57キッシェとドラゴン
バサリ、バサリと翼がはためく音が響く。雨の中、まるで巨大な傘のように翼を広げるその怪物を、誰もが恐怖に顔を染め、動くこともかなわずに見上げていた。
平和だった街に突如襲来した嵐。降り注ぐ漆黒の雨に打たれた者は体から急激に力が抜け、地面に倒れこむことになった。
虚脱感と、恐怖と、絶望と。
彼は身じろぎせずに、漆黒のドラゴンを見つめていた。
「魔王ヨ、出テクルガイイ」
大気を激しく震わせて、街全体に声が響いた。ガラスが割れるようなノイズが混じった声。それがドラゴンの口から響いたものであると気づけた者が、果たしてどれだけいたか。
魔力の乗った威圧効果のある言葉によって、病魔の雨に弱っていた住民はほとんどが意識を失って地面に倒れた。
滞空を続けるドラゴンは、スンと鼻を鳴らしながら言葉を待った。だが、返事はない。もとより十把一絡げな羽虫の返事を聞くつもりは、ブラックドラゴンにはなかった。
ただ、魔王さえ現れれば、それでよかった。
かつて、羽虫どもの根城を荒らせば、それは勢いよく飛び出してきたものだが、いくら待てどもドラゴンが望む存在が現れる気配はなかった。
バサリと、大きく翼をはばたかせる。渦を巻いた大気が、ブラックドラゴンに吸い寄せられるように空へと昇った。
もう一度、鼻を鳴らす。雷雨と火災の煙の中、当然目的の存在のにおいを見つけ出すような高感度な嗅覚はブラックドラゴンにはなかった。ドラゴンが行うのは、魔力感知。
鼻から吸った空気に含まれる魔力を分析して、対象の姿を探す。いくつかの、魔力反応があった。貧弱な、かつての羽虫たちを思えばもはや虫というよりは砂粒やほこりのような魔力が、わずかに感じられた。
そして、その中に混じって覚えのある魔力反応をかぎ取って。
「ソコカ、魔王ノ末裔ヨッ」
長い首をS字に曲げる。膨大な魔力が、ブラックドラゴンの口内に集まっていく。漆黒の炎が、ちらりと口の中から漏れ出す。
「ガアアアアアアアアッ」
首を伸ばし、見つけた魔力反応がある場所へと、ブラックドラゴンがブレスを放つ。わずかに紫が混じった、黒い炎。
それは大気を燃やしながら空を走り、街の中でもひと際大きな建物、ハンター協会に突き刺さる――ことはなく。
「空間転送」
ブゥン、と小さな音とともにブレスの進路に開いた、一切の光が見えない真っ暗闇。そこにブレスは吸い込まれて、消えて。
ドラゴンはすぐ真横に魔法の発動を感知して、急いで回避行動に入り。
あらゆる光を吸い込むような円盤が空間に出現し、漆黒の光線が飛び出した。
「ガアアアアア⁉」
ブラックドラゴンの体に、自らが放ったはずのブレスが突き刺さる。あらゆるものを燃やす炎が、ブラックドラゴンの鱗を燃やし、あるいは弾き飛ばす。
傷からあふれた真っ黒な血が、地面へと落ちていった。
「不遜ナ羽虫ガッ」
翼をはばたかせる。その動きに合わせて、大気が不自然に渦を巻く。点攻撃ではだめなら、面で。
自らの攻撃を利用されて人間ごときに傷つけられたことへの怒りを覚えるブラックドラゴンは、次なる破壊の魔法を発動した。
漆黒の雨を取り込みながら、風は渦を巻き、そして恐るべき竜巻がブラックドラゴンを中心にして出現した。
激しい上昇気流が、地面を這うすべての存在を等しく空へと吹き飛ばす。圧縮された風の刃は、空を舞うものを切り刻み、人間の血と砂と木片で竜巻は瞬く間に赤黒く染まった。
「ハハハハハハッ」
そして、その竜巻の鎧をまとったまま、ブラックドラゴンは憎き敵の面影がある魔力を有する存在にして、自分に一撃を食らわせて逃亡した羽虫を処分するために飛翔を開始した。
ブラックドラゴンが進むとともに、直径十メートルほどの竜巻が家屋を、倒れる人を、すべてを蹂躙していく。
