51出立前
ブラックドラゴンを倒しに行くと決めたからと言って、すぐに街を出るわけにはいかなかった。確かに時間は一刻を争う。こうして出立を遅らせるほどに、次の街や村がブラックドラゴンの餌食になっているはずで。けれど、私たちには準備期間が必要だった。
ドラゴンは天空の王とも呼ばれる、空の覇者だ。高高度から放たれる魔法の雨を前に、無策で挑んではなすすべもなくやられるのが目に見えている。マリアンヌの呪術頼りというわけにもいかない。その場合、マリアンヌの攻撃が失敗したら私たちはそろって的になって死ぬしかないのだから。
つまり、遠距離攻撃手段を確保する必要があった。そして、その状況で頼れるのはキルハだった。
魔具。魔法の効果を込めたそれを、作る必要があった。けれど、手元に魔具の作成に必要なセイントリリーの花はない。
状況を解決する一手をもたらしたのは、目を覚ましたシャクヤクだった。まだ回復しきっていない魔力を消費して、彼は空間魔法で、魔具の設計を練るキルハを除いた私たち三人を西の大地へと運んでくれた。
視界がぐにゃりと歪み、感覚が一瞬途切れ、次の瞬間には別の場所にいるという不思議な体験に目が点になった。
そして何より、人類の生存圏である荒野のすぐ先にある魔物たちの楽園であった森の荒れ果てた姿を見て息をのんだ。焼野原となったそこには、木の一本も生えることはなく、炭化した大地が続いていた。所々で立ち上る白煙は、いまだにくすぶっている残り火だろう。もう半年たっていて雨だって降っただろうにまだあの恐るべき魔具の炎が残っているのかと思ったが、たぶん違う。
振り返った先、私たちアヴァンギャルドに、そしてその先にいる魔物たちににらみを利かせていた新たな砦は、無残な姿をさらしていた。たぶんつい先日の激しい戦いで、再びここらに魔具の炎が叩き込まれたのだろう。そうして、魔物たちは倒れ、今もその戦火が残っている。
騎士たちは、勝利したのだろうか。視界に映る荒野には、動く影は見つけられなかった。
人も、魔物も、何もいない。ただ死んだように静まり返った大地と、その奥にポツンと残る、まるで子供が崩した砂場のお城のように無残な姿をさらす砦があった。やっぱり、そこにも人の気配はない。
少なくとも騎士たちは勝利してはいない。共倒れか、敗北か。後者であれば人間の領域へと踏み込んだ魔物たちはその奥地へと足を延ばし、街を襲っているころだろう。
確認をしたかった。私は正義の人というわけではないけれど、それでも今こうしている間にも街が次々と滅んでいるかもしれないと、居ても立っても居られない焦燥感に駆られた。
でも、だめだ。私にはやることがある。西の凶悪な魔物たちがたとえ街々を襲っているとして、けれどそれらを倒せないほど人類は弱くないはずだ。人類が団結して戦えば、勝利はできる。けれど、ブラックドラゴン相手ではそうはならない。だから私は、私たちは、誰も勝てずになすすべもなくやられることになってしまう相手を斃すために行動しなければならない。
空の覇者を斃す――無茶だとわかっているけれど、私はその言葉を胸に、荒野の向こうから聞こえてきそうな恐怖の声を無視する。後ろ髪をひかれながらも、私は魔物たちの領域の、さらに奥をにらむ。
キルハとともに向かったあの場所は、咲き誇る花々は無事だろうか。
燃えた大地は答えてくれない。ただ不安ばかりが募っていった。
魔力を消費しすぎてぐったりしているシャクヤクに送ってもらった礼を告げて、私達はさっそく残火のくすぶる大地の奥へと歩を進めた。
果たして、私が訪れたあの花畑は、確かに残っていた。魔物の大行進のせいか、巨木すらも倒れた森を進んだ先、ぽっかりと現れた円形の大地には、かつてと変わらぬ美しい花畑が広がっていた。
「……へぇ、別に疑っていたわけじゃないけれど、きれいなのね」
そうつぶやいたマリアンヌは、ちらとアベルの顔を見て、それから視界に入った私に焦点を当てて顔をゆがめる。二人きりだったらよかったのに――視線で告げるマリアンヌに苦笑を返す。私も、かつてキルハとこの場所に訪れた時にはとても感動したし、そんなきれいな光景を前に、胸が高鳴ったものだった。だから、アベルと二人でいたいというマリアンヌの思いだってよく分かった。けれどこの場所に来たことがある私の案内が必要だったのだから仕方がない。
アベルともう一度訪れたいのならば、ブラックドラゴンとの戦いが終わってからシャクヤクに送ってもらうなどして二人で来ればいいのだ。まあ、初見の興奮には劣るだろうけれど。
私たちはさっそく花を摘んでいく。まるで魔物たちがいつくしむように踏み荒らすことなく残る、破壊された森の奥に広がる美しい花畑を、侵略していく。
