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白百合の涙  作者: 雨足怜
ブラックドラゴン編

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52/96

52あの日の木の上で

 暗闇の中、二つの寝息が聞こえる。リズムの短いものと、やや長いもの。二つの音を聞きながら、僕は音をたてないように首を動かして隣を向く。口からよだれを垂らして眠るレイラの奥に、彼女はいる。

 非常に行儀よく、整列するように背筋を正して両手を体の横に伸ばすロクサナを、じっと見つめる。その視線に気づいたからか、きゅっと眉間にしわがよるとともに、ロクサナが寝返りを打つ。こちらを、向いた。

 その拍子に布団が乱れたからか、寒さを感じたようにレイラはぐいぐいと布団の中へと――足元へと体を沈めていく。顔まで布団の中に入れたかと思えば、もぞもぞと動き、僕の体に抱き着いて再び静かな寝息を立て始めた。

 目の前に、ロクサナの顔があった。長いまつ毛、つやのあるみずみずしい肌。そこに、戦士の気配はない。いや、こうしている今も、僕が殺気を放てば気づけるくらいには、ロクサナは寝ながら警戒している様子だったけれど。少なくともその綺麗な顔には、戦闘で負った怪我はない。それが、きれいに治ったからであれば、どんなに良かったことかと思う。

 ロクサナは死なない。正確には、死んでも蘇る。例えどれほど激しく肉体が損傷しても、その身に宿した魔法がロクサナを復活させる。肉体の時間を巻き戻して、ロクサナという存在を生かす。

 体の時間は逆行し、ロクサナ曰く魔法を手にした時に肉体の状況が戻る。ただの村娘である少女へと、戻るのだ。積み上げた訓練による、鍛え上げられた肉体も、剣を振り続けてできたマメも、戦いの中で負った傷も、すべてが元の状態に戻る。死の瞬間、ロクサナが積み上げたものはすべて消失する。

 その絶望を教えてもらったのは、確かロクサナがアヴァンギャルドに入ってからちょうど十度目の死を経験した時だったと思う。自分がつい数秒前に死んだことを忘れて混乱状態に陥っていたロクサナを、たまたますぐそばにいた僕が助けたのだ。

 ロクサナは茫然と僕を見上げていた。その目が、僕が握る血濡れた剣と、だらしなくぶら下げる片腕と肌を伝う血、そして僕の背後に倒れる魔物へと向いて。

 つぅ、と透明な雫がロクサナの頬を伝った。不謹慎かもしれないけれど、あの絶望的な戦場で、僕はそのロクサナの涙をきれいだと思った。当時の僕は、すでに淡々と魔物を殺すだけの人形のようになっていて、そんな僕のすり切れた心に、ロクサナが感情を取り戻してくれた。

 その日の戦いが終わって、僕が傷の治療をしているところにロクサナがやってきた。まるで確信があるように、ロクサナは僕の傷を見ながら聞いた。

 それは私のせいで負った傷か――と。

 はぐらかすこともできたけれど、他者を慮ることのない他の者に聞けば一発で答えを告げてしまうだろうから、僕は潔くうなずいた。恥ずかしいことだけれど、慌ててロクサナを助けに入る際、僕は魔物の攻撃を防ぎきれずに片腕に傷を負ってしまっていた。

 僕が傷を負いながら助けに入ったということを知って、ロクサナはまたはらはらと涙をこぼし始めた。

 そして、うなされるように、「どうして私を助けたの?」と繰り返し始めた。

 そこには、ずっとロクサナの顔を包み込んでいた絶望の表情はなかった。ただ申し訳なさと、混乱で埋め尽くされた顔をしていた。

 ふらりと膝から地面に崩れ落ちたロクサナが、倒れこむように僕の手を握る。腕の傷を、じっと見つめて。

 ごめんなさい――蚊の鳴くような声で、そうつぶやいた。

 謝ることはないと僕が言っても、彼女はひたすら泣き続けた。そして、困惑していた様子の僕を認識したのか、ロクサナはためらうように一度唇をかみしめてから、自身の魔法について語り始めた。

