40クッキーと光
バターとミルクを酪農家から購入し、それを担いで屋敷に引き返した。おやつ時まではまだ一時間ほどあるが、初心者のレイラに作業のいくつかを任せるならばあまり時間は足りないだろう。
「わわっ⁉」
秤で砂糖を計量していたレイラのスプーンから砂糖がこぼれ、テーブルの上に白い雪が散らばった。そのことに気を取られれば、肘が天秤にぶつかり、天秤皿の上にのっていた砂糖もまた、勢いよく飛び散ってテーブルを汚した。
レイラの動きが止まる。ギギギ、とぎこちない動きで見上げてきたその目じりには大粒の涙が光っていた。
ふむ、秤量はレイラにはまだ早かったか。
頭をなでてあやしつつ、俺は素早く材料を計り終えてボウルにまとめた。
それから、レイラに生地をこねてもらう。泥遊びをしたことがあるかどうかは知らないが、泥とは違う不思議な感触に瞬きを繰り返しながら、レイラは小さな手で生地をまとめていく。
ああ、ダマが見える。だが、これも練習だ。手を貸してもいいが、せっかくならできる限りレイラにやってもらおう。失敗したとしても、いい思い出だ。俺だって、昔は山というほど失敗をした。火力を間違えて炭を量産したことがあるし、岩塩を削らずに丸ごと使って塩辛いスープを作ったこともあった。ハーブで肉の臭みを消せるという聞きかじりの情報から肉のスープに様々な種類のハーブを放り込み、恐ろしい腐臭を放つ液体を完成させたこともある。
何事も経験だ。経験して、失敗して、そこから学べばいい。失敗して、悔しくて、再び挑戦して、そしてできるようになるからこそ、学ぶことは面白いのだ。
もう顔も思い出せない父親の言葉を思い出した。ああ、確かにその通りだった。できなかったことができるようになるのが面白い。できるようになれば、どんどん難しいことに挑戦したくなる。そうして、気づけば高いところまで登っているのだ。
学者だった父は、知識の山を登る中で禁忌を掘り出して帰らぬものとなった。だから、俺は知識を求めない。代わりに、経験を求めた。その果てに、俺も父と同じ破滅の道をたどったのだから皮肉なものだと思う。
まあ、殺された父と自殺しに行くようにアヴァンギャルドに入った俺とではだいぶ違う道を歩んでいるのかもしれないが。
レイラには、救いのある人生を送ってほしいと思う。レイラだけではなく、マリアンヌにも、キルハにも、ロクサナにも、できることならこれ以上苦難のない道を歩いて行ってほしいと思う。
それは、かなわぬ高望みなのだろうか。
必死に生地をこねるレイラの手は、手の熱で溶けてしまったバターのせいでべたべたになってしまっていた。ああ、教えておくのを忘れていた。
もう十分だと告げてから、生地を台の上に出して広げる。ややべたついているが、型抜きできる硬さだ。
どういうわけか自室に戻ることなく、厨房の端に椅子を運んで監視するように座っていたマリアンヌが近づいてきてレイラの手に型を握らせた。それから、再び椅子へと戻っていく。
何をしたかったのだろうか。自分も、加わりたかった?いや、だが一緒にやるかと聞いたら断られたが。だとすれば、自分もレイラに教えたかったのだろうか。
ふむ、確かにまだまだ経験の少ないレイラにいろいろと教え込むのは楽しい。乾いた布が水を吸うようにレイラは学習していく。自分が教えたことによってレイラが成長しているということを実感できて、俺もまた大きなやりがいを感じていた。
親になるとは、教師になるとは、こういうことなのだろうか。
こんな風に未来を紡ぐ若い世代を育てるために、父も知識を求めたのだろうか。いや、あの父の場合は己の知識欲のために突っ走っただけか。
小さな手で型を生地に押し付ける。木製の型からはがした星を見て、レイラが歓声を上げる。
その姿を見て、マリアンヌが小さく目じりを下げた。
