41恐怖と鍛錬
死ぬのは怖い。いつ訪れるかわからない原因不明の死が、怖くて仕方がない。けれど、そんなものはおよそ誰もが抱いている恐怖なのだ。
蘇生という特異な力を持っている私とは違って、およそ私以外のすべての人は、死とは自分のすべての終焉にほかならない。道半ばであっても、死はその人から未来をすべて奪い去る。けれど、それらの死には予兆がある。
一歩足を踏み出せば大地が崩れて死に至るかもしれないと考えている者が、いったいこの街にどれだけいるだろうか。あるいは、少しでもそんな経験を過去にした者が、どれだけこの街にはいるのだろうか。
アヴァンギャルドは、一寸先の未来には死が待っているような世界で戦う集団だった。次の一瞬には隠密行動をしている魔物が隣の茂みから飛び出してきて自分は食われるかもしれない。魔物との戦いの中、ぬかるみに足を滑らせて攻撃を回避しきれず、あっけなく死ぬかもしれない。そんな死と隣り合わせの中で、私たちは戦ってきた。その日々は、私たちに死を日常のものにした。
その感覚を、思い出した。平穏というぬるま湯に骨の髄まで浸りきっていた私は、いつ死んでもおかしくない世界に引き戻された。ただ、それだけ。
何が原因で死んだのかわからないということは問題だったけれど、死はいつも隣に潜んでいて、一瞬のうちに人を消しうるものだから。
恐怖――記憶を失うかもしれない恐怖と、次の死で私は本当に死んでしまうかもしれないという恐怖。キルハとの日常を失ってしまうかもしれないという恐怖。得体のしれない死がじわじわと真綿で首を絞めるように私に忍び寄っているかもしれないという恐怖。
それらの恐怖の中、私は眠れぬ夜を過ごしていた。
キルハの研究室に押し掛けることはしなくなった。というか、マリアンヌにからかわれるのでやめた。密室に数日間ずっと一緒。さすがに風呂や手洗いまで一緒というわけではなかったけれど、私とキルハはしばらく密室に二人きりで。
そして互いを思っている二人がそんな状況で何をするか――邪推したマリアンヌに鉄槌を下したのは、間違ってはいないだろう。だって、少しもそんな空気ではなかったから。いや、キスをしたあの時はそんな空気だったのかもしれない。
けれどやっぱり、私たちは初々しい若者のごとく、進展のない日々を送っていた。
関係を変えたい。前に進みたい。それは、焦燥からくるものだろうか。いつ死ぬかわからないから、少しでも多くの幸せを経験しておきたい。そんな理由で関係を進展させたいというのなら、唾棄すべきことだと思う。
そんな不純な理由で、未来を否定するような形で、私はキルハとともにいたくない。
キルハへの思いの大きさが、死を一層怖いものにしていった。この大切な時間の記憶を、死が奪っていく。その恐怖が、次第に私の首を絞めていったのだ。
けれど、それももう終わり。
レイラがもたらした一筋の光にすがるように手を伸ばして、闇の中から這い上がって。
私はわずかな諦めとともに、死の恐怖を受け入れた。
思考はぐるぐると回り続ける。
くるりと寝返りを打ったレイラが、私の腕に頭をのせる。きゅっと丸まって、私の胸元に頭をぐりぐりと押し付ける。すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきて、私は何となくレイラの頬を指ではじく。
ふるり、と柔らかな肌が揺れ、痛みのせいかレイラが顔をしかめる。呼吸が、わずかに乱れる。
八つ当たりだった。こんな小さな子の安眠を妨げるなんて、どうかしている。謝るように頭をなでれば、そのうちにレイラの呼吸はもとに戻り、責めるように一層強く頭を私にこすりつけてくる。
ぐりぐりと動く頭は、そのうちに私のみぞおちに突き刺さる。申し訳なさから甘んじてその攻撃を受け入れつつ、私は薄明かりを部屋に差し込ませる窓のほうへと視線を投げた。
夜を照らす月の光が、カーテンの先からわずかに漏れていた。
その優しげな光を見て、レイラの熱を感じて、私はここ数日の睡眠不足のせいもあって、少しだけ深い眠りに落ちた。
魔物が、迫っていた。森の中、緑を背景に突撃してくる魔物を、ぎりぎりのところでかわす。
それと同時に、花のような襟を持つトカゲの首を切り落とそうと振るった腕には、剣が握られていなくて。