 死の瞬間に時間を巻き戻す、疑似的な蘇生魔法について。ロクサナが死なないということは知っていたけれど、ロクサナの肌や髪なんかの変化を詳しく観察したことなんてなかった僕は、てっきり怪我をなかったことにしてしまうような魔法だと思っていたから本当に驚いた。

 ロクサナは、涙声で、ぽつりぽつりと話を続けた。自分が、無能であるということ。大切な弟を守りたいと願って魔法を手にしたのに、その弟を助けられなかったこと。絶望の顔で自分をぼんやりと見上げた幼馴染の少女のこと。自分たちを生かすために死んだ両親のこと。自分は誰一人助けられない無能だと、自分自身を蔑み続けた。

 強く握りすぎた手は血の気が引いて白くなっていて、その手の中から、赤い雫が落ちて地面を濡らした。

 それから、ロクサナはぽつりとつぶやいた。

 死にたい――と。

 その瞬間、僕は頭が真っ白になった。それはたぶん、死を望むロクサナが、死ぬことを許されていない残酷さを思ってのことだったと思う。死ねず、贖罪を胸に抱えながら生き続ける。その絶望を思って、僕は涙した。

 そんな僕に気づいて、ロクサナは慌ててわたわたと手を振り回し、けれどすぐに力なく手を下ろし、僕の隣に膝を抱えて座り込んだ。

 まるで、殻に閉じこもるようだった。内側に棘が向いた殻に入って、ロクサナは自分を痛め続けながら生き続けるのだと思ったら、無性に腹が立った。ロクサナをこんな目に合わせている何かに――運命か、あるいは神か――僕は激しい怒りを覚えた。

 その怒りを、息に乗せて吐き出して。

 僕はすべてを否定するように自分の内側にこもるロクサナの手を取って立ち上がり、森の奥に向かった。

 手を引かれるロクサナは、困惑しながらも何も言うことなく僕の後をついてきた。

 そうしてめぼしい巨木の前にたどり着き、僕は先に幹の凹凸を足場に木を登り、下で目を瞬かせるロクサナへと手を伸ばした。

 恐る恐る握られた手を引き上げて、僕はロクサナのサポートをしながら木に登った。

 そして、あの、その後何度も足を運ぶことになる枝へとたどり着いた。

 これまで使ったことのない筋肉を酷使したからか、ロクサナはひどく疲れた様子で枝に座り込んだ。その顔は、相変わらず下を向いていた。同じようにロクサナの視線の先を見れば、そこには鬱蒼と生い茂る木々の頂点があった。広がる緑のカーペットは、昼間であれば自然の広大さを感じられるいい眺めなのかもしれないが、夜の今となってはただ漆黒の闇でしかなかった。

 月明りを反射するわずかな枝葉が揺れる、暗闇。そんなものばかり見続けるロクサナに、僕みたいになってほしくないと思った。人形のように心なく、魔物を殺すことに最適化されていた僕みたいには、なってほしくなかった。

 同時に、絶望の中で殻に閉じこもるロクサナに、自分の姿が重なった。弟子に裏切られ、人類の希望である魔具が邪悪な人殺しの道具に堕ちたことに絶望していた、かつての自分に。

 昔の自分を助け、今の自分を変えるため。そして、ロクサナを救うため。

 二つの思いを胸に、僕はゆっくりと口を開いた。


「上を向いて」


 ただ、それだけ。けれど、それで十分だった。

 ゆっくりと顔を持ち上げたロクサナの目が、見開かれる。少しだけ、仄暗いその目に光が宿った。目から、涙が零れ落ちる。けれどそれは、先ほどまでの絶望や怒りに濁った感情の発露ではない。美しい、涙だった。


「……きれい」


 小さなつぶやきを聞きながら、僕も空を見上げた。ああ、予想通りの光景がそこに広がっていた。満点の、星空。月に負けじと光る無数の星々が川をなし、海をなし、空に瞬いていた。ふっと、心が軽くなった。夜空を見上げるなんていつぶりだろうか――考えて、気づいた。僕もまた、アヴァンギャルドに入ってからただの一度も空なんて見上げたことがなかったことに。せいぜい、倒れた拍子に木々の隙間から見える青空や真っ黒な空を見上げる程度だった。