窯の前、熱さを気にする様子もなく、レイラは動くことなくじっと加熱されるクッキーをにらみ続けていた。そのレイラに、水を入れたコップを手渡す。水分補給なしで料理をしていた上に、熱い窯の前にいるせいでレイラはひどく汗ばんでいた。熱中症で倒れてしまってはいけない。
目を向けることもなくコップを受け取って口をつける。こくこくと嚥下によってのどが動く。白い腋が視界に入った。
バシン、と後頭部をはたかれた。わずかな快感が体を走る。
体はそのままに首だけで後ろを見れば、手を振りぬいた姿勢のまま動きを止めているマリアンヌの姿が視界に映った。わずかに上気した頬と、荒い呼吸。おそらくは怒りのせい。
「変態。レイラによこしまな目を向けるんじゃないわよ」
レイラをそんな目で見ていたつもりはないが、誤解されたのならば仕方がない。久々の刺激に脳があげる歓声を追い払いながら、俺は小さく頭を下げた。
ふん、と鼻を鳴らしたマリアンヌは、動くことなくじっとレイラの背中を見つめる。その姿に、母の、妻の姿が重なった。
目の奥が小さく痛んだ。
鼻の奥がつんとした。
小さく鼻を鳴らせば、どうしたのよ、とマリアンヌが視線だけで尋ねてきた。俺はマリアンヌに小さく首を横に振る。そして二人で、レイラの背中を見つめる。
きらきらとした目で窯の中を見るレイラに、息子の姿が重なった。
息子は、もうずいぶん前に死んだ。家に侵入した強盗が、妻と幼い息子を殺した。強盗、だと思う。捕まった犯人は殺された。後頭部に強い攻撃をもらったせいか、俺は犯行が起こった前後のことを覚えていなかった。
捕まった犯人は獄中で死んだと聞いた。それで、俺の心の中に空いた穴が埋まることはなかった。
ただ、痛みを求めた。
その先に、自分に痛みを与えてくれる女に出会った。痛みは、死を望んでいた俺をこの世界につなぎとめた。痛みは、俺に赦しを与えた。妻と息子を守れなかった俺は、この世界に生きていてもいいと許された気がした。
けれど、その日々も長く続かなかった。
彼女もまた、俺のもとを去った。
さらに、騎士たちの警戒をかいくぐって、俺が暮らしていた街を地下から魔物が襲った。
多くの者が死んだ。
絶望の世界で、俺はおそらく、その街でただ一人歓喜していた。ようやく死ねると、思った。世界が、俺を死なせるために魔物を送ってくれたのだと思った。
俺にとって、魔物の襲撃は救いだった。痛みを与えてくれる相手を失った俺にとっての、解放の福音だった。
泣き声が、聞こえた。
両親の亡骸を前に泣き続ける子どもを見た。血だらけの、明らかに致命傷を負った母親と思しき彼女は、少年の手を握り、何事かをつぶやき、こと切れた。
大きくなる少年の泣き声。その姿に、最後を見ることもできなかった息子の姿が重なった。
気づけば体は走り出していた。声におびき寄せられて集まってきた魔物を、巨大なミミズの姿をした「ワーム」と呼ばれる個体へと、蹴りかかった。
激戦の果て、俺は歓喜していた。今度こそ、俺は息子を守れると。魔物が与える痛みは、息子を守れるという歓喜と混じって、完全なる幸福へと昇華した。
俺は戦い続けた。全身に激痛を感じながらも、戦い続けた。
そして俺は、息子の代わりに多くの者を救い、その救いの中で痛みを感じて自らを生かすべく、偶然小耳にはさんだアヴァンギャルドへと志願した。
すべては、つながっている。
息子の死も、妻の死も、あの魔物の襲撃も、アヴァンギャルドへの志願も、今につながる俺の経験だ。
そして俺は今、自分が培ってきた経験を、後進の者に伝えている。レイラは、どんな子に育つだろうか。どんな人生を送るだろうか。
きっと、幸福に満ちた人生を送ることができるのではないだろうか。ロクサナのことを心配して、幼いながらに励まそうと料理をする決断をするレイラは、心優しい女性に成長するはずだ。幸せな家庭を持って、子どもを育てて、人類の進歩に貢献する。
