50緊急依頼
眠りが浅かったせいか、ひどく頭が痛かった。こんな状態ではだめだ。はるか遠く、西の人類と魔物の国境では今も戦いが繰り広げられているはずだ。そして、その戦いの結果次第では、人類の生存圏が魔物たちに侵略されることとなる。その余波はきっとこの街にも届く。まだ遠い戦火に怯えて今から眠ることができなくなっていてはすぐに体調を崩すだろう。
「……私、こんなに弱かったかな?」
ベッドの上で天井を見上げながらつぶやく。答えは出ない。のんきに眠っているレイラが今だけは少し憎らしくて、その頬をつついた。指が柔らかな皮膚に沈む。吸い付くような水気のある肌だった。
ベッドから起きて軽く体を伸ばす。眠気はなかった。ただ、体は重く、万全とは言い難い体調。空はまだ暗い。今日は、戦いはあるのだろうか。魔物の侵略はあるだろうか。
はるか西の戦いより、私が気にするべきは南北の戦線だ。西に比べれば魔物も弱く数もいないとはいえ、西からの襲撃に対応するために戦力が減少している南北は、あるいは西以上に激しい戦いになることが予想された。海岸線沿い、南の方に位置するこの街の地理的に、最も襲撃を気にすべきは南だ。
ストレッチの後、私はとりあえず逸る気持ちを静めるべく訓練場に向かって。
「……早いね?」
朝露に濡れる庭先、石畳の上で激しく動く二つの影。
そこには、私よりずっと早く起きたらしいアベルとマリアンヌの姿があった。後衛であるマリアンヌが一方的にあしらわれる展開になっていないのは、要所で呪術を発動して自分の肉体を強化しているから。こんな街中で呪術を隠すことなく使用するのはどうかと思ったが、それを言えばシャクヤクだって相当なので、似た元師弟ということで私は忠告の言葉を飲み込んだ。
長い髪がたなびく、飛び散るしずくが闇の中へと消えていく。風を切り裂く拳の音。呼吸音、地面が強く踏み鳴らされ、ひねりを加えられた掌底がマリアンヌのあごに迫り、止まる。
「はぁ。また負けたわ……」
「勝たれたらこっちが困る。前衛形無しだろう?」
そんなことわかっているわよ――そうぼやきながらマリアンヌはタオルや水筒を置いてあった一角へと歩み寄り、アベルの分のセットをつかんで放り投げた。そして、闇の中でアベルのちょうど背後に位置していた私と目を合わせて、マリアンヌの顔がゆがむ。
二人の時間を邪魔されたとでも思ったのだろうか。二人がもう起きているなんて予想できなかったのだから、そんなわけがないのに。
「何よ?」
「別に。ただ、ずいぶん早起きだなと思っただけ」
汗をタオルでぬぐいながら、マリアンヌが口を閉ざす。普段ならもっと悪態をつくだろうに、マリアンヌはうつむいたまま言葉を返さない。
「……眠れなかったんだとよ」
「ちょっと、何でいうのよ⁉」
犬のように吠えるマリアンヌを見ながら、私はアベルの言葉の意味を考える。マリアンヌが、眠れなかった?美容のためと言って決して夜更かしをしない、健康優良児なマリアンヌが?
確かによく見れば、汗に濡れる肌は普段よりつやがない気がする。目元に隈はないけれど、しぐさの一つ一つに訓練による疲れとは別種の倦怠感があるように思えた。
首が九十度まで傾きそうになったところで、ようやく私はどうしてマリアンヌが眠れなかったのかと理解した。私と同じで、マリアンヌも近づく戦いを感じて意識が覚醒していたのだろう。
戦場から離れて、もう半年近く。魔物との戦いこそ数度経験していたものの、アヴァンギャルドに在籍していた当時のように、常在戦場といった意識ではなかった。魔物に襲われることは、すでに私たちの日常ではなくなっていた。あれだけ鍛え上げた警戒心だって薄れて、最近では深い眠りにつくことも増えていたのだ。
戦場を忘れた私は、久々に近づく戦火の気配に飲まれたのだ。恐怖が心臓を縛り上げた。いつ近くまで魔物がやってくるかわからないという緊張感が私の意識を覚醒させた。ひょっとしたらこの街にも突如魔物がやってくるんじゃないか――そんなことを夢想したりもした。
マリアンヌもそうして、魔物に怯え、あるいは久々の厳しい戦いに緊張していたのではないかと思う。
では、マリアンヌの訓練に付き合っているアベルは?
