48自殺
にらむキルハは何も言わない。けれど、その思いは嫌というほど伝わってきた。
けれど、私も考えを曲げる気はない。
膠着状況に陥った一室に、突如ややのんびりとした野太い声が響いた。
「そういうことなら協力するわよ」
気づけば私たちが囲むテーブルの上空でふわふわと漂っていたシャクヤクがそう話しかけてきた。素早い動きでナイフを握ったマリアンヌが、その切っ先をシャクヤクに突き出す。
空中を泳ぐようにじゃれつきを――私の眼には攻撃にしか映らなかったが――躱したシャクヤクは、まだまだね、とマリアンヌの動きを笑う。いきなり殺傷事件を起こそうとするマリアンヌも大概だが、それを受けて飄々としているシャクヤクもやっぱり相当な奇人だと思った。だからこそ二人は師弟として成立しているのか、逆に師弟になったことで互いが互いに毒されてこんな関係になったのか。
いらだちに顔をゆがめながらも席に着いたマリアンヌが、何よ、と尖った口調でシャクヤクに話しかけた。
「だから、あたしが海に連れて行ってあげるって言ったのよ」
パチン、とシャクヤクが指を鳴らして。私にもかすかに感じ取れるほどの膨大な魔力がシャクヤクの体から吹き出し、私たちの体を包み込んだ。
その次の瞬間、体を支えていた椅子の座面が消失し、私はその場にしりもちをついた。
硬い岩肌。耳に響く潮騒。鼻をくすぐる懐かしいにおい。目の前には、以前も見た広大な海原が広がっていた。
朝の海は、まだ低い太陽の光を強く反射して、光の絨毯のようにまばゆく輝いていた。
「……うみ?」
きょとんと首をかしげるレイラが左右を見回す。そうして私たちの姿を確認して、安堵に息を吐いた。
「いきなり何なのよ?」
「いいからいいから。ほら、ロクサナちゃん。たぶんここに来るつもりだったんでしょう?」
半ば思考停止に陥りながら、私はシャクヤクにうなずいた。いつから彼が話を聞いていたのか、どうして今の場所、レイラと初めてあった岩場に移動したのか、聞きたいことはいくつもあった。
けれど真っ白になった頭は正常に機能せず、それらの思考は言葉になることはなかった。
「ロクサナ!」
歩き出した私の背中に、悲痛に名前を呼ぶ声がたたきつけられた。
背を向けずともわかる。私に向かって、手を伸ばすキルハの姿が瞼に浮かぶようだった。
大丈夫と答えるようにキルハに手を振って、私は一歩、前へと進む。
海面が割れる。白く泡立った水面から現れたのは、海よりも青い蟹だった。巨大な鋏は私の体よりも大きく、分厚い殻の表面には無数の針が伸びていた。青い甲羅に、赤い紋様が広がっていく。淡く輝くそれとともに、巨大な蟹が海を飛び出した。
まるで体の重さを感じてないようにポーンと空に飛びあがった蟹が、落下とともに私めがけて鋏を振り下ろした。
恐怖は、あった。けれどそれを乗り越えるように、私は祈りながら目を閉じ、攻撃を受け入れた。
体を衝撃が襲った。それも一瞬のこと。私の体を押しつぶす攻撃によって私は痛みを感じる余裕もなくその命を散らした。
まるで街を散策するような軽やかな足取りで魔物へと立ち向かったロクサナが、魔物の攻撃を避けることなくその身に受けて、命を散らした。
慌てて近くにいたレイラの目元を隠そうとしたけれど、少しだけ遅かった。
お母さんと呼んでロクサナを慕う少女は、目を大きく見開いて体を硬直させていた。しまった、と思ったけれど後の祭りだ。大体、悪いのはわたくしではなくロクサナだ。どういう風に死ぬのか、もう少し話しておいてくれてもいいだろうに。てっきり魔物に軽く吹き飛ばされて死ぬとか、もう少し損傷の少ない死に方を想像していたから、形を成さぬ血肉となって散らばったロクサナだったものを見て、わたくしは思考停止に陥ってしまった。
これまでならとっくに蘇っているはずのロクサナは、いまだ蘇生の兆しを見せていなかった。
条件反射的にレイラの視界を手のひらで覆い隠すまではよかった。けれど、動きの固まったわたくしの腕の中から、レイラはするりと抜け出して走り出した。
「おかーさん!」
「駄目よ」