私は徒手空拳で魔物と渡り合う技量なんてないから、一目散に森を逃げ始めた。背後から、高速で音が迫る。横っ飛びに突撃を躱せば、鮮やかなオレンジ色のトカゲは木の幹へと頭から突撃して、その幹を盛大にへし折る。
傾いた木が、私とトカゲのほうに倒れてくる。慌てて走り出す。
茂っていた枝が頬を切り裂いたけれど、幸い私は大きな怪我を負うことはなかった。
葉っぱが舞い散る世界に、敵の姿を探す。特徴的な橙色は、見えない。
ちり、と首筋に刺激を感じて、私は前に転がる。
真横から、緑色の巨体が飛び出してきた。先ほどの、トカゲ。どうやら肌の色を変えることができるらしく、目立つオレンジ色は、迷彩柄のような緑と茶色のマーブル模様に変化していた。
バキ、と地面に転がる枝を踏む音。即座に足を止めた私の視線の先には、緋色のトカゲ。
横を向けば、青色のトカゲ。背後からは、緑色のトカゲが迫っていた。
逃げ場は、なかった。
そうだ。以前も、こんなことがあった。
あの時私はトカゲに体をむさぼり食われて、死んだ。そして、そこにやってきたキルハたちが、私を救出してくれた。蘇生して魔物の胃の中にいるという状態を阻止してくれたのだ。
キルハが、来てくれる。そう、安堵に心が満ちた瞬間。
私の視界は闇に閉ざされた。トカゲの赤い口内が見えた。
痛みとともに、意識が暗転する。
ザザ――吹きすさぶ風によって激しく枝葉が鳴る音が響く。ザザ、ザザザ、ザザ――
――聞こえているかな?
誰かの声が聞こえた。男か女かもわからない、そもそも音として聞こえているのかもあやふやな声。
そんな声が、私の意識の中にするりと入り込んできていた。
誰、と問いかける。声は、返事をすることはなかった。
――少しだけおかしくなってしまっているようだから、手を貸してあげるよ。せいぜい、その力を有効に使ってよ?
そんな声とともに、濁流が私を包み込んだ。蘇生の、力。私の魂からあふれる魔力が、私を包み、押し流す。声の気配が、離れていく。
いつか、私に――
その声の主にたどり着くために伸ばした手は、どこにも届くことはなく。
目を覚ました私は、ただ天井に向かって必死に手を伸ばしていた。
「……夢?」
夢にしては、不思議な経験をした。
どこからともなく聞こえてきた声。何かを願うように、言葉を残した声。あの人は、誰なのか。私が忘れてしまっている誰かだろうか。それとも、全く知らない誰か?
「その力」とは、やっぱり魔法のことだろうか。声と夢のつながりから考えると、そんな気がする。だとすればあの存在は、私にこの魔法を押し付けた、神、のような存在だろうか?あるいは、この力の本来の持ち主、とか?
そもそも魔法とは何なのだろうか。私は、答えの出ない夢の中の声の主の正体を考えることを放り出し、新たな命題に臨んだ。
私たちが魔女として迫害される原因たる魔法。本来人類が使えるはずのないその力は、魔物という怪物たちが使う、およそ私たちの理解を超えた不思議な力。物質に干渉したり、おかしな現象を生み出したり、多種多様な魔法は、魔力というこれまたよくわからない力を使うことで発動される。魔力は、私の感覚では激しく渦巻く熱の波だ。膨大なエネルギーが、無理やり私の死をゆがめる。私の意思とは、関係なく。
どうして私たちは、魔法を手にするのだろうか。人類全員ではなく、一部のものが魔法を行使するに至るのだろうか。魔法は、神のような超常の存在が、か弱い人間に授けてくれる祝福のような物なのだろうか。あるいは、古の時代にでも、偉大な賢者が人々に授けた神秘の力の残りかすなのだろうか。例えば、あの声の主が人々に分け与えて、魔法という力が世界に広まった、とか。
空想にもほどがあった。
どうして私たち魔女が魔法を手にしたのか、それを考えるためには、魔女と魔女でない者の違いを比べればいいかもしれない。魔女の共通点、魔女でない者の共通点。魔女は、一般に感情の爆発を契機に魔法という力を得る。例えば、私は弟を守りたいと強く思ったように。けれど、だとすれば誰もが魔女になりうるということだろうか。ほかに魔女の共通点は思いつかない。
魔女でない者たちの共通点といっても、魔女の多くがもともとはただの人間だった以上、そこに共通点があるわけがない。その集団の中の数名は、今後魔女になる存在なのだから。