私の視線に気づいたアベルが、がりがりと髪を掻く。何を聞かれるかはわかっているだろうに、彼はきつく口を引き結んで何も言わない。私の視界の奥で、アベルの体に隠れるようにマリアンヌが移動していた。闇の中にいる彼女の頬は、羞恥ゆえか少し頬や耳が赤くなっていたように思う。
「……まさか」
「余計な勘ぐりをしないでよね」
ぴしゃりと言って捨てたマリアンヌは、けれどアベルの背に隠れて顔を見せない。まるでマリアンヌを視線から守るようにアベルがその大きな体を私の方へと向ける。その顔には、覚悟が見えた気がした。守るものを見つけた、覚悟。
マリアンヌとアベルの関係は私の知らないところで大きな進展があったらしい。実験室にこもって中々出てこない上、昨日も盛大に言い争っている私とキルハとは違って。
キルハは、今も起きているのだろうか。キルハに会いたい。彼に、大丈夫だよと言ってもらいたい。僕が守ってあげるからと、言ってもらいたい。
そして私は言い返すのだ。私も、キルハのことを守ってあげるから、と。
守られてばかりにはなりたくない。私だって戦える。むしろ、いざという時は私がキルハの盾になるべきだ。私は、死なないのだから。
「……気持ち悪いわよ、あんた」
百面相をしていたらしい私は顔に手を当てて頬をもみほぐした。大丈夫、落ち着け。心に言い聞かせるけれど、近づく戦いに高揚する私の心は、キルハへの思いも相まって激しい感情を呼び起こす。
そんな熱を、大きな吐息に変えて吐き出す。
「……アベル、手合わせをしてもらってもいい?ちょっと体を動かさないと眠れそうにないの」
「あんたも眠れてなかったのね」
「そうだよ?」
素直に認めれば、マリアンヌは負けたとでもいうように顔をゆがめて、それからずんずんと地面を踏み鳴らしながらこちらへと近づいてきた。
その背にアベルを隠すように――といってもさすがに身長や体格が違いすぎるからアベルを完全に私の視界から隠すことはできていなかったけれど――立ちはだかり、自分の胸を指さして宣言した。
「わたくしが相手をしてあげるわよ」
「……そう?それじゃあお願いするね」
狐につままれたような顔をしたマリアンヌを見て、私は思わず小さく笑った。何よ、とかみつくようにマリアンヌが告げる。マリアンヌの嫉妬と羞恥の宿った視線を飄々と受け流す。
向かい合う私たちの間を一陣の風が吹いていく。白い花弁が一枚、ひらひらと舞いながら視界を通り過ぎて行った。
それを合図に、私は地面を強く踏んで――足音。それも、かなり慌ただしい。
マリアンヌもまたそれを耳にしたようで、動きを止めて暗闇の先をにらむ。
「……ハンター協会の支部長だな」
気配からやってきた人物がだれなのか察したアベルの言葉を聞いて、私はヒュッと喉を鳴らした。
ハンター協会の支部長が、焦りを感じさせる足取りでやってきたということは。
「緊急依頼だ!」
支部長もまた私たちの気配に気づいたらしく、勝手に入ってきた門から屋敷ではなくまっすぐに庭の端にある訓練場へと向かってきた。
そうして告げられた言葉は、私たちを戦場へと向かわせるものだった。
応接室にて。普段であれば汗を気にして訓練後すぐに風呂に入るだろうマリアンヌも、さすがに支部長直々の緊急連絡を後回しにすることはなかった。壁にもたれてじっと腕を組んでいて、足はトントンとリズミカルに床をふみならしていた。その音が伝染するように、支部長もまた組んだ手を指で小刻みに叩く。
じりじりとした緊張感が限界に達しようとしたところで、アベルがキルハを呼んで応接室に入ってきた。
