56破壊の息吹
カァン、カァン、カァン――リズムも何もなく、ただ我武者羅に打ちならされる鐘の音が街に響き続ける。顔を上げた市民がいぶかしげに首をひねる。呼びかける声が聞こえた。地下に逃げろと、ハンターと思しき者たちが叫びながら通りを駆け抜けていく。
伝播していく焦燥と恐怖に、一人、また一人と走り出す。あちこちにある地下への入り口を目指して。
昼下がりの街は、緊急事態を告げる鐘の音によって一気に混乱に陥った。
「いい、絶対に手を離したら駄目よ?」
「わかってるよ、お母さん」
何度も念を押す母に若干あきれを見せながら、少女は自分よりも頭一つ小さな幼女の手をきゅっと握った。
以前屋台の前で起こった騒動。友人の少年がハンターにいちゃもんをつけられているところに、少女は割って入った。迫る拳を前に恐怖できゅっと目をつぶって。けれどその拳は少女にあたることはなかった。
少女とハンターの男の間に飛び込んだ一人の女性が、子どもを抱えながらその男を制圧したからだった。ロクサナと名乗るその人物に少女はあこがれた。そして、外見からは予想もつかなかったけれどハンターであったというロクサナからの頼みで、彼女はロクサナの娘のレイラの面倒を見ていた。
彼女から見て、レイラはとても変わった子どもだった。人見知りというわけではないのだろうが、物静かで、歳の割に達観した様子があった。時折見せる、母と同じ人生への諦観をにじませたような暗い目を見ると小さく心臓が痛んだ。
レイラと少女が一緒に過ごし始めてから、三日。
まだ朝方にもかかわらず鳴り響いた警鐘に、母の屋台準備の手伝いをしていた少女は、レイラの手を握って一足早く避難することにした。
命あっての物種とはいえ、商売道具を失ってしまっては生き延びても野垂れ死にすることになる。だから母は荷物を持って家に引き返す決断をして、少女はレイラの手を引いて混乱のただ中にある街を急いだ。
レイラは、静かだった。周囲の混乱をわかっていないわけではないだろうが、普段通りの落ち着いた様子で歩いていた。そのおかげで、少女もまた落ち着きを取り戻し、誰を突き飛ばそうが構うまいと走る者たちから距離をとって、道の端を進んだ。
くい、と手が引かれる。どうしたの、と振り返りながら少女が問う先。レイラは足を止めてじっと空を見つめていた。
細い目が何を見ているのか、少女もまた確認するように空を見上げるけれど、そこには何もない。ただうっすらと白い雲が浮かび、その間から青空が顔をのぞかせるありふれた空だけがあった。
レイラへと、視線を戻す。くわ、と目を見開いたレイラは、小さく何かをつぶやいていた。まるで、虚空にいる誰かと言葉を交わすように。
「……ダメ」
「どうしたの、レイラ?」
少しだけ気味が悪いと思いながら、少女は早く避難しようとレイラの手を引く。だが、レイラの足はてこのように動かない。
視界の端で、光がチカッと光った気がした。空から太陽でも顔をのぞかせたのか。
相変わらず警鐘は響き続ける。混乱の叫び声が聞こえる。だが、異常の理由が少女にはわからない。ただ逃げないといけないと、条件反射的に少女は先を急ぐ。
レイラの体を抱き上げる。母の手伝いで鍛えられたとはいえ子どもの柔腕。レイラの体はずっしりと重くて、少女は少しだけ顔を赤くしながらも歩き出す。
レイラが、目の前にある少女の頬に両手をあてる。
「みて」
有無を言わせぬ力で少女の首がひねられる。その顔は、斜め上、先ほどレイラが睨んでいた空へと向かう。
何をするのかと、レイラを責めようとしたとき。少女は視界に何かおかしなものを捉えた気がして口を閉ざす。
違和感を、探す。屋根、広がる空、雲、太陽――そして、真っ黒な塊。
目を細くする。その黒い点は、次第に大きくなっていく。異常な速度で、それは視界の中で広がって……こちらに近づいてきていた。