俺もまた、レイラを育てることで、人類の未来に貢献する。
「そろそろいいな」
レイラが勢いよく振り向く。その眼は、星屑が輝くようにきらきらと光っていた。鉄板を窯から取り出し、きつね色になったクッキーを鉄板から皿へと移す。俺の手の動きと、並べられるクッキーを、レイラがじっと見つめていた。
中には割れてしまっているものもあった。鉄板に並べる際につぶしてしまって不格好になっているものもあった。けれど、それらは紛れもなく力作だった。レイラがほとんど自分だけで作った料理だった。
「でき、た?」
「ああ、完成だ」
俺の言葉を聞いて、クッキーを見つめ、それからレイラは、小さく歓声を上げた。
髪をかき回すようになでれば、マリアンヌが軽い動きで俺の頭に手刀を叩き込んできた。思わずにらんだ先、柔らかい笑みを浮かべるマリアンヌの姿があった。俺の知らない顔をした、女が、そこにいた。
わかっているでしょう?と視線で問われる。
きゃー、と楽しそうに笑っていたレイラを見て、手の動きを変える。
そうだ、ここにいるのは、俺の息子じゃない。俺は今、女の子をなでているのだ。
髪をすくようにやさしくなでる動きに変えれば、少しだけ不思議そうに首を傾げたレイラは、もっと、とねだるように小さく背伸びをして俺の手のひらに頭を押し当ててきた。
ふふ、とマリアンヌが小さく笑う。
俺もまた、小さく笑った。
心が温かかった。
こんなにも幸福感に胸が満ちたのは、いつ以来のことだろうか。
焼きたてのクッキーにレイラが手を伸ばす。熱いそれに驚いたように手を引っ込めてから、けれどその抗い難いにおいにつられるように再びクッキーをつかむ。
数度息を吹きかけ、視線で俺に許可を取ってからリスのように小さく側面をかじる。
くわ、と大きく見開かれた目でクッキーを凝視する。それから一口でクッキーを口に放り込み、じんわりと熱を帯びた皿を掴んだ。
どこにいるの、と聞かれて一瞬言葉に迷った。言葉の意味するところが、ロクサナの居場所を尋ねるものだと理解するまでに数秒を要した。それから、おそらく研究室だろうと告げれば、レイラは少しだけ首を傾げた。どうやら研究室という言葉がぴんと来なかったらしい。
キルハがいる場所、と告げれば、ロクサナは力強い動きでうなずいて見せた。
「まってて、ろくさな」
小さな腕でいっぱいにクッキーが盛られた皿を持ち、たったかと小走りでレイラは廊下をかける。幸いというべきか、キルハの研究室はここからあまり遠くない。火や水を使う都合上、研究室は厨房の近くにしていた。すぐ隣にしていないのは、有害物質が生じた際に食べ物が駄目にならないようにするためだ。
料理をしていると時折小さな爆発音が響くから、おそらくかなり危険なことをしているのだろう。
「ちょ、待ちなさい!」
「ろくさな!」
マリアンヌの制止の言葉も聞き留めず、レイラは蹴り飛ばすようにキルハが主に使っている研究室の扉を開いた。研究室は危険だ。だから入ってもいい状況にあることを確認してから入るべきだと、マリアンヌはそう考えたのだろう。
だが、俺は大丈夫だと思った。おそらくはロクサナがいる状況で、キルハは危険な作業をしないだろうという直感があった。
意識する異性に心配をかけたくないというのは、男も女も当たり前に抱く思いだ。だからこそ、キルハはロクサナの前では魔具の作製が危険ではないと示すように、簡単な作業のみを行っている印象があった。
扉を開いた先、小さな金属パーツを組み立てていたキルハが顔を上げた。その手の中から零れ落ちたパーツが作業台の上に落ちて、キン、と澄んだ音を響かせた。
「いらっしゃい、レイラ。どうしたのかな?」