生まれながらにして魔法を手にしていた者は、生後魔法を手にした魔女と何か違うのだろうか。あいにく、これまでそんなことを気にしたことはなかったから、誰が後天的な魔女で誰が生来の魔女かなんて知らない。
たぶん、シャクヤクは生まれつきの魔女な気がするけれど。
そんなことを考えているうちに、気づけばカーテンの奥から光が差し込み始めていた。窓の外の世界が、白んでいく。
朝が、来ようとしていた。
結局ほとんど寝られていなかったけれど、アヴァンギャルド時代を思えば深く眠っていたほうだと思う。体にはまだ気だるさがあったけれど、この程度なら生活に問題はない。
私はレイラを起こさないように慎重に布団から出て、軽く体を動かすために着替え始めた。
まだ日が昇って間もない中、庭の一角に設けられた訓練スペースでは、既にアベルが鍛錬に励んでいた。いつから行っていたのか、アベルは汗だくになりながら体を動かす。掌底を繰り出し、ひねりながら突き上げ、反転してタックル、肘打ち、足払いと、流れるように攻撃を繰り出す。
強く踏み込むとともに拳を突き出し、アベルは動きを止める。そして、チラリと私のほうを見た。とはいえ一言も口を開くことはなく、私は訓練場の周りを走り始めた。
吹き抜ける風が、庭に咲き誇る花々の香りを届ける。甘い匂い、少しだけ酸っぱい匂い、なんとも形容しがたい芳醇な香り。さわさわと心地良い葉音を聞きながら、私は走り続ける。ランニングではなく、疾走。余裕がなくなるくらいに走らないと、余計なことを考えてしまうから。
ぐるぐると回りながら、まだ余裕のある私の思考は先ほどの声の主について考え始める。私に力を与えたような口ぶりの、正体不明の人物。人かどうか、性別も、そもそもあの声が私の幻聴でない可能性すら定かでなくて。
超常の世界から私を見下ろす視線を感じた気がして、体がふるりと震えた。まだ、余裕がある。
走るペースを上げる。少しだけ困惑したアベルの視線を感じた。すぐにでもばてかねない走り方をしているのだから当然だろう。
もはや私は全力疾走をしながら訓練場の周りを巡る。私が、風になるように。走り抜けたその背後でつむじ風が舞い上がり、花々を揺らしていく。赤や白、オレンジ、黄色、ピンク。色とりどりの花が揺れ、香りが広がっていく。
むせかえるような匂いの奔流と、荒くなってきた呼吸、心臓はバクバクと勢いよくなり続けていた。
思考が、溶けていく。体が世界との境界を失っていく。私の体が、一陣の風になっていく。
ふっと、体が浮いた気がした。バランスが、崩れた。
そのまま私は体をひねりながら、前転するように肩から前に倒れこみ、前転ののち立ち上がろうとして。
うまく起き上がれず、私は地面にドスンと両足を付けたまま大地に背をつけて転がった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
荒い息が続く。それは、どこか遠くで聞こえているようで、少なくとも自分の息のようには思えなかった。体を、血が駆け巡るような感じを覚えた。全身を熱が駆け巡っていた。
額ににじむ汗を袖で拭う。
落ち着いてきたからか、また余計な思考が浮上してきた。
今度は、恐怖とともに。
私の魔法はちゃんと効果を発揮するだろうか。これまで通り、私は記憶を代償に蘇生することができるのだろうか。あの不審死は、魔法の異常によるものだったのだろうか。
答えは出ない。その代わりに、汗が気化して冷えた体がぶるりと震えた。
背中の砂を払いながら起き上がる。動いていないと、思考が余計なことを考えてしまう。
逃げるように、私は一人で体を動かす。格闘は、アヴァンギャルドに在籍していた女性に教わった。身体強化魔法という、自身の体に干渉して人外の膂力を発揮する女性だった。魔法の発動とともに、一体どう強化すればそんなことになるのかとあきれ返るほどの筋肉だるまに変貌し、巨躯の鬼であるオーガもかくやといった動きで魔物を殴り倒していた。戦闘狂の気があった彼女は、確かエンシェントオーガなるオーガの中のオーガとでも呼ぶべき化け物とタイマンを張り、相討ちで死んでいった。
そんな師匠の動きと言葉を思い出しながら、私は拳をふるった。たぶん、アベルとは比べるべくもないつたない動き。そのせいか、先ほどからずっと背中にアベルの視線を感じていた。もっとこうしろとか、そこの動きが悪いとか、そんなことを言いたいのだろうか。何かを伝えたいというような思念が私に突き刺さっていた。そのおかげか、私の中にあった不安の芽は消え去り、代わりにアベルに対する困惑の念が浮上してきた。