手を伸ばす。突然の戦友のむごたらしい死を前にして、わたくしの体は全くいうことを聞いてくれなかった。いつの間にか、ただいがみ合うばかりだったロクサナは、わたくしの中で戦友へと格上げされていた。そのせいで動きが悪くなるなんて話にならない。親しき者の死は、心を凍らせる。何も、手がつかなくなるのだ。こうなるから、わたくしは誰のことも受け入れなかった。突き放しておけば、親しくならなければ、思考を停止することなく生きるために抗い続けることができるから。
生きて、幸せになること。
死んでしまった兄との最後の約束が、頭の中で再生していた。
伸ばした手は、レイラに届かない。
視界の端、じっとロクサナだった塊を見つめる師匠の姿が視界に入った。ロクサナの死を前に、何の動揺もしてないシャクヤクを憎らしく思って、わたくしの思考が急速に回り始める。
死という価値観とどこか離れたところにいるのが、シャクヤクという人間だった。死に怯えることなく、かといって死を崇拝することも唾棄することもなく、ただの現象として見つめるシャクヤクの価値観が苦手だった。彼の眼には、人の死は、人の死という現象にしか映っていない。誰かの死は、その存在が世界から消え去ることでしかない。もう会えなくなるということに心揺さぶられることもなく、シャクヤクはその死を飄々と受け止めて歩みを止めることなく歩き続ける。
兄の時も、そうだった。
早く動いてくれればいいのに、空間魔法でレイラのことを手元に引き寄せてくれればいいのに、シャクヤクはそれをしない。死を恐れない――他人の死に無関心であるということは、死の淵にある人を積極的に救おうとしないということだった。
レイラに追いつき、肩を掴む。
血でぬれた鋏をぎちぎちと鳴らす蟹が、警戒するように、あるいは獲物が自ら近寄ってきたことを喜ぶように、体に走る赤いラインを明滅させる。
肌にピリピリとした感覚を覚える。死がすぐ隣にある時のもの。全身の毛が逆立ち、わたくしは無意識のうちに蟹の魔物に対して呪術を発動しようとする。
けれどそんなわたくしの動きは、手のひらに感じる柔らかな肉体からほとばしる魔力を感じることで中断された。
驚きに呪術の発動を止めてしまうほどの膨大な魔力が、レイラの体から噴き出していた。それは、ロクサナの蘇生時の魔力には遠く及ばない、けれど私の魔力総量を優に超える魔力量だった。
どこかからそんな魔力を引っ張ってきているのか、レイラはその大量の魔力を体外に放出し、両手を合わせて祈り始める。ロクサナの、母と呼び慕う存在の復活を祈る。
降霊魔法。死者に干渉してその魂を現世へと呼び出すのが、おそらくはレイラが使う魔法だ。条件は、発動場所が海であること。
ここは海を前にした岩場。そして、すぐ先に死んだばかりのロクサナがいる。
蒼白な顔で、レイラは懸命に祈る。その魔力の奔流の流れを邪魔しないように、わたくしはそっと呪術を発動し、蟹の魔物の動きを束縛する。
体内魔力を乱す呪術は、一瞬にして蟹の動きを硬直させた。通常あり得ないほどの大型化に至っている魔物は、総じて魔力による肉体の強化がなければ動くこともままならないという。それがシャクヤクの教えであることは癪だけれど、彼から学んだ知識のおかげで、わたくしは厳しいアヴァンギャルド時代を乗り越えて今があるのだから、少しは彼のことを認めてあげなくもない。
吹き付ける潮風を無視するように、緩慢な動きでレイラの髪が浮かび上がった。
純白の光がレイラの体を淡く包み、その光がロクサナの体へと空気を伝って流れていく。
蟹が乗り越えた、その後ろ。物言わぬ骸となっていたロクサナの体を純白の光が包み込み、半透明のロクサナの姿が、空中に浮かび上がる。蟹の足の隙間から見えたそれは、たぶんロクサナの魂。
そして、その魂を取り込むように、肉体が高速で再生し、ロクサナはこれまでのように蘇った。
体の感覚が消える。気づけば私の意識は暗闇の世界にあった。懐かしい、何度も経験した死と生のはざま。あるいはこの虚無こそが死なのかもしれない。死後には楽園が待っているという考えも、生前の行いが悪ければ悪しき魂が向かう地へと行くことになるだとか、死後は再び別の存在となって生まれ変わるという話があるが、私はたぶん、死後はこんな虚無の世界の中で気を狂わせていって魂の消滅を迎えるのではないかと思う。