一つ手折るごとに、申し訳なさで胸の中がいっぱいになった。自分がこの美しい花畑を汚しているようで、自分が嫌になった。
けれど、やらなければならない。ブラックドラゴンを斃すために使われるのであれば、この花々も摘み取られるのを許してくれないだろうか。……許してはくれないかもしれない。何しろ、この花たちと魔物とは一連托生なのだから。大気の、あるいは魔力濃度が高い場所にしか咲くことができないセイントリリーの花は、魔力を持つ魔物たちが生息する魔物の領域でしか存在できない。魔物たちが微弱に放出している魔力、死の瞬間から少しずつ体外にこぼれる魔力、魔法を使う際に変換されなかった魔力――それらが積み重なって魔力濃度が引き上げられることで、ようやくセイントリリーは咲き誇る。
キルハ曰く、セイントリリー自体は人間社会でも育てることは不可能ではないかもしれないそうだ。ただ、魔力を必要とするセイントリリーは、普通に育てては人間社会では花を咲かせず、つぼみすらつけることはない。そうしてセイントリリーは次世代に命をつなぐことなく枯れてしまう。花を咲かせることが可能であるとすれば、魔女たちが閉鎖空間で魔力を放出することで育てるような方法ではないかという。
王国は呪術師たちにセイントリリーの花を育てさせることで、魔具を生み出すに至ったのではないかというのがキルハの言い分だった。
実際のところはわからない。けれど、魔物たちがほとんどいない、荒れ果てたこの森。ここに咲き誇るこの花々を王国が見つけたら、根こそぎ花をとっていってしまうのではないかと思う。そういう意味では、王国がここを見つけずにいたことは幸運だった。
「……もう十分よね?」
「うん、多分足りるんじゃないかな」
持ってきた布袋すべてがいっぱいになるまで詰めて、私たちは急いで来た道を引き返す。空高くに登った太陽が照り付ける。木々が折れて積み重なった足場のない森の中を、私達は疾走する。
気が急いていく。足が速くなる。小さな悲鳴が聞こえた。遅れそうになったマリアンヌを、その手に持つ荷物ごとアベルが担いでいた。前衛である私やアベルの速度にここまでついてくることができるマリアンヌが異常なのであって、遅れるのは当然だった。
下ろしなさいとバタバタと手足を振り回すマリアンヌをあっさりと無視して、アベルが私の横に並ぶ。
「急ぐぞ」
さらにペースを上げたアベルの横を走りながら、顔を赤くするマリアンヌと視線を合わせた。下ろせと叫ぶ割にその抵抗は形ばかりのもので、わずかに口元に微笑をたたえていたマリアンヌは、その顔を見られる恥ずかしさからか、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
ごめん、とマリアンヌのことを気遣わずに高速で走っていたことを心の中で詫びる。声に出せば、きっとマリアンヌはこれでもかと私に罵詈雑言を並べ立てただろう――気恥ずかしさから。
それから、私は風よけになったアベルの後をついて、ただひたすらに走り続けた。
「お疲れ。後は任せて」
そう言って、キルハは私たちからセイントリリーを受け取るなり、追い出すように扉を閉めた。扉の先、消えたキルハの顔を思い出しながら、私はそこに立ち尽くした。目の下のクマ、わずかにこけた頬。太陽にあたっていないせいか、その顔色はひどく血の気が引いていた。
心配だったけれど、ここからの作業はキルハ一人にしかできない。私たちの協力は邪魔にしかならないだろう。
逸る気持ちを抑えながら、私は心落ち着けるために厨房へと向かった。アベルがそろえていた茶葉の中から好みの匂いのものを選び、それを淹れた。
白い湯気が趣ある緑の装飾の施されたカップから立ち上る。そのかぐわしい匂いを肺いっぱいに吸い込んで、吐き出す。
少しだけ心が落ち着いた。
どれだけ気持ちが急いても、それで空回りしてしまっていては意味がない。気を張りすぎて疲れてしまってはいけないし、手持無沙汰な状況が嫌で無理にキルハを手伝って作業を遅らせるのもだめだ。
目を閉じる。キルハに会いたい、キルハを手伝いたいという思いを押し殺す。封じようとすればするほど、その感情は私の心の中で膨れ上がっていく。封じ込めている蓋が持ち上がり、溢れんばかりの思いを胸に私が立ち上がろうとした、その時。
「おかーさん?」
ひょこ、と扉の先から顔を出したレイラが私のことを呼んだ。もうすっかりレイラの呼び方にも慣れてしまっていた。おかーさんと、そう呼ばれるとどうにもむずがゆくて、そして自分はそう呼ばれるにふさわしくない相手だと心が叫びだす。レイラに母と呼ばれるべきは、私ではない。レイラの母、アマーリエ。
私の幼馴染だという彼女のことを早く見つけてあげたいけれど、状況がそれを許さない。