闇の中、まばゆい光がほとばしった気がした。
「何あれ?」
「……あぶないの。すごくこわいのがくる」
あれが警鐘の理由かとあたりをつけて、少女は道を走るハンターの声を聴く。地下に避難しろ――なるほど、空から近づいてくる何かから身を守れということだろう。
カァン、カァン、と響く鐘の音に合わせて、心臓が早鐘を打ち始める。手の中にじっとりと汗がにじんだ。
誰かの悲鳴が聞こえた。空を見上げる人が、視界に映る。
「逃げるよ!」
レイラの返事を聞くことなく、少女は走り出す。
走りながら時折背後を振り向く。空を見上げる。
小さな果実くらいだった黒い点は、今では空の向こうを覆いつくすほどに広がっていた。
闇の中から、ゴロゴロという低い音が聞こえてきた。雷、だと思った。
光ったそれが地面へと落ちていく。
嵐が、迫っているらしかった。
「……嵐?」
違う、と心臓が叫んでいた。嵐なんて、そんな生易しいものではないと思った。あんな勢いのある、恐ろしい嵐など存在するとは思えなかった。
――魔物。少女の脳裏に、最悪の単語がよぎる。
「邪魔だ!」
肩がぶつかり、吹き飛ばされる。とっさにレイラを守るように腕の中に包み込んだ代わりに、受け身をとることもできずに少女は勢いよく家の外壁にたたきつけられた。
「りふぁ!」
頭が揺れる。自分を呼ぶ幼い声を、少女は聞いた。
腕の中に、ぬくもりがある。この命を、守らないといけない。自分のことを助けてくれた、あの女性のように――
「だい、じょうぶだよ。だから、ね。心配しないで」
泣きそうに目を潤ませるレイラの頭を優しくなでて、少女リファナはゆっくりと体を起こす。本当に、と揺れる瞳を見て、しっかりと頷いて見せる。
大丈夫――言い聞かせるように、今度は口の中で聞こえないほど小さく、リファナはつぶやいた。心を落ち着けるように、一度深く息を吸って、吐き出す。
目を閉じて、自分にギュッと抱き着いてくるレイラの体の感触に、目を開く。首にしがみつくように抱き着いているレイラが、決意のにじんだ顔をみせていた。
その顔は、やや暗かった。太陽が雲に飲まれた影の世界で、燃えるような強い目をしてレイラが口を開く。
「いこう!」
「うん。行きましょう」
ぱっと腕の中から飛び降りたレイラが、いまだに地面に座り込んだままのリファナの手を引く。
体を起こしたリファナは、レイラと手をつないで走り出した。
ゴロゴロゴロ――さきほどより強くなった音を聞いた。
街の上は、すでに真っ黒な空で覆われていた。少し遠くで雷が光って、轟音がとどろいた。
冷たい風が吹く。心臓がぎゅっと握りしめられた気がした。
急に、体が重くなる。息が、荒くなる。
「……雨?」
ぽつりと頬に落ちたそれをぬぐう。少しだけ灰色っぽい、冬場に時折見る雨に似ていた。空に立ち上る暖炉の煙を取り込んで、黒っぽくなった雨にそっくりなそれは、バケツをひっくり返したように勢いを増して空から降り続ける。
激しい雷鳴がとどろき、ほぼ同時に雷が近くに落ちた。
「きゃ⁉」
地面がびりびりと揺れた。怒号が聞こえた。
レイラを見て、悲鳴の上がる方向を見る。真っ赤に燃える家屋が、目に入って。
その炎から逃げるように走り出そうとした少女を、レイラがあらぬ方に引っ張る。
「ちょっと、レイラ⁉」
「はやく……はやく!」
かつてない強い感情を顔に浮かべるレイラが、小道へと少女を誘導する。避難場所へのルートから外れていく。困惑でいっぱいで、こんなことをしている場合ではないと心は叫んでいて、けれど全身全霊で走るレイラに引かれるままに、リファナは暗がりの中を走った。
何かから逃げるようだと、小さな背中を見ながらリファナは思った。何か――この嵐を生み出している、魔物から?