 きれいだと、思って。まだ僕にもこんな感情が残っていたのかと、驚いた。ロクサナと言葉を交わしてから、僕の心は再び動き出していた。ロクサナのおかげで、僕は空を見た。ロクサナのおかげで、僕は過去を少しだけ消化することができた。

 狂気に笑う弟子の顔が、唐突に脳裏に浮かんだ。心臓が激しく軋んだ。けれど、自分を傷つけなければ耐えられないような痛みではなかった。目を閉じて、風を感じる。吹き抜けるそよ風が、僕の中にある暗い感情を、少しずつ洗い流していく。

 気配を感じて、目を開いた。すぐ目の前に、のぞき込むように僕を見つめるロクサナの顔があって、ぎょっと背をそらした。

 ここが木の枝の上であることを忘れていた僕は、枝の上からつるりと滑り落ちた。

 慌てたロクサナが目を見開く。手が伸びる。白魚のような、ほっそりとした女性らしい指。その手が、僕の手を掴み、そして僕の手にひかれてロクサナの体が空中へと投げ出される。


「うわっと⁉」


 膝を曲げ、枝に足をかける。ロクサナの体を抱きしめる。唇が、柔らかいものに触れた。

 ぐわん、と遠心力が僕とロクサナをもてあそぶ。枝に足をかけた状態で、僕は二人分の体重を支えながら揺れていた。

 なぜだか無性におかしくて笑えてきた。すぐ目の前に顔があるロクサナが、わずかに目じりを下げて笑った。もうロクサナは大丈夫だ――根拠もなく、そう思った。

 それから何とかして枝の上に戻って一息ついたところで、ロクサナは先ほどとは違ったよそよそしさを感じる動きを見せ始めた。ちらと僕を見ては、視線を逸らす。僕は首を傾げるばかりだった。

 耳が、赤かった。わずかに潤んだ眼は、先ほどの涙のせいか、それとも感情の高ぶりのせいか。見える横顔も赤くて、ロクサナが頬をさするように指で撫でる。いつくしむような動きで――

 まさか、と僕が口を開けば、ロクサナは今度こそ沸騰したように顔を赤く染めて顔全部をそらした。

 口に手を当てる。ガサガサした唇だった。そこに当たった、柔らかくて温かい感触を思い出した。

 ごめん、と平謝りをすれば、ロクサナは腕を組んで、ふんと鼻を鳴らした。とっさに出てしまったらしいその動きに困惑するロクサナに対して、僕はおかしくて笑った。どうやらロクサナは、アヴァンギャルドに入ってから何かと突っかかって来ていたマリアンヌにだいぶ影響を受けているようだった。

 ロクサナもまた先ほどの行動が天邪鬼なマリアンヌの言動そのものだったことに気づいて、おろおろと視線をさまよわせた。救いを求めるような視線を受けて、僕は笑みをひっこめた。


「キスの対価というわけでもないけれど、こうしてまた、一緒に空の下で話をしない?僕の話も、聞いてもらいたいんだ」


 真っすぐにロクサナを見据えながら告げれば、彼女は静かに、そして少しだけ嬉しそうに告げた。

 それから何度も僕たちは木の上に登って、二人で言葉を交わした。


 ある日、ロクサナがキスの件を全く覚えていないことが発覚して、魔法によって記憶を失っている可能性に気づいた。

 それから、ロクサナは僕との会話の全てを忘れてしまった。ほぼ毎日訪れていた木の上に、ロクサナはぱたりと顔を見せなくなった。それが記憶の喪失を意味していると、一週間ほど経たないと僕は認められなかった。

 だって、楽しかったから。ロクサナと一緒に話をする時間が、幸せだったから。その終わりを受け入れることが、僕にはできなかった。

 正直、許せないという思いはあった。腹を割って話したすべてを忘れてしまったロクサナが憎くもあった。けれど、ロクサナを責めたってどうにもならない。ロクサナだって忘れたくて忘れたわけではないのだから。でも、僕の話を聞きながら一緒に怒り、泣き、苦しみ、僕を励ましてくれたロクサナがもうどこにもいなくなってしまったようで、つらかった。