アベルの後に続くキルハは、まったく寝ていないのか浅黒い隈を目の下に作っていた。これから戦いになりそうなのに大丈夫なのだろうか。
私たち四人がそろったことを確認した支部長は、キルハたちがソファに座るのも待たずに、前傾姿勢になって重苦しい息とともに口を開いた。
「……北部の街が一つ、ブラックドラゴンによって壊滅した」
空気が凍った。最初、支部長の言葉の意味が全く分からなかった。ブラックドラゴン。それは西の戦線へと魔物たちを追いやっている最恐の魔物であり、それが北部の街を壊滅させたというのが、理解できなかった。私の聞き間違い――ではないらしい。
有無を言わせぬ強い光を目に宿した支部長は話し始める。その街にはワルプルギスの本拠地があり、魔女たちに引き寄せられたのか、はるか西にいるはずのブラックドラゴンはさらに北の大地から空を飛んで強襲し、ブレスや風魔法によって街を破壊しつくしたらしい。
襲撃と街の壊滅の情報は、空間転移によって死を免れたシャクヤクによってもたらされたものだという。とはいえシャクヤクも強襲したブラックドラゴンに抵抗すべき魔力をすべて吐き出してしまっており、今にも意識を失いそうな中でかろうじてその情報を伝えて今は昏睡状態だという。
「……ワルプルギスの本拠地ねぇ?」
首をかしげるマリアンヌに、そこは重要なところではないだろと思ったが、口にすることはなかった。それよりも考えるべきことは多かった。
空間魔法というとてつもない魔法を持つ魔女であるシャクヤク。その攻撃能力がどの程度かはわからないけれど、ワルプルギスという魔女たちの秘密結社のリーダーをしているくらいだから相当な実力者であるはずで。
そんなシャクヤクが手も足もできずに逃げ帰ってきたということが、事態の深刻さを表していた。
誰にも倒せないようなブラックドラゴンという個体。そんな存在が、あろうことか戦線を乗り越えて人類圏にすでに入り込んでいる。
対処方法を間違えれば人類の全滅さえありうる絶望的な状況だった。
「……僕たちでも勝てないよ」
「……わかっている」
苦い顔をしたキルハに対して、それ以上に暗い顔で支部長が答える。支部長とて、わかっているのだ。伝え聞くだけでも化け物であるブラックドラゴンの脅威を。あるいは元は優秀なハンターであったと思しき支部長は、実際にブラックドラゴンを見たことでもあるのだろうか。
いや、さすがにそれはないか。アヴァンギャルドにいた私でさえ、ブラックドラゴンを見たのは一回。そしてその時、ブラックドラゴンは十名を超えるアヴァンギャルドの精鋭に死者を出しながら討伐された。それほどの脅威に遭遇して、こう言っては何だが人類に毛が生えた程度の戦闘能力しか持っていなさそうな支部長が無事に生き延びることができるとは思えない。
「ブラックドラゴンの戦闘能力についてはどれだけ知っている?」
「そうだね……恐ろしいほどの火力を誇るブレスと、翼を使って引き起こす、木々を容易く両断するような風魔法に、あらゆる防御を切り裂く鋭い爪や牙なんかだね。あとは、そのドラゴン固有の魔法……僕が知っているのは、吸った者を絶不調にする毒か病魔をまき散らす霧を放つ魔法に、狂化とでも呼ぶべき暴走状態になって驚異的な身体能力へと跳ね上げる魔法なんかかな」
「よく知ってるな?……まさか、」
ブラックドラゴンとの交戦経験があるのか、と言葉を途切れさせながら尋ねる支部長に、キルハはあいまいな笑みを浮かべてうなずく。
そうか、と告げる支部長の目にわずかな希望が宿ったけれど、それははかない希望に過ぎない。