そうして、私は暗闇の中、魔法の発動を待ち続けた。けれど、いくら待ってもあの濁流は私を包み込まない。膨大な熱の奔流が私の中から噴き出すことも、感じることもなく。
私は、自分に訪れた死を予感した。
私は、死んだのだろうか。魔法が正常に機能せず、ここで終わりを迎えるのだろうか。
抗うことなく、自ら進んで望んだ死。これは、自殺だった。
昔考えた、呪いのような魔法から逃れる方法の一つを思い出した。自殺は、魔法の適用外なのではないかという考え。その計画を実行したか、私は覚えていなかった。気づけば、そんなことは忘れて私は戦いに没頭していた。
多分、私は一度自殺を試したのではないだろうか。そして、自殺が私を本当の意味で死なせてくれるものではないと理解した。その後、自殺は無意味だという記憶が失われて、私は自然と自殺を考えなくなったのではないだろうか。でも、もし私はかつて自殺を行ったことがなくて、そして私の魔法が自殺に対して適用されないのだとしたら、私の人生は、ここで終わりだ。
――人生が、終わる。永遠の死を、孤独を迎える。
それは、私がかつて心の底から欲してやまなかったものだった。永遠の死。苦しい、死の連続からの解放。生というくびきから解き放たれ、眠りにつく。それを、私は望んでいた。――はずだった。
ああ、私は呪いのような魔法を手に、魔物に殺され続ける地獄から逃れたかっただけなのだ。死にたくなんて、なかったのだ。
この世界でおそらくは誰よりも、私は死の恐怖を知っている。それは、万人が感じる死という終わりや、死後という不透明な先に対して抱く恐怖とは違う。私が知っているのは、死の瞬間の痛み、喪失感、絶望、その手の感覚と思いだ。
死は怖い。できることなら、死にたくなんてない。どうせだったら、死なないように体を回復させてくれるような魔法が欲しかった。それならば、私は死の瞬間、自分の輪郭が世界に溶けて消えていくあの虚無感を感じることなく、生の中にあり続けることができただろう。例えば、瞬時に傷が再生したという、ワルプルギス王国の亡き魔王のように。
恐怖が、私という存在を縛っていく。何も見えない暗闇の中。肉体の感覚もない精神世界のようなそこで、私はけれど、自分の頬を伝う涙を感じた気がした。
死にたくないと、心から思った。
死ねないと、思った。
私には、やり残したことがある。レイラを幸せにすると誓った。レイラの母を見つけ出すと心に決めた。それを放り出して死ぬわけにはいかないと、魂が叫んだ。
そして、何より。キルハとともに歩む輝かしい未来が手の中から零れ落ちていかないように、私は必死で存在しない手足に「動け」と命令を下した。
動け、生きるんだ。私は、まだ、生きたいんだ。
体は、動かない。
虚無の世界は何も変わらない。
私はただの一人の死者。魔法を使えない私は、ただの凡人に過ぎず、世界の法則をゆがめるような何かを手にすることはできない。
けれど、私の願いがかなったのか、闇のはるか先に、淡い光が差し込んだ。
誘蛾灯に惹かれるように、私は無心でその光へと手を伸ばした。
あたたかな光。森の中の木漏れ日のような、夜空にちりばめられた星屑のような、人知を超えた何かの光。それに近づこうと、もがき続けた。
その光が、強く瞬いて。
私の体を、淡い純白の光が包み込んだ。
まるで、レイラを抱いているような感覚があった。
いいや、違う。私がレイラに、レイラの魔力に抱かれているのではないだろうか。
そんなことを考えた瞬間、おそらくは私の魔法の発動を阻害していた鎖のような何かがちぎれるような、甲高い音が聞こえた気がした。同時に、魂から沸き起こった膨大な魔力が周囲を駆け巡る。懐かしさすら覚える感覚だった。狂おしいほどに、私が欲した魔法が、発動された。激しい濁流が、私の魂を運んでいく。現世へと、生きるものの世界へと。
そうして、私は世界に帰還を果たした。
目を覚ます。私の視界の先には、青い蟹の背中。背後からは潮風が吹き付け、潮の香りを運んでくる。蟹の背中に隠された先に、わずかに淡い純白の光を見た。
反射的に握っていた剣を振りぬき、私という獲物をつぶして気を抜いていた蟹の腹部へと刃をふるった。