「……レイラ、もう少ししたら私たちは戦いに行かないといけないの。一人でお留守番できる?」
「や!わたしもいく!」
小さな足で駆け寄ってきたレイラが、私の足に体当たりするように抱き着いてくる。その体はわずかに震えていた。
私が、レイラの元から去ってしまう恐怖だろうか。父が死に、母が行方不明になったレイラは、去っていった二人の姿を私に重ねているのではないだろうか。
大丈夫、と告げる代わりにレイラの背中をとんとんと戦う。次第に震えは収まっていき、代わりにすがるように私を見上げる涙目が視界に映る。
ああ、できることなら私だってレイラと離れたくはない。けれど強敵相手にレイラを守りながら戦えるほど、私は強くない。だから、レイラには街にいてほしい。レイラが安全な状況にいれば、私は心配することなく戦えるから。
「だから、お願い。レイラは街にいて」
「やー!わたしもいくの、ぜったいにいくの」
「……ごめんね。どうしても、連れていけないの」
私が決して意見を曲げないと理解したからか、レイラは目を潤ませ、ついには激しく泣き始めた。小さなこぶしが私の体を撃つ。ドン、ドンと、弱いその攻撃が、けれど魔物の攻撃の比ではないほどに私の心を激しく揺らす。
下唇をかみしめて、レイラの攻撃を甘んじて受け入れる。それ以外に私にできることはなかった。
何があったのかと顔を覗かせたアベルの姿を見て、レイラが涙声で私に対する恨み言を告げる。連れて行ってくれないの、と濁音交じりの声を聴いたアベルは、けれど普段の猫かわいがりとは違って、静かに首を横に振った。およそ何でも許可してくれるアベルにさえ同行を拒否されたことで、レイラは一層大きな声で泣き始めた。
頭に響く甲高い声が消えるまで、私は必死にレイラをあやし続けた。
「……できたよ」
死にそうな顔のキルハが私たちの前に現れたのは、それからわずか四時間ほど後だった。空がゆっくりと茜色に染まっていく時間。幽鬼のように青白い顔をしたキルハは、わずかにふらつきながら魔具だろういくつかの道具を持ってやってきた。
「早かったね?」
「急ピッチで仕上げたからね……正直、性能もあまりよくはないんだ」
そういいながら、キルハは作り上げた魔具をテーブルの上に広げる。泣きつかれてソファで眠っていたレイラがその音で目を覚ます。そして、自分の同行を唯一否定していないキルハに近づき、ぎゅっとしがみついた。
目を細めながらぽんぽんとレイラの頭を撫でたキルハは、それからテーブルに並べた魔具の説明を始めた。それは、本当に魔法に等しい力を持った道具ばかりだった。なるほど、魔具の危険性という言葉の意味を、私は心から実感した。こんなものが出回れば社会は大きな変革の時を迎えるだろう。そして、その変化の中ではきっと多くの不幸がある。
「……あともう一つ、奥の手も用意しているんだ。本当は許可したくなんてないけれど、これが最適だと思ってしまったから……」
そういって、キルハは仄暗い目を私に向ける。瞳の奥で私を心配する色が、強い熱となって私に突き刺さる。
キルハが、その奥の手の説明を告げて。
「……あんた、正気?」
思わず口を出たマリアンヌの言葉は、私の思いを代弁するものだった。
正気だよ、と悔しそうに告げたキルハが再び私を見る。その作戦に乗るか否かを、無言で問いかける。
私の答えは決まっていた。頷けば、キルハは諦めを含んだため息を漏らし、気持ちを切り替えるように頬を張った。
「それじゃあ、いつでも出発できるね。今すぐ出たほうがいいかな?」
「いや、ブラックドラゴンの漆黒の体を、夜に探すのは困難だ。明日の明朝に街を出るべきだな」
アベルの意見を否定する声は上がらず、私たちは最後の平穏な夜を享受するために動き始めた。
「……ロクサナ、いいかな」
風呂上がりでぬれた二人分の髪を乾かして寝ようとした時、ためらいがちな小さなノックとともに、私を呼ぶキルハの声がした。私の袖をつかむレイラの頭を軽く撫でれば、その指はゆっくりと開いていく。
解放された私は、たくさんの思いを胸に歩み、扉を開く。
「もう寝に入っていたのかな?起こしてごめんね」
「ううん、今明かりを消したところだから大丈夫。……どうしたの?」
ろうそくの明かりを消した部屋は、ガラス窓から差し込むわずかな月明りだけになっている。その明かりも、多くはカーテンにさえぎられて部屋の中には入らない。
真っ暗な部屋を見たキルハは少し言いにくそうに口ごもり、それから小さくかぶりを振る。そして、覚悟を示すようにこぶしをきゅっと握って口を開いた。
「今日、一緒に寝てもいいかな?」
その提案を聞いて、私の思考はフリーズした。一緒に、寝る?私と?寝るって……ええ?