何しろ唯一のブラックドラゴンとの遭遇時、私たちは総じて能無しだったからだ。邪魔をしてくれるなと私は師匠の異空間に放り込まれ、戦いに参加することが許されなかった。余波を食らうだけでも死んでしまうブラックドラゴンの戦いに巻き込まれるか、師匠の死と共に消滅しかねない異空間の中にいるか――当時の師匠は後者の方が生存の可能性が高いと踏んで、私とアベル、キルハを異空間の中に閉じ込めた。
戦闘への参加が許されたマリアンヌも、はるか遠くから超遠距離で呪術を放つ程度で、決して近づくことは許されなかった。
わずか一時間ほどで終わることになる激しい戦いは、ブラックドラゴンが巨大なクレーターの底に斃れて終結した。
遠見の魔法を使える魔女が映し出した戦いの攻撃を見ることしかできなかった私たちは、ブラックドラゴンの恐るべき能力をいやというほど見せつけられた。仲間が次々と死んでいく中、ただ守られているばかりな自分に激しい怒りを覚えた。
思えばあの戦いが、私が死を望んで無気力に生きるのではなく、真剣に戦いに臨むようになったきっかけのような気もする。
同時に思い出すのは、ブラックドラゴンとの死闘をほぼ無傷で生き延び、けれどその戦いで残っていた気力や生命力やらをすべて使い果たしてしまったようになって、それから一週間と経たずに老衰で死んだ師匠が安らかに眠る顔だった。
それから、師匠に守られた者たちによって次のアヴァンギャルドの時代が始まったのだ。その中核が、自分で言うのも何だが、私たちだった。
まあ、戦闘能力はともかく協調性という面でアヴァンギャルドを少しでもまとめられるものはほとんどいなかったのだから、私たちが戦闘とは別種の徒労の中で組織をまとめるために奮闘を要することになったのは仕方がない。
体が震えた。死の恐怖というよりは、圧倒的な強者に歯向かうことへの恐怖。死から遠く離れていた私は、ブラックドラゴンの前に立つだけでその気迫に飲まれて思うように動くことができないのではないだろうか。
誰も、何も言わなかった。緊迫した空気が伝えるブラックドラゴンの能力に、支部長の顔が土気色になっていく。
体から震えを追い払うように強く拳を握る。掌に爪を立てながら、私は顔を上げてにらむように支部長を見た。
「……ハンターはブラックドラゴンを倒すための戦力をそろえられるの?」
力なく、首が横に振られる。わかっていたことだった。魔女を排斥するこの国に、アヴァンギャルド以上の戦力などない。たかが在野のハンターたちにブラックドラゴンが倒せるとは思えなかった。
無駄死に。私たちも、ハンターも、誰もがブラックドラゴンという驚異の前では無力なのだ。
「王国は騎士を出さないわけ?」
「……まだ情報は入ってきていないが、ブラックドラゴンがやってきた方、北の警備にあたっていた騎士たちの応援は期待できないだろう。西は、もはやどれだけ戦力が残っているかも定かではない。そして南は……」
「南は、どうしたのよ?」
これ以上の最悪な状況などないだろうに、支部長はさらにためらうように一度口を閉じる。ゴクリ、と喉が鳴る。私のか、支部長のか、あるいは他の誰かのか。
震える唇を開いて、支部長はゆっくりと言葉を紡ぐ。私たちに絶望を与えるその言葉を。
「……森が、迫ってきているんだ」
「は?」
空気が凍った。思わず口を出たらしいマリアンヌの言葉を聞きながら、私の思考も疑問符でいっぱいだった。一体、支部長は何を言っているのか――
