54覇者の片鱗
体が、動かなかった。圧倒的強者に睨まれた恐怖が、体を突き抜けた。
絶望が足の裏から這い上がる。
勝てないと、心からそう思った。
空の先、漆黒の嵐の中に、わずかに影を見た。それは、おそらくはブラックドラゴン。そして常識の埒外に存在するブラックドラゴンは、俺の視線を認識して、ただ一人に向けて恐るべき殺気を叩きつけてきた。
地を這う羽虫以上の警戒心を向けられていることを誇ればいいのか?いや、むしろ戦い難くなっただけだろう。
ブラックドラゴンはこちらを警戒している。少なくとも今、俺を警戒している。
動けない。動いたら死ぬ。
氷のように固まった体に、ひときわ強く殺意が叩きつけられた。いや、殺意というよりは悪意と呼んだほうが近いだろうか。
俺の体を突き抜けたその感情が、死を予感させた。
強く、マリアンヌの体を抱き寄せて。
ブラックドラゴンの接近を確認するために上っていた剣のようにとがった岩山から飛び降りた。
風が耳のそばで鳴る。マリアンヌの悲鳴が聞こえた。
その時、遥か先にある真っ黒な嵐の中から、一筋の漆黒の光線が伸びた。それは、俺とマリアンヌがつい先ほどまでいた岩山の頂上付近にぶつかって、そこにあった岩を完全に消滅させた。
岩肌を蹴りながら、落下速度を殺す。目を白黒させているマリアンヌも俺も、無事だった。ただ、漆黒の炎に包まれた岩だけが、先ほどの攻撃の深刻さを示していた。
岩の先端を溶かしたブレスは、そのまま大地を深く抉り、そこに大きな穴を生み出していた。
雷鳴が轟く。強くなっていく風と共に、黒っぽい雨が頬を撫でた。突然体が重くなって、俺は地面に膝をついた。
「ッ⁉」
マリアンヌが体をのけぞらせる。頬が上気し、それなのに顔はひどく青ざめていた。
「……魔法かッ」
かつて戦闘を見学したブラックドラゴンは、対象を病魔に感染させる漆黒の風を操っていた。あの魔法がブラックドラゴンに固有のものである可能性を考えるも、もう遅い。
恐るべき速度で飛翔を続けるブラックドラゴンはいよいよ雷雨の先に影がはっきりと見えるほどの距離に来ていて、打ち付ける雨は増す一方だった。
雨の一粒が当たるごとに、体が重くなっていく。息が熱くて、なのに体はどこまでも冷えていく。
死を、感じた。
漆黒の闇の中、飛翔するそれが俺を見て、視線をそらした。
病魔の雨に侵されて倒れる俺は、もうブラックドラゴンの警戒に値しないゴミと判断されたらしかった。
そのことにほっと息を吐いて。
とうとう耐え切れなくなって、俺はマリアンヌの体を地面に下して倒れた。
漆黒の雨は、まだやまない。閃光とほぼ同時に轟いた雷鳴が耳をつんざく。すぐ近くの岩山に、雷が落ちる。
流れてくる雷のせいで、少しだけ体がしびれた。
ここにいるのはまずいと、そう思うのに。俺の体は動いてはくれなかった。
せめてマリアンヌだけは守ろうと、俺は彼女の体に覆いかぶさって――四つん這いの姿勢すらも維持できなくて、マリアンヌの上に倒れこんだ。
体が、冷えていく。
命の灯が、少しずつ弱くなっていく。
こんな形で、終わるのか?こんなところで、まともな戦いにもならずに、終わるのか?
苦悶の声が聞こえた。顔をゆがめるマリアンヌの、浅い呼吸音が雨音に交じって聞こえてくる。
恥ずかし気な笑みを浮かべるマリアンヌの顔を思い出した。
レイラの満面の笑みが瞼の裏に浮かんだ。
仲良く肩を寄せ合っているキルハとロクサナの姿を思った。
こんなところで、ようやく手に入れた安息の日々を失うのか――?
雷鳴は響き続ける。
数秒おきに視界は極光に染まり、岩山は次々と雷鳴を浴びる。
ここにいては駄目だ。
力の入らない腕で、地面を押す。体を持ち上げる。たったそれだけの動きで息が切れた。
頭がぼんやりとしていた。冷えているのに、熱を帯びた頭が、マリアンヌを視界に収めて、沸騰したように動き出す。
マリアンヌを、守りたい――
その激情が、体の芯に熱を付けた。
「おおおおおおおおおおおッ」
だるい?体が重い?苦しい?
