解できない。





 力を、求めた。

 キッシェにあんな顔をさせないために。このまま、死なせないために。

 キッシェを守ろうというのか、必死な顔で近づいてくるキルハを、守るために。

 幸せな日常を、取り戻すために。


 私は、力を欲した。


「ガアアアアアアアッ」


 放たれたブレスが、大気を焼いてキッシェに迫る。その体を、射線上からキルハが抱きかかえるようにして遠ざける。

 横なぎに振りぬかれるブレスが、大地を滑るように疾走するキルハとその腕の中のキッシェを追いかける。


 逃げてと、口の中でつぶやくけれど。キルハはキッシェを手放さない。

 心臓が軋む。キルハの死が、目前にあった。

 ブレスが、二人に迫る。

 もう駄目だと、私の心に昏い絶望が立ち込める。

 その時、キルハとキッシェの姿が消える。

 慌てて首を巡らせれば、戦闘によって大破した一角の端、がれきに腰かけるようにして戦闘を見守っていたシャクヤクの傍にしりもちをつくキルハとキッシェの姿があった。


 二人は、無事だった。


 大地を覆う漆黒の炎の絨毯。それが、まるで意思を持ったように不自然に揺らめく。空へと浮かび上がった炎が、次々と寄り集まって球体になり、槍の姿に変わる。

 そして、まるで大気が爆ぜたような爆発音を残して、無数の槍が周囲へと襲い掛かった。


 キルハとキッシェを守るために、シャクヤクが魔法を発動した。生み出された空間の壁、だろうか。先の見えない白い壁は、ブラックドラゴンのブレスを成していた炎を受けてもびくともする様子はなかった。その壁も、炎に飲まれて見えなくなった。

 けれど現時点で防御が成立しているのは、シャクヤクの魔法がとてつもなく高性能なだけで。


 では、シャクヤクという守り手がいない者は――


 悲鳴が聞こえた。

 その先。すでにぼんやりとし始めた先に、マリアンヌと、アベルの姿があった。

 赤に染まった視界の先、アベルが、歯を食いしばってマリアンヌの前に立ちはだかっていた。片腕が、なかった。吹き飛んだ腕から、夥しい血が流れ出し、大地を染め上げていた。

 膝から地面に崩れ落ちたアベルが、顔面から大地へと倒れた。

 緩慢な動きで、マリアンヌがしりもちをつきながら前へと進む。血だまりに沈むアベルへと手を伸ばす。

 嫌嫌と、現実を否定するように首を振りながら、マリアンヌがアベルの体に触れて。


「あああああああああああああああああああああッ」


 空へと轟かすような悲鳴が、聞こえた。

 その瞬間、マリアンヌの体から恐るべき量の魔力が放出された。私でも認識できるほどの、魔力。

 大気が渦巻く。長い髪をはためかせながら、マリアンヌが空っぽの目でブラックドラゴンを見つめる。その肌は、異様に青ざめて見えた。まるで幽鬼のような足取りで、マリアンヌが前へと一歩踏み出す。

 足が、血だまりに沈む。その血を吸い上げるように、血の線がマリアンヌの体を這い上がる。

 魔物たちが時折見せる、体表に出現する光の線。それに、よく似ていた。


 すっと伸ばされたマリアンヌの人差し指が、ブラックドラゴンへと突きつけられて。


「滅びろ」


 その言葉とともに、私を握りしめていたブラックドラゴンの体が、爆ぜた。


 血と、肉片の雨。大きな悲鳴が、びりびりと大気を震わせた。かすむ視界の先、マリアンヌがアベルと折り重なるようにして倒れる。


 視界の先、漆黒の炎に包まれた球体はいまだに燃え続けていた。その先にいるであろうキルハが無事なのか、私にはわからない。

 無事、なのかもしれない。シャクヤクというとてつもない魔女の魔法ならば、ブラックドラゴンからキルハたちをたやすく守れるのかもしれない。

 けれど、シャクヤクは魔力がないはずで。じゃあ、あの先。先ほど見えた、白い壁は、本当に今もそこにあるのだろうか。今も、キルハ達はその壁に守られているのだろうか。

 黒い炎が揺れる。その揺らめきが、まるで歓声を上げているように見えた。ついに、その壁を打ち破ったと、そう高らかに歌っているように思えた。


 キルハが、死んだ?炎に焼かれて、もがき苦しみながら、死んだ?


 絶望が、這い上がる。


 視界が闇に落ちた。

 体が冷えていく。

 死が、すぐそこにあった。

 血だまりに沈むマリアンヌとアベルの姿が脳裏をよぎる。

 炎の中で絶叫するキルハの姿を幻視する。


 どうして、こうなったのだろうか。どこかで、私は間違えたのだろうか。

 これは、幸せを手にするための戦いだったはずだった。幸せが、そこにあるはずだった。

 なのに、私の手から日常は零れ落ちていく。マリアンヌとアベルが、倒れた。キルハも、無事かどうかわからない。レイラの姿も、見えない。

 そしてすべては、私のせいだ。

 魔王の力を手にしているという私を、ブラックドラゴンは狙って襲い掛かってきたのだろう。


 私のせい。私が、みんなを殺した。私が、この街を破壊した。私が、自分の手で、幸せな日常を破壊した――


 どうして、私はこんな目に合わないとならないのだろうか。一体私が、何をしたというのだろうか。

 何もできない弱者だったから?強くなる努力もせずに、状況を打破する力を求めたから?私が、魔王の力である自己蘇生の魔法などというものを手に入れてしまったから?ブラックドラゴンと戦おうと提案したから?


 どうして、私はそんなことをしてきたのだろう。

 どうして私は、自分が弱いということをいやというほど知っていたのに、ブラックドラゴンと戦おうとしたのだろう。

 どうして、私はキルハたちの参戦を許したのだろう。私一人が戦えばよかったのだ。だって私は、死ねない。死ぬけれど、死という人生の終わりが来ない。私が参戦を拒否しなかったから、キルハ達は死んだ?


 どうして、どうして、どうして――思考がぐるぐると回る。激しい熱を帯びる頭のどこかで、ぷつんと、何かが切れる音が聞こえた気がした。


 ああ、そうだ。私が弱いから、いけないんだ。

 私が強かったら、魔法を求めることなんてしなかった。

 ハンターの男を軽くのしただろう。

 弟を死なせることはなかっただろう。

 魔女としてとらえられて、アヴァンギャルドに放り込まれることはなかっただろう。

 キルハに会うこともなくて、キルハ達を死なせることも――


 キルハと、会えない。その可能性の過去を想像して、私はこれ以上ない絶望に襲われた。辺境の村。そこで生まれ育ち、ただの一村人として生きて、キルハ以外の誰かと恋仲になって、子どもを産み育てて、死んでいく――

 そんな生活を考えるだけで、吐き気がした。キルハがいない生活なんて、耐えられる気がしなかった。


 キルハ。キルハ。キルハに生きていてほしい。まだ生きているのだとすれば、キルハだけでも救いたい。

 この救いのない世界で、キルハだけが私にとっての救いであり、導きの星であった。キルハこそ、生きていかないといけない。


 キルハを、守る。

 その言葉は、すとんと私の胸に落ちて。



 力を求めた私に、何かが答えた。

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