「比喩でもなんでもなく、森が迫ってきているんだ。おそらくは植物タイプの魔物だ。森そのものが一つの生命のように、じりじりと迫っているんだよ。枝や根を鞭や槍のように扱って、近づく者を攻撃しながら森が進んでいるんだ。もうずいぶん前からずっとそうだ。騎士やハンターたちで森の侵攻を阻んでいたが、騎士の戦力は落ち、さらにはブラックドラゴンに影響されてか侵攻速度が上がっていて、とてもじゃないが侵攻を阻止できるような状況ではない」
「……知らないわよ、そんなの」
だろうな、と支部長はもはや完全に諦めた空気を漂わせながら肩をすくめた。清々しさすら感じる顔だった。その顔は、もはや土人形のようになっていた。
「南から森が侵攻してきています、あと百年もしないうちに人類の生存圏はゆっくりと森の魔物に飲まれて人類は滅亡します……そんな話、一般に伝えられるわけがないだろうが」
がっくりと肩を落とす支部長が顔を伏せながらつぶやいた。震えるその体は、ひどく小さく見えた。人類の、滅亡。言葉にされればその可能性はまるで杭を打ち抜くように私たちの心に突き刺さった。
わかっていたことだった。魔物と人類は互いに熾烈な生存競争を繰り広げているのだ。そして、人類は圧倒的な不利に立たされている。この期に及んで理解できない力だからと魔法を持つ魔女を排斥している人類に、魔物との戦いに勝利する力はない。
アヴァンギャルドが消えて、最前線でかろうじて戦線を維持していた拮抗は終わりを告げた。そのタイミングを計ったように現れたブラックドラゴン。南からは本体の存在すらわからない森のそのものが人類を襲っている。
そんなもの、もう勝てるとは思えなかった。
絶望が、私の心を満たしていく。人類は、滅ぶ。終末がやってくる。
それで、どうする?潔くそれを受け入れるのか。情報規制がされているとはいえ、いずれ人々は人類の滅びを知るだろう。その先に訪れるのは、秩序なき破壊の社会。幸せな日々なんてありはしない、絶望の世界。
けれど、そこにはきっと、成長したレイラが生きている。
そして今ブラックドラゴンの破壊活動を阻止すれば、わずかとはいえ人類の命日は伸びて、私もまた仮初の平穏を享受することができる。
――仮初だから何だ。だからどうした。その平穏は、私が欲してやまなかったものだろう。アマーリエを助けて、レイラを幸せにすると、そう誓っただろう。キルハと今後の世界を歩いていきたいと、そう望んだのだろう。
だったら、それを掴むために立ち上がるべきだ。たとえ、勝てない敵相手だとしても。
「……私は行くよ」
ぎょっと目を見開くような気配を感じた。すぐ隣で、勢いよく立ち上がる音。気づけば朝が来ていて、窓から光が差し込んでいた。目を細くする。視界の先、逆光になったキルハは鋭い目で、泣きそうになりながら私をにらんでいた。
「どうして、そんな風に簡単に命を投げ出すようなことを言うんだよ。逃げればいいんだよ。僕たちだけでブラックドラゴンに立ち向かうなんてできやしないんだよ。だから、だから!自殺しに行くなんて宣言をもうしないでくれよ!」
魂からの叫びが、私の心を少しだけ揺らす。キルハの目じりから零れ落ちた涙が、私の手に落ちた。温かなしずくは、手の甲にぶつかって飛び散った。
そのしずくに、ブラックドラゴンの軽い攻撃に吹き飛ばされる人類を重ねたのは、いくら何でも私の発想がおかしいだろうか。
ブラックドラゴンという怪物の中の怪物は、十把一絡げに人類を殺していくだろう。けれど私は、私だけは、死んでもブラックドラゴンにあらがうことができる。天空の覇者であるドラゴンに、たとえ私の剣が届きもしないとしても、私は死ぬことなく戦い続けられる。私のこの魔法は、今この戦いのためにもたらされた力なのではないだろうか。