顔を覆うような大きなゴーグルを取ったキルハを一瞥し、レイラは返事もせずにきょろきょろと周囲を見回す。そして、目的の人物の姿を見つけた。
雑多なものが積まれた部屋の隅。虚ろな目で虚空を見つめているロクサナの姿がそこにあった。痛々しいロクサナを見て一瞬ひるんだ様子だったが、レイラは小さな足で床を強く踏み鳴らしてロクサナに歩み寄った。
「ろくさな!」
ぼんやりとした顔で、ロクサナが声の方を見る。覚えのある、仄暗い目だった。アヴァンギャルドで、魔物の襲撃を受けた街で、何度も見た、絶望に身を沈めた者の目。あるいは、妻と息子を失った俺が、曇った鏡の先に見つけた顔だった。
絶望は、簡単には晴れない。思考が働く限り、体も心も底なし沼にゆっくりと沈んでいく。何かできたことはなかったのか、後悔が自分をさいなんで。大切な者がいないという事実に直面しては、喪失感が襲い掛かる。自分の体が世界から切り離されたようで、重く垂れ込む空気の中を必死にかき分けながら、無限の闇の中をさまようのだ。
その旅の果てに、俺は痛みという光を手にして。そしてロクサナには、レイラという光がある。
「たべて」
そう告げてレイラが差し出したクッキーに、ロクサナは反応しない。声は聞こえているだろうが、頭に入ってくる音を、言葉として認識できないのだろう。脳は苦しみの中にあって、頭を悩ませる事柄以外のすべてに思考を割くことはない。
業を煮やしたのか、レイラはやや怒ったような顔でクッキーの乗った皿を床に置くと、その山から一つを掴む。ロクサナの口へとクッキーを引っ付ける。少しだけ、ロクサナの口が開いた。
わずかにのぞいた口内へと、レイラがクッキーを無理やり放り込む。
さくり、とクッキーが割れる。閉じられた口は自然と動き、嚥下するように喉元が上下して。
「……ん?」
小さく鼻を鳴らしながら、ロクサナが目をしばたたかせる。その目の焦点が、ようやく目の前のレイラに合う。キスをするほど近くにいるレイラに、ロクサナが気づく。
「レイラ?」
「ん」
もう一つ、とレイラは皿に盛られたクッキーをロクサナの口に運ぶ。ロクサナが、クッキーを食べる。
親鳥がひなに餌を与えるように、レイラはかいがいしくロクサナの口にクッキーを運び続けた。
「おいしい?」
「……おいしいよ」
おいしいと、そう言って初めて味を認識したのか、ロクサナは「甘い」とふにゃりとした顔でつぶやいた。少しだけ、憑き物が落ちたような笑みを見て、レイラが笑った。
レイラはロクサナに勢いよく抱き着く。条件反射でレイラを抱きしめたロクサナが、目を白黒させながら視界に映った俺たちを見た。
「あのね、わたしがつくったの」
「レイラが、作った……このクッキーを?」
うん、と頷くレイラが、もう一度おいしかったかと聞く。おいしかったと、繰り返すたびにレイラの体が小刻みに震えて。
そして、こらえていた感情があふれたように、レイラが勢いよく声を上げて泣き始めた。
レイラは怖かったのだ。苦しかったのだ。つらかったのだ。
父親を失い、母親は行方不明で。新たな宿り木であるロクサナが、死にそうな顔をしていて。その姿に、誰かの姿を重ねたのだ。恐怖にとらわれたのだ。
心開き、日々に幸せを感じ始めていたであろうレイラは、今というかけがえのない時間が無くなることを恐れたのだ。恐れて、そして。レイラは、自らの手でロクサナを救いたいと思ったのだろう。
答えは、レイラにしかわからない。けれど、ロクサナに母を求めるように抱き着くレイラの背中は、俺やマリアンヌと話す時とは違った感情に満ちているように思えた。
声ににじむ恐怖は次第に安堵に塗りつぶされていく。
大丈夫、大丈夫――囁くように、ロクサナが繰り返す。
その頬を、一筋の涙が流れ落ちる。