剣が固いものを切り裂く感覚があった。それと同時に、激しく泡を吹いた巨躯の蟹がもんどりうって倒れる。手足を痙攣させる蟹は、もう起き上がるそぶりを見せなかった。
倒れた蟹の、その先に、ふわりと髪を揺らすレイラの姿が映った。マリアンヌに肩を抱かれながら、祈りをささげるレイラの体は、淡い光で包まれていた。
魔法を、発動したのだろう。死者を現世に呼び起こす、降霊魔法。その魔法によって、私の魔法発動が刺激されたのではないだろうか。
蟹の体液と海水でぬれた岩場を踏みしめて、一歩ずつ、大切な者たちのもとへと歩く。
泣きそうな顔で、キルハがこちらを見ていた。安堵のため息を漏らすマリアンヌとアベルの顔が見えた。シャクヤクは――よくわからない顔をしていた。顎に手を当てて思考の海に心を置く彼の思いは、表情からはうかがえなかった。
マリアンヌが、とんとんとレイラの肩を叩く。恐る恐る目を見開いたレイラが、真ん丸な目をこれでもかと見開き、私を凝視する。なんとなく、手を振り返した。
一滴の涙が、陽光にきらめきながらレイラの頬を伝って。
「おかーさん!」
くしゃりと顔をゆがめたレイラが、一直線に私のほうへと走り出した。歩きにくい足場を走る足取りは危うげで、すぐにレイラはぬれた岩で足を滑らせる。
反射的に走り出して、私は前へと倒れそうになるレイラの体を支えた。同時に、背後からレイラを抱きとめるように、キルハがその腰を抱えていた。キルハの顔が、すぐ近くにあった。長いまつげが、小さく揺れる。
「うああああああああ!」
強く、強く、私にしがみついて。海の潮騒をかき消すように、レイラが泣き始めた。温かな涙が私の胸元を濡らす。ひっしと服をつかむレイラの体を、私とキルハは前後から抱きしめる。
大丈夫だよ、私は、生きてるよ。それに、ありがとう。レイラのおかげで助かったよ――
無事を伝えるように何度も何度も繰り返した。そのうちに、じわじわと実感がやってくる。
私は、永遠の死の淵に立っていたのだと。私は、死ぬはずだったのだと。
ようやく訪れた実感が、私の中に恐怖の嵐を吹き荒らす。あふれる思いが涙となって目尻から零れ落ちた。
「もう、大丈夫だよ。これからは、魔法はきちんと発動するよ」
「……二度とこんな無茶をしないでくれよ」
私の髪をくしゃりと撫でたキルハも、涙声だった。顔を上げれば、にじんだ視界の先に目尻を赤くするキルハの姿があった。心配で張り裂けそうな、苦しげな顔をしていた。
無茶をしないと、約束をすることはできなかった。この腕の中にある未来を紡ぐ幼い命が幸福を手にするために、私は戦うと誓ったのだから。
けれど、レイラの幸せな日常の中に、私の姿もあってほしいと強く思った。
死にたくないと、死なずに今度こそ本当に幸せな日々を手にしたいと思った。
だから、私はキルハにあいまいな笑みを返した。
レイラの頭を撫でながら、目を閉じる。体の内側へと感覚を向ける。私の魔法は、たぶん正常に戻った。私は、戦える。死なないこの身を盾にしてでも、レイラやキルハを守ることができる。
死ぬのは怖いけれど、蘇生できる私が死をためらってキルハやレイラが死んでしまうことのほうがずっと怖くて。
もう、私は死をためらう気はなかった。記憶という代償だって、失うのは嫌だけれど、二人を守り、アマーリエを見つけ出すことのほうが重要に思えた。
どれだけ記憶を失っても、生きていれば新たに記憶を紡いでいける。それに、私が記憶を失っても、私以外から私との記憶が失われるわけじゃない。私が取りこぼした時間は、私が関わった人たちの中でちゃんと生き続けているから。
私は、戦おう。たとえ王国という強大な敵を相手取ってでも、死を恐れることなく、戦うんだ。
泣き続けて疲れたのか、レイラは急に意識を失うように眠りに落ちた。洟をすするレイラを抱き上げて、私は目元を乱雑に拭ってアベルたちのほうへと向く。肩をすくめるマリアンヌがふいと視線をそらした。変わらないその振る舞いが無性におかしく思えて、私はキルハと顔を見合わせて笑った。
目が真っ赤で、強くこすったせいか目元も赤くなっているキルハの顔が視界に映る。私も、そんな顔になっているのだろう。