そこまで、リファナが考えたところで。
「りふぁな!」
ひときわ強く手を引かれて、リファナの体がレイラの方へと倒れこむ。レイラが、リファナを抱き寄せるようにしながら、地面へと倒れこんで。
「ガアアアアアアアアアアアッ」
耳をつんざくような咆哮が響いた。轟音で耳鳴りが響く。雨音を含め、世界からすべての音が消えた気がした。
地面が激しく揺れた。今にも狂いそうな恐怖を前に、リファナはレイラと抱き合いながらしばらくじっとしていた。
体が、ひどく冷えていた。あれだけ暖かかったレイラの体は、まるで雪のように冷たく感じた。そして、自分の体もまた氷のように冷えているのに、リファナは気づいた。
心臓が嫌な軋みを訴えていた。
耳鳴りが収まりつつある耳で周囲をうかがう。
雨の音。
ゆっくりと目を開く。レイラの顔が、視界に映る。病気のように青白い顔をしたレイラ。そして、その先には、元の形が分からない無残な姿をさらした街の姿があった。空を覆う真っ暗な雲と同じ色をした炎が、大地を焼くようにくすぶっていた。
「……へ?」
ぽかんと口を開いて、リファナはその光景を眺め続けた。
理解が追い付かなかった。消失した家屋、衝撃で吹き飛んだがれき、立ち上る煙、真っ黒な炎、ところどころにある赤黒いしみと、倒れる人の体。えぐれた大地。
「あ、ああ、あ……」
何かが、リファナの心からあふれ出す。絶望か、恐怖か。狂気がリファナの心に満ちていく。決壊した心からあふれて、感情が涙となって流れ落ちた。
ぐらりと、レイラが倒れこんできて。リファナは我に返ってその体を支えるように抱き留めた。
背中に回した手に、べったりと衣服が張り付く。何とか形を保っている家屋の庇の下。雨とは違った、熱を帯びたどろりとした液体が手にへばりつき、リファナは動きを止める。
震える腕を動かして、手を持ち上げる。
レイラの体を抱くその手には、真っ赤な血がこびりついていた。
恐怖に飲まれたのは一瞬だけだった。ぐったりとしたレイラのうめき声を聞いて我に返ったリファナは慌ててレイラの背中をのぞき込む。
吹き飛んできた木片が、レイラの体に突き刺さっていた。
「レイラ、レイラ!」
どうしていいのかわからなくて、救いを求めるように泣き叫んだ。
けれど、誰もそばにはいなかった。救いは、訪れない。今度は、救世主は現れない。
「お願い、お願いだから、死なないで……」
守ると心に誓ったレイラの命が、腕の中でゆっくりと失われていく。何とかしなければいけないとわかっているのに、体は重くて、思考は混乱でマヒしていて。
それでも、今すぐここから逃げないといけないと、そう思ったところで。リファナの視界が、一瞬ブラックアウトした。
「あ、れ……」
体から力が抜ける。どちゃりと、雨に濡れた大地に体が横たわる。
冷たい地面。降りしきる雨は気づけばどす黒い炭のような色をしていた。まるで喪に包まれたように、街が黒に覆われていく。
かつて、この街を統治する貴族が亡くなった際のことを、リファナはぼんやりと思い出していた。あの時も、領主の死を悼んで、街のあちこちに黒い垂れ幕が下がり、人々は真っ黒な服をしていた――
視界が、かすんでいく。
必死に、手を伸ばす。
レイラを、助けなければと、心が叫ぶ。
伸ばした手が、レイラの小さな手をつかむ。カヒュ、とおかしな呼吸音がした。
レイラの手は、ひどく冷たかった。
「レイ、ラ……?」
その手に、鼓動は感じられない。かすんでいく視界には、地面に広がる赤黒い水たまりに沈むレイラの顔が映る。
その口はもう、動いていない。
「あ、ああああ、あああああああああああ!」
少女の慟哭は、真っ暗な空から降りしきる雨音の中に消えていった。