「どうかしたの?」
動きを止めて聞けば、アベルは何も答えることなく振り向いた私の顔をじっと見つめていた。その視線は、無遠慮に下へと滑っていき、私の足先まで見てからもう一度顔へと戻った。
なんだか、既視感のある動きだった。具体的には、つい先日キルハが私をそうして見ていたような覚えがあった。確か、私の体にあった魔力を見抜いていたのだ――まさか。
「私の体に、魔力が増えていたりする?」
死んだ感覚はなかった。恐怖を紛らわせるために行っていた素振りのマメは今日も私の手の中でじくじくと痛んでいた。だから、私は死んでいなくて。けれどあの夢がただの夢ではなかったとしたら、ひょっとしたら状況に進展があるかもしれないと思って、私はアベルにそう尋ねた。
果たして、アベルは首を横に振って見せた。否定、私の体に宿る魔力は増加してはいないらしい。
「ロクサナ、体の魔力が消えているぞ」
「……え?」
魔力が、消えている。慌てて自分の手を見下ろすも、そこにはただの手のひらがあるばかり。魔力感知のセンスが壊滅的な私には、自分の体を流れる魔力だって感じ取ることはできなかった。むしろ、微弱な魔力を感知できるキルハやアベルが異常なのだ。そういえば、マリアンヌは私のことを鼻で笑って見せた。わかっている。アヴァンギャルドにおいて、魔物の接近を感知するのは生きるのに必須の力だった。そして、最も有用で最も多くの魔物に通用するのが、魔力を感知することだった。魔力量は一般的にその魔物の強さと正の相関関係にあり、魔力量から敵の強さを判断することができるのだという。さらには魔力量が多い魔物ほど、よほどの知性がなければその魔力の一部を垂れ流しにするためにより遠くからでも感知可能で、アヴァンギャルドの者にとって魔力とは魔物を知る重要な情報源だった。
そんな魔力を感知できない私はといえば、必死でそれ以外の方法を磨くしかなかった。音やにおい、気配、風の揺らぎ、そして第六感的な違和感。第六感といえば多くの者にとって魔力感知のことを指すらしいが、私にとっては純粋に高度かつ高性能な直感のことだった。
「……本当に?」
別にアベルの言葉を疑うつもりはないけれど、私は自然とそう尋ねていた。やっぱりアベルは首を縦に振る。
じっと手のひらをにらむ。マメが破れた手。そこにはもう、魔力はないらしい。
だとすれば、私の異常は解決したということだろうか?肉体から魔力がすべて失われたということは、魔法が正常化したと考えていいのかもしれない。だとすれば、私はいつものように蘇生可能なのだろうか。
「ねぇアベル。私はもういつものように魔法が使えると思う?」
「さぁな。俺にはわからん。その手の相談はマリアンヌにしておけ」
そう言い捨てて、アベルは再び鍛錬に戻る。
ふと気づく。アベルの動きが、いつになくドタバタしているように見えた。無駄な動きというよりは、たぶん踏み鳴らす足音が大きいことと、わざとと思えるほど大げさに手足をふるって強く風を巻き起こしているせい。
アベルも少しおかしくて、私は何となくその理由が推測できてにやりと笑った。
「マリアンヌは可愛い?」
ピシ、とアベルの動きが止まった。それから錆びついた鉄扉のようにぎこちない動きで私のほうへと振り向いた。揺れる瞳、訓練によるものだけとは思えない上気した頬と真っ赤な耳。照れている、のだろうか。
アベルはどうやらかなりマリアンヌのことを意識しているらしい。そのせいで眠れず、気を紛らすために夜が明ける前から訓練に励んでいたのだろうか。
そう思って、首をかしげる。どれだけ思考をさらっても、最近アベルとマリアンヌが一緒にいるのを見た覚えがなかった。
記憶の喪失――ではなく、たぶんアベルがマリアンヌを避けているのではないだろうか。
何も言うことなく私のことを見つめていたアベルは、ふっと視線をそらして再び鍛錬に戻った。まるでマリアンヌに自分の存在を気づいてもらいたいというように激しい音を鳴らしながら。
訓練場の端に座った私は、そんなアベルの姿を微笑ましく思いながら眺めていた。
私の心にはもう、狂いそうなほどの恐怖はなかった。