ブサイクになっていやしないかと不安になって、私はあわててキルハから顔をそらした。泣きはらしたキルハの顔はすがすがしさもあって、目を奪われるものだったけれど、私はこれ以上残念な顔を見られたくはなかった。まあ、自分の血肉でひどく汚れた格好をしているし、もはや完全に今更だった。
無言の静寂が痛かった。
そして、そんな私たちをよそに、私が切り裂いた魔物の死体を検分していたシャクヤクが感嘆の息を漏らした。
「……すごいわね。魔核を一撃で切り裂くなんて」
「魔核?」
シャクヤク曰く、魔核とは魔物の体内に生成される結晶であるという。魔物が魔力を溜め、管理するのに必要な第二の心臓のようなものであり、それを破壊されると魔物は一撃で絶命するのだという。
「……なによそれ?」
けれど、そんなものを私たちは誰一人として知らなかった。ワルプルギスでさんざん魔物を討伐して、肉を手にするために解体などにもいそしんでいたにも関わらず、だ。
私たち四人を見回して不思議そうに首を傾げたシャクヤクがぽんと手を打った。それから、突如話を変えて、蟹の死体に触れながら海の魔物の独特な生態系についての話を始めた。
「……ちょっと、魔核について話しなさいよ」
強く握った拳を震わせるマリアンヌがシャクヤクをにらみながら告げる。シャクヤクはといえば、小さくため息をはいて膝を地面から離して立ち上がって私たちへと視線を戻した。
「さっき言った通りよ。魔物の第二の心臓が魔核。魔力が肉体に干渉して結晶化したそれは、魔物にとっての魔力の貯蔵庫としての役割も果たしていて、強い魔物……例えばドラゴンなんかは、あたしの頭ほどある魔核を持っていたとされているわ」
「そんなもの、ドラゴンの体にはなかったわよ」
「そうよ。最近の魔物には見られないわね。あたしが言っているのは、昔、ワルプルギス王国があった頃の魔物の話よ。それらは、核に蓄えた魔力を使うからか、今よりずっと協力で、多彩な魔法を使っていたと言われているわ」
「今よりももっと強いって、どんな化け物よ……」
呆然とつぶやくマリアンヌの言葉に内心で同意する。
今よりもずっと強かった、古代の魔物。シャクヤクの語る悪夢のごとき魔物の姿を想像することはできなかった。いや、姿は今の魔物と変わらないのだろうか。ただ魔石という魔力を蓄える弱点を持っていなかっただけで。
多彩な魔法を使う化け物。たぶん、魔核に魔力が集中しているということは、昔の魔物の身体能力はそれほど高くなかったのではないだろうか。
「……魔物の生態がそれほど変わるなんてことがあるのかな?」
「どういうことよ」
「ほら、第二の心臓なんていう魔核とやらを魔物が突然失うなんておかしいと思わない?突然変異どころじゃないよ」
そう言われれば確かにその通りな気がしてきた。魔物という生物がいくら通常の生物の枠組みから逸脱した存在だとはいえ、生きる上で重要な臓器のようなものを一つ失っても繁栄し続けるというのは違和感があった。魔核を失えば死ぬということは、これまで私たちが倒していた魔物が存在していたこと自体がおかしいように思えた。
キルハの言い分が正しいと思うほどに、得体のしれない恐怖が私の中に生まれ、むくむくと膨れ上がった。
これまで倒してきた魔物は、全ての個体が死んでいたとでもいうのだろうか。物語の中で語られる、悪い魔女が死体をいじって生み出したゾンビのように?あるいは、私たちは魔物を倒した気になっていたけれど、実際は高次元の存在に魔物を倒しているように錯覚させられていただけだとか?
これまでしっかりしていた足元の大地が、突如頼りないものになったように思えた。
「まあ、魔核について考えるのは後にすればいいわ。こうして無事にロクサナちゃんが魔法の状態を確認できたわけだし、ギリギリではあるけれど準備は整ったわね」
ギリギリではなく少し遅かったけれど――そう告げるシャクヤクの言葉に、私たちは体を固くした。血の匂いがした。衣服についた私自身のそれとは違う、魔物との戦いの中で慣れ親しんだあのきつい、毒や魔物の特殊な体液の匂いが混じったそれを感じた。
「今朝未明、西の戦線にブラックドラゴンから逃げるようにしてやってきた魔物の大群が騎士団と交戦に入ったという情報が入ってきたのよ」
シャクヤクのその言葉は、人類と魔物のかつてなく激しい生存競争の始まりを意味していた。