 そして、気づいた。いつの間にか、ロクサナの隣に立っていたいと思うようになっていたことに。別に、たわいもない話でもよかった。ロクサナと記憶を共有していれば、時間をともにしていられれば、それでよかった。

 隣にいたい。声を聴きたい。言葉を交わしたい。ロクサナの笑顔が見たい。

 ああ、僕はとっくに、ロクサナのことが好きになっていた。すり切れた心は、ロクサナとの時間を乾き切ったスポンジのように吸収し、その心には恋の根を張っていた。

 けれど、僕は何か行動をすることはなかった。だって、何を言えばいい?僕はもう長いこと君と一緒に月を見上げていろんな話をしていたんだ――そんな、残酷なことをロクサナに言えというのか。僕の横で時に笑い、泣き、怒っていたロクサナだって、たぶん僕と一緒にいる時間を心地よいと思ってくれていたはずで。その全てが失われたという事実を突きつけることは、ロクサナの心にナイフを入れる行為に他ならなかった。

 僕の中に、ロクサナとの会話があった。ロクサナは月下の邂逅だけを忘れたようで、僕のことを覚えていた。あの木の上以外で話したことであれば、例えば僕がロクサナの魔法や記憶の喪失について知っているということも、ロクサナは知っていて。そして、ロクサナの記憶のメモリになれているというだけで、もう十分に幸せだった。

 その幸せに耐え切れずに一歩を踏み出そうと思ったのは、たぶん、ふらりと席を立ったロクサナが、かつてのように迷いなくあの巨木の方へと歩を進めるのを見た時だった。

 ロクサナは、確かに木の上での会話の全てを忘れていて。けれどその体は、僕との時間を覚えていた。

 狂いそうなほどに心が叫んだ。もう一度、もう一度あの幸せな時間を取り戻すんだと、魂が僕に叫び続けていた。

 立ち上がった僕は、そうしてロクサナが消えていった先へと向かった。

 果たして、ロクサナはかつてのようにその枝の上に座り、空を見上げていた。愛おしい光景がそこにあった。

 ロクサナの方から、月下の語らいの有無を聞いていた時には、思わず話してしまいそうになった。けれど、言えなかった。言って、どうするというのだ。

 正直、話したくて仕方がなかった。僕はロクサナ本人さえ知らないロクサナのことを知っていると自慢したかったのか、ひょっとしたらロクサナが忘れてしまった過去を思い出すかもしれないという希望を抱いたのか、それとも罪悪感に付け込んで再び言葉を交わすようになりたかったのか。

 今となっては自分の思いなんてわからないけれど、僕は結局、答えを濁す選択をした。

 そうして、僕とロクサナを繋いでいた糸は今度こそほどけてしまう――はずだった。


「不思議だよね。結局僕たちはこうして一緒にベッドに入るような仲になっているんだから」


 小さく寝息を立てるロクサナの胸元、わずかに青みがかった金属からなるペンダントへと視線が吸い寄せられる。どれほど効果があるかはわからないけれど、それが少しでもロクサナの記憶の喪失を防ぐことができますようにと、心から祈った。もしそれができるのならば、僕が魔具を生み出した確かな意味を、僕は感じることができる。

 そういえば、作製をやめてしまった魔具を再び作ろうかと考え始めたのもロクサナがきっかけだった。自分の魔法を呪いだなんだと言いながら、ロクサナは苦行に音を上げることなく運命に立ち向かっていた。そんなロクサナの隣に並びたいと思ったのならば、とうに語り終えた過去くらい乗り越えられるべきだと思った。


「おやすみ、ロクサナ。いい夢を」


 限界まで気配を消して、かつてのように頬に触れるように唇を落とした。ロクサナは、目を覚まさなかった。


 目を瞑った。意識の中から、レイラの寝息が、ロクサナの寝息が、消えていく。体の感覚が、あいまいになっていく。


 戦いが、迫っている。厳しい、戦いになるはずだ。

 けれど、不思議と負ける気がしなかった。ロクサナを守るためならば、僕はなんだってできる気がした。

 勝利を、胸に。僕は全身の疲労感に引きずられるようにして深い眠りへと落ちていった。






 仕返しよ――そんな言葉とともに、意識薄れゆく僕の頬に温かいものが触れた気がした。

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