一直線に街を破壊しながら、ブラックドラゴンは滅ぼすべき敵が肉片になる瞬間を思って、笑って。
「やあああああああ!」
甲高い声とともに、空へと舞い上がった者が一人。蛇のような鱗を体に張り付けたおかしな人間を見て、ブラックドラゴンはわずかに目を細くした。不遜な羽虫が風の刃によって傷を負っていないことに、ブラックドラゴンは激しい怒りを覚えた。
自らの攻撃をものともしないその存在は、ドラゴンが作り出した破壊の竜巻を、あろうことか空へと続く道として利用し、吹き飛ばされていたがれきや木片を足場にして空を駆けた。
大きなゴーグルで目元を覆うは、獣化の呪術を使う呪術師、キッシェ。ワルプルギスの一員である彼女は、半人半獣の姿で、キッシェが知る限り最高の高度を誇るアーマードスネークの鱗に自分の肌を変えて空を駆ける。
その手に、鋭いナイフを握って。
街を守るという正義感に突き動かされ、キッシェは無謀にもブラックドラゴン相手に特攻を試みていた。
翼膜を切り裂けば、いくらドラゴンとて飛べなくなる。大地に落としてしまえば倒せるかもしれない――そんな師匠シャクヤクの言葉を胸に、恐怖を押し殺しながらキッシェは次の足場へと跳躍する。
獣化の呪術。自身の体を獣のそれに変える呪術は、最初のころ、ただの畜生に落ちるだけの役立たずな力だとキッシェは思っていた。それに、キッシェの最初の師匠もそう評価していた。何しろ、獣化の術はキッシェを完全な獣へと変貌させたから。骨格も、筋肉も、脳すらも。当然、獣化の術を発動している間、キッシェの思考力は著しく下がった。どんなものにも――それこそまったく体積が釣り合っていない鳥や巨大な熊に姿を変えることはできても、思考力まで変わってしまっては何の意味もなかった。
実際、キッシェは一度、人の姿に変えるために魔法の解除をする思考能力がなくなってしまったために、しばらくの間を鳥として過ごしていた。
そんなキッシェを救い、キッシェに光を授けたのがシャクヤクだった。人知れず山奥で魔女や呪術師をさらっては弟子にして自分の知識をひけらかしていた師匠の末路に、キッシェは興味がなかった。
シャクヤクは、無知を知らない最初の師匠に比べて、多くのことを知っていて、そして同時に謙虚でもあった。彼は常にキッシェとともにキッシェの呪術について考え、さらにはキッシェに知識を授けた後、その知識と相反する事実を告げることでキッシェに多くのことを考えさせた。
その魔法議論の中で、シャクヤクはある提案をキッシェにすることになった。すなわち、魔物たちの体のいいところだけを再現する形で術を行使することはできないのかと。
そこから、キッシェの挑戦の日々が始まった。肉体の一部だけを動物のものに変える訓練に始まり、人間の姿でしっぽや角だけを生やしたり、骨の丈夫さなどという情報だけを肉体で再現したりと、キッシェは多くの手段を試していった。
そして、生み出したのは半人半魔の「デミビースト」。二足歩行の人間の姿を保ちながら、魔物のいいとこ取りをした姿への変化だった。
ウルフの嗅覚や聴覚に加えて、体を守る毛皮と脚力と爪、牙を再現したモード・ウルフや、今発動しているモード・スネーク。ほかにも様々な動物の力を取り入れることで、キッシェは強くなった。
最も、正義感に突き動かされて勝てない敵に突撃していくという最大の欠点はなくなっていなかった。
熱を感知する蛇の感覚によって、粉みじんとなった物体が渦巻く竜巻の中でも、キッシェはブラックドラゴンの正確な位置を認識できていた。
そして、ブラックドラゴンが自分を叩き落すべくこちらに迫っていることを、察知して。
掴んでいるナイフを軋むほど強く握って、キッシェは岩を踏んでブラックドラゴンへととびかかった。