戦慄く口は思うように言葉を告げることはできず、私はパクパクと口を開け閉めすることしかできなかった。
それを否定と受け取ったのか、少しだけ恥ずかしげに頬を染めたキルハは、やっぱりいいやと首を横に振って取っ手に手をかけて。
「い、いいよ!」
随分と上ずった声が出た。けれどそんな自分の声を意識しているような余裕は、今の私にはなかった。
キルハが一歩を踏み出して、私の部屋へと入ってくる。私の部屋に、キルハがいる。別に初めてのことではない。私は魔法の異常のせいか、あるいは何らかのダメージが肉体に蓄積していたのか、自室で死んで魔法が発動した際に、キルハは扉を蹴破ってこの部屋に入ってきたことがある。けれど当時はキルハの入室を気にしている余裕はなかった。
急に気恥ずかしくなって、私はふいとキルハから視線をそらして――闇の中にぼんやりと浮かび上がる一対の瞳と目があった。
「きるはもいっしょにねるの?」
「う、うん。そうだよ。……いいよね?」
すっかりレイラがいることを忘れていた私は、誰に尋ねているのかわからない質問をして。二人同時に、それを肯定する返事をした。
なんだかおかしくて、少しだけ笑った。それを見て、レイラが嬉しそうにうんうんと頷いていた。
「どうしたの?」
「おかーさんがえがおになったのが、うれしかったの」
もじもじと手を胸の前で捏ねながら、レイラが上目遣いで告げた。その言葉に、心臓を射抜かれた。ああ、なんて可愛いのだろうか。こんなに可愛いから奴隷商につかまってしまうんだ。私がしっかりしないと――気づけば、私の緊張はどこかに吹き飛んでいた。キルハが部屋にやってきている緊張も、明日に出立が控えていて、数日後にはブラックドラゴンと戦うことになるという緊張も、きれいさっぱり私の中から消えていた。いや、完全に消えたというのは言い過ぎかもしれない。こうして気づいてしまえば、また私の気は少しだけ重くなってしまうから。
けれどこれ以上レイラを不安にさせないように、私たちはちゃんと帰って来ると告げるように努めて笑みを浮かべて、ベッドへと歩み寄った。
「……どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
部屋の中央で立ち尽くしていたキルハへと振り向く。小さく首を振って何か思考を追い出すそぶりを見せるキルハの考えが少し気になったけれど、私は明日のためにもさっさとベッドに入ることにした。
レイラと二人で使うためのダブルベッド。その壁際に移動して、隣にレイラ、そしてさらに奥に、キルハが恐る恐る入って来る。
三人で川の字になって天井を見上げる。暗闇の中、三人分の息の音だけが聞こえてくる。そして、意識をしてしまえば心臓がドクンドクンと強く脈打つ音が耳に聞こえるようだった。
探るように布団の中で動く小さな手が、私の手をとらえる。驚きに目を見開いて隣を見れば、レイラが満足げに笑みを浮かべていた。その奥に、私と同じように驚いた様子のキルハの顔があった。
「……みんないっしょなの」
「そうね、一緒だね」
「うん、一緒だよ。必ず、帰って来るからね」
みんな、そう、みんなだ。レイラにとって、もはや私もキルハも、アベルもマリアンヌも、生活に欠かせない存在になっている。レイラはマリアンヌから化粧を教わっていて、アベルと一緒にクッキーを作っていたこともあって、たまにキルハの研究室に入り込んでは何かを教わったり絵本を読んでもらったりしていたようで、さらには私のことを母と呼んで慕ってくれる。
誰も、欠けさせたくない。この幸せな日々を、守りたい。
帰って来るんだ。この街に、レイラのもとに。
その思いを胸に誓えば、恐怖も緊張感もすべて消え去り、気疲れしていたのか私の意識はすぐに闇の中へと落ちていった。