何より、私には守るべきものがあるのだ。つかみたい未来があるのだ。そのためなら、死地に一歩を踏み出す程度のことでためらってなんかいられない。
だから私は、ただじっとキルハの目を見つめた。くしゃりと、顔がゆがんで。力が抜けたように膝からソファに倒れこんだキルハが、私の体を抱きしめた。
耳元で、怖い、と聞こえた気がした。
「……僕も行くよ」
「キルハは、レイラを守っていてよ。私の帰る場所を、守ってよ」
「いいや、絶対に行くよ。ロクサナを守るために、僕もブラックドラゴンと戦いに行く」
ああ、ダメだ。キルハはもう覚悟を決めてしまった。その目に宿る強い光を覆すことは私にはできそうになかった。惚れた弱みとでもいうのか、その光を損なわせることが私は嫌だった。あるいは、守ると言われたことがうれしかったからだろうか。
わたくしは行かないわよ――そう告げたマリアンヌに、それでいいとでもいうように私はうなずいて。
けれど、アベルの言葉を聞いてマリアンヌの顔がこれでもかとひきつる。
「ここは男を見せる時だな。ブラックドラゴンの攻撃か……それはもう痛いんだろうな」
「待ちなさいよ⁉アベル、あんた正気⁉」
まるで私たちが正気でないとでも言いたげなマリアンヌに文句の一つでも言ってやりたかったが、それを遮るようにアベルがその大きな掌を私の方へと突き付けて言葉を止めさせた。
まさかお前らそろってそんな関係なのか?――このタイミングで野次馬根性を発揮して見せた支部長のことは意識して頭の外へと排除する。
困ったように笑うキルハが、わずかに顔を赤らめながらアベルとマリアンヌの方へと顔をそむける。別に、今さら泣き顔を見て特に思うことはないのだから、もっと気にせずに私の腕の中で泣いてくれればいいのに。いや、かわいいとは思ったかもしれない。
腕の中から消える熱に名残惜しさを覚えながらも、私は口を戦慄かせるマリアンヌの方を見た。
「……冗談でしょ?冗談だって言ってよ、アベル!」
「冗談ではない。本気だ。仲間が、人類を救うために戦いに行くと言っているんだ。俺が行かない理由はない。それに、お前との未来を手に入れるための戦いだと思えば、怖くもないさ」
マリアンヌとの未来を手に入れるため――その具体的内容を想像したマリアンヌが沸騰したように頭頂部から湯気を吹き出す。
あ、とか、うぁ、とか、言葉にならない声が響く。口をまごつかせるマリアンヌの手を取って、アベルが地面に膝をつく。
「この戦いが終わったら結婚しよう」
カヒュ、とおかしな息を吸う音が響いて。マリアンヌが呆然と目を見開いてアベルのことを見続ける。
「……本気?何でそんなジンクスを持ち出すのよ」
「ジンクス?本心だ。マリアンヌ、俺とともに歩いてほしい。そのために、俺はブラックドラゴンを殴り倒して、未来を手に入れてくる」
ジンクス。戦場に向かう前に愛を誓い合った恋人は帰ってこないというものだ。悲恋の物語の王道を、アベルは否定して見せる。それから、マリアンヌの手の甲に唇を落とす。物語の騎士のように。
ああもう、と顔を真っ赤にしたマリアンヌが腕を振り払う。それから目じりににじんだ涙を乱暴に拭って、腕を組んで不敵な笑みを浮かべた。
「わたくしも行くわよ!」
顔を真っ赤にしたマリアンヌは、勢いに任せてアベルに抱き着く。そして、耳元でぽつりと一言。
――わたくしもあなたのことが好きよ。
それから、ニヤニヤと笑みを浮かべる私の顔を見て、今の言葉が聞こえていたことに気づいたマリアンヌが、近くにあった置物を全力で私に投げつけてきた。
ご馳走様、とどこかあきれ返ったような声で支部長がつぶやいた。