噛みつき。
長い尻尾をドラゴンの顎に叩きつけて、無理やり攻撃を躱す。回転する視界に、鋭利な輝きを帯びた爪が見える。
鋭い爪。切り裂かれれば確実に致命傷になるだろうそれを前に、キッシェはナイフを口に加え、両手を左右に大きく広げる。
(モード・バード)
キッシェの手に黒い羽毛が生える。手が、翼に代わって。
上昇気流を翼でつかんだキッシェの体がふわりと舞い上がり、ブラックドラゴンが振りぬいた爪の攻撃を躱した。
だが、キッシェもまた無事ではなかった。ここはブラックドラゴンが生み出した風の刃の嵐の中。圧縮された風は一撃一撃が人の体を軽く切り裂くもので、さらには高速で回る砂粒などはそれ自体が恐るべき殺傷能力を発揮する。
すぐにモード・スネークに戻したとはいえ、たった一瞬でキッシェの腕はひどく傷ついていた。腕が風の刃で切り落とされなかったのは不幸中の幸いだった。それは、ブラックドラゴンがキッシェに風の刃が効かないと理解して、その攻撃を無駄うちしていなかったからだった。
渦を巻く砂でずたずたに割かれた肌を、再び蛇の鱗が覆う。緑色をした鱗が、体にたたきつける砂が激しい音を響かせる。
巨体をひねったブラックドラゴンの口内に黒々とした炎が覗く。
ブレス――そう、判断して。
慌てて回避行動に移ろうとしたキッシェの体に、前後左右から強風が押し寄せ、その体勢を崩す。
体勢を立て直そうとするも、増していく虚脱感がそれを許してはくれなかった。
「滅ビヨ、魔王ノ周リヲ飛ビ回ル羽虫メガッ」
漆黒のブレスが、舞い上がるがれきを吹き飛ばしながらキッシェへと迫る。重い体に鞭打って、キッシェはとっさに腕をクロスして衝撃に備える。そんなもので、ブラックドラゴンのブレスから身を守れるはずもないのに。
己の死を確信しながらも、キッシェは鋭いまなざしで雨と破砕物の奔流の中にいる巨体と、迫るブレスを睨んだ。
ゆっくりとした、色あせた視界。そこで、突如それは起こった。
キッシェとブラックドラゴンの間、何もない空間が突然歪み、そして。
はぜるように爆発した。
「ぐうぅぅ⁉」
「ガアアアアアッ⁉」
ブラックドラゴンとキッシェを等しく衝撃波が襲う。ブラックドラゴンのブレスは、後斜め下方へと吹き飛ばされたキッシェをかすめるように飛び、空の彼方へと消えていった。
風の牢獄に穴が開く。
大気の檻が揺らぎ、竜巻が崩れる。
激しい痛みに悲鳴を上げるブラックドラゴンの思考が乱れて、竜巻が消失した。
激しい上昇気流が消えて、キッシェの体はそのまま下方へと吹き飛ばされる。
脳が揺れたせいか、まともに体は動かなくて。
キッシェは衝撃に備えてぎゅっと目をつむって。
すっと体を包む何かの感触があった。落下の衝撃はなく、とん、と軽く地面に降り立つような振動だけを感じられた。
ゆっくりと目を開いた先。黒い雨に濡れた、美しい男の姿が視界いっぱいに映った。
「……キルハ、さん?」
「ああ。遅くなったね。ここからは僕たちに任せておいてよ」
そうします、と小さくつぶやいて、地面に下ろしてもらったキッシェはキルハをぼんやりと見上げた。
まるで闇夜の中で世界を照らす月のように、黒に染まる破壊された世界の中でキルハの瞳が怪しく光り輝いていた。
額にへばりついた髪と荒い息がひどくなまめかしくて、キッシェはごくりと唾をのんだ。それから、キルハには恋人がいるのだと言い聞かせながら、胸に浮かんだ感情を振り払うように首を横に振った。
「……さて、と。同じようにはいかないよ」
病魔の雨に侵されながらも、キルハは不敵に笑って空を睨んだ。
そして、次の瞬間。空中で痛みに悶えていたブラックドラゴンの翼の根元から火がほとばしった。