そんなもの、痛みに変換してしまえ。快楽として感じろ。そして、立ち上がれ。
「ガアアアアアァァァァッ」
遠く、怒りに満ちたブラックドラゴンの咆哮が聞こえた。
ひときわ強い閃光が視界を染めた。耳鳴りがした。
すぐそばに雷が落ちたらしい。体が、しびれた。そのしびれを、痛みと感じて。俺は前へと足を踏み出す。
ピシ――何かに、亀裂が走った。
ゆっくりと焦点が戻っていく視界が、最悪の光景を収めた。
すぐそばの、雄々しくせり立った岩山が、崩れようとしていた。中腹にブレスによるものと思われる大きな穴を開けた岩山が、その重量を支えきれなくなっていた。
落下を始めた巨大な岩石は、まっすぐこちらに迫ろうとしていた。
「……くそッ」
倒れこむように、足を踏み出す。前へ、前へと急ぐ。
体が重い。空気が、粘性を持ったように行く手を阻む。ゆっくりと落ちていくどす黒い雨粒がしみ込んだ衣服が動きを阻害する。力なく揺れるマリアンヌの手足が、体勢を崩させる。
前へ、前へ、前へ、前へッ
岩が迫る。風が背中を押す。
駄目だ。間に合わない。
「悪いな、マリアンヌ……」
せめて、マリアンヌだけは助かるように――抱えた体を、放り投げるように前に伸ばす。いや、駄目だ。落下地点から、届かない――
足音が、聞こえた。雨脚に紛れる、小さな足音。
水を踏む音が、近づいて。
そして、俺の腕をつかんだロクサナが、必死の形相で俺たちの体を前へと放り出した。
視界が回る。
巨大な岩の影が迫る。
ロクサナが転がるように前に進み、泥まみれになりながら跳ぶ。その体には、ブラックドラゴンのものと思しき漆黒の炎がこびりついていた。
片腕は、肩から先がなかった。
岩が、落ちる。
巨岩が割れる。その破片が、ロクサナのほうへと近づいてくる。
「守って!」
ポケットから取り出したキューブ状の物体――作戦用に作ってあった魔具を片手で握り、ロクサナが叫ぶ。それと同時に、キューブが勢いよく形を変え、ロクサナの体を包み込むように半透明のガラスのような球体が生じる。
透明な壁が、迫る岩石を阻む。
バリン、とガラスが割れるような音が響く。ロクサナの体が、球体ごと岩に押されるようにして横に滑る。
地面を、転がって。
そして、ロクサナの姿は砂煙の先に消えた。
「…………ロクサナ!」
ようやく現実に思考が追い付いて、俺は姿の消えたロクサナの名を呼ぶ。大丈夫だ、ロクサナには魔法がある。ロクサナを生かし続ける、彼女が呪いと呼ぶ力がある。だから、生きているはず――
マリアンヌを抱きしめながら、俺は煙の先をじっと睨んだ。
ゆらりと、影が起き上がる。
そして、小さくせき込みながら、露出した肌のあちこちに擦り傷をこさえたロクサナが俺の前に姿を現した。よく見れば、顔から肩にかけてべったりと血の跡がついており、それが次第に透明になりつつある雨と交じって地面に落ちて行っていた。
ブラックドラゴンが生み出した病魔の力は、もう空から消えつつあるらしかった。
「……大丈夫?」
「あ、ああ。なんとか、な。ロクサナこそ、大丈夫か?」
俺の言葉を聞いて、傷のことを思い出したのだろう。ロクサナの顔色が悪くなった。痛みをこらえるように、強く奥歯を食いしばる音が聞こえた。
ブラックドラゴンを倒そうという無茶を自分が言い出したことの罪悪感からか、ロクサナは泣きそうな顔で俺へと手を伸ばした。だが、残念ながら、俺の腕はもう全く動かなかった。
俺が一歩も動けないことに気づいたらしいロクサナが、小さく息を吐いた。腰に差していた剣を抜く。そして、わずかに血の色が見える剣をじっと見つめ、覚悟を決めた顔で柄を握った。
血が、飛び散った。自らの首を切り裂いたロクサナの体が、地面に倒れる。
呆然と、見ていることしかできなかった。
地面に血が広がっていく。黒々した雨水に交じって、赤い血が大地を染めていく。鉄さびのにおいが鼻の奥に充満した。
マリアンヌが少し顔をしかめる。
ロクサナの体から膨大な魔力が噴き出す。回復が、行われた。けれどそれは、これまでのような制御も何もない荒れ狂う魔力による魔法ではなく、明らかに制御されている様子の、無駄に散ってしまう魔力がほとんどない恐るべき技量の魔法だった。
ロクサナが、制御しているのだろうか?
何もなかったように体を起こしたロクサナが、生えた腕を軽く握って感触を確かめる。そして、マリアンヌごと俺を抱き上げた。
うぐ、と小さくうめく声が聞こえた。15歳のひ弱な女性の腕には、俺とマリアンヌの体重は重かったらしい。
透明なしずくがまばらに降る。黒々とした雲は切れ間を見せ、その先にまばゆい星の海があった。
「悪い」
「気にしないで。もとはといえば私がアベルたちを巻き込んだんだから。せめてこのくらいはさせて。じゃないと、申し訳なさで気が狂いそうだから」
くしゃりと顔をゆがめるロクサナにかけるべき言葉は思い当たらなかった。ほっそりとした腕。傷のない手が、俺を抱えていた。
傷のない、蘇生の証……。
そうか。どうして病魔の雨を受けてロクサナが満足に動けているのか疑問だったが、死んで肉体の時間が巻き戻ることで病から立ち直ったのか。
死んだ、のか。雷によるもの……ではないのだろう。明らかに異様に血に濡れていた肩付近を思い出した。
先ほどのように、自決したのだ。
この戦いで、最低二度、ロクサナは死んだのだ。それも、これまで決して選び取ることのなかった、自決という形で。
そのおかげで救われた身としてはあまり問題だと叫ぶことはできないが、死を軽視しているようなあり方は危険だと思った。
自分が死んででも俺たちを守るなんて行動を、これまでロクサナがとったことはない。それは、俺たちのことをそれだけ大切に思っているということだろうか。あるいは、レイラにこれ以上身近な人の死を経験させたくないから。
真実のほどはわからないが、ロクサナは変わった。
それもおそらくは、悪い方向に。
死を怖がらなくなったその先には、破滅以外の道があるというのだろうか。
体が、少しずつ熱を帯びていく。ブラックドラゴンの魔法は、効果時間はあまり長くないらしい。少しずつ力が戻ってきた手を、軽く握る。
この手で、守れるものがあるというのならば。
マリアンヌも、ロクサナも、キルハも、レイラも、守ってやりたい。守らなければならない。
周囲を見回していたロクサナを見て、気づいた。キルハの姿が、見えない。
「……キルハは、無事か?」
「…………多分」
死にそうな顔をしたロクサナが、俺を一瞥してつぶやいた。俺を抱えるその手が、小さく震えていた。
もう大丈夫だと、そう告げて。返事も聞かぬうちに俺はロクサナの腕の中から無理やり飛び降りた。まだ体にはあまり力が入らなくてふらついたものの、歩くことができる程度には回復していた。
「キルハを探しに行け。急いでブラックドラゴンの後を追うぞ。あれが向かったのは……俺たちが来た街の方角だ」
ヒュ――ロクサナの喉が鳴った。その顔が、蒼白から土気色へと変わっていく。
レイラの笑みが、瞼の裏に浮かんだ。
せめて彼女が無事でありますように――間に合わないという焦燥感に身を焦がされそうになりながら、俺たちは重い体を引きずるようにして活動を開始した。
「気ノセイカ?」
空を高速で飛翔し続けるブラックドラゴンは、背後に消えていく特徴的な岩山を流し目で見ながらつぶやいた。
一瞬、仇敵の気配がした気がした。それで再びブレスを放ってみたが、あの憎らしい男の気配が再びすることはなかった。
黒曜石のような鋭利な輝きを帯びた目は、小さくなっていく岩山の細部までをくっきりと捉えていた。一方、さすがにこれだけ離れると、岩山における魔力反応を詳細に感知することは難しかった。
だから、ブラックドラゴンは先ほどの気配を、魔力の読み間違いだと判断して、戻ることなく飛翔を続けた。
目指すは、憎き相手の気配が最も濃い世界。あの男が率いた者たちと、あの男自身の気配が強く存在する街。
何度も何度も、まるで頭を殴るように漂ってきた仇敵の魔力反応によって長い眠りから目覚めたブラックドラゴンは、今度こそ敵を滅ぼすために飛び続ける。
「待ッテイロ、魔王ッ」
大きな咆哮が空に轟き、ビリビリと大気を振動させた。
飛び立つ鳥を見て鼻で笑いながら、ブラックドラゴンは先を急いだ。今度こそ逃がさないと、自分に言い聞かせながら。