それから、泣きつかれて眠ってしまったレイラを抱きながら、ロクサナはそばに置いてあった皿からクッキーを掴み、口に入れた。
「おいしい」
目尻を赤くしながらつぶやいたその顔には、少しだけ生気が戻っていた。
もう、ロクサナは大丈夫だろう。
ロクサナの死への恐怖感は、俺にはわからない。俺達には、決して理解できない。死線の上で行き来をするロクサナの恐怖を真に理解できるものはここにはいない。
けれど、ロクサナのことをこれだけ心配している者がいるということを、ロクサナは知ったから。
テーブルを囲みながら少しだけ遅いティータイムをする。ロクサナの腕の中ですやすやと眠るレイラは、ロクサナにとっての、闇を照らす希望の光だった。
ぱちぱちと火の粉がはぜる音が響く。音を立てて熱されるフライパンの中の野菜たちの状態を確認、そろそろいいかと蓋に手を伸ばしたところで、厨房の扉が勢いよく開かれた。
「あべる!」
名前を呼ばれると同時に、体を衝撃が襲う。体当たりするように抱き着いてきたレイラが、俺の顔を見上げてにぱっと笑った。
危ないぞと注意するが、レイラの突撃が改善される様子はない。まあ、包丁を持っている時には突撃してくることはないからいい、のだろうか。
「なにつくってるの?」
「今日はラタトゥイユだ。レイラは食べたことがあるか?」
「らた……?ないとおもうよ?」
きょとんと首をかしげるレイラの頭を優しく撫でてから、両脇に手を入れてレイラを持ち上げる。
「まっか!」
「そうだな。トマトの赤だな」
新鮮なズッキーニとトマトが手に入ったから、今日はそれをオリーブオイルで炒め煮にしている。後は鶏肉の香料焼きと蒸し野菜のサラダだ。ちなみに、鶏肉は暇を飽かして今日の昼間に街の外で狩ってきたものだ。少し痩せた野鳥だった。軽く焼いて試してみたところ少し癖のある味をしていたので、レイラでも食べられる程度に軽く香りをつけることにした。それからそろそろ消費した方がいい干し肉を戻して、根菜とスープを作った。
元が貴族屋敷なので厨房も収容可能人数に合わせた広さをしており、竈も広い。おかげで一度に複数の鍋やフライパンを加熱できるのはとても便利だ。まあ、その分燃料も必要なのだが。
「ちょっと、何してるのよ!」
フライパンの中をじっと見つめるレイラをぼんやりと眺めていたら、悲鳴のような声が聞こえてきた。思わずレイラから手を放してしまいそうになった。
レイラとともにフライパンから視線を外せば、そこには肩を上下させる、般若のごとき顔をしたマリアンヌの姿があった。その顔が怖かったらしく、レイラがしゃくりあげるように喉を鳴らす。その様子を見て、マリアンヌがはっと我に返ったような顔をした。視線がうろうろとさまよう。羞恥のせいか、頬が若干赤みを帯びていた。
「ええと、その、ね……ほら、危ないでしょう?早く下ろしてあげなさいよ」
危なかったのはマリアンヌが突然怒声をあげて驚いたからだが、それを指摘する気にもなれず、俺はレイラを床に下ろした。フライパンの中が見られなくなったために、レイラが少しだけ頬を膨らませて講義をする。
う、と口ごもったマリアンヌが、救いを求めるように俺の方を見るが、知らん。
俺はさっさと料理を完成させるべく、フライパンに蓋をかぶせた。後は軽く煮れば完成だ。
「そ、そうだわ。レイラ。このわたくしがレイラに魔法を教えてあげるわよ。光栄に思いなさい?だから機嫌を直してくれないかしら。ロクサナよりも私の方がずっと魔法を教えるのに向いているのよ」
「や!ろくさなにおしえてもらうの」
「……レイラ、ロクサナは魔法を教えられないぞ。そもそも制御できてないからな」
マリアンヌの言葉には反感を見せるものの、俺の言葉を聞けばレイラは「ガーン」という擬音が聞こえてきそうな様子で肩を落とした。
だが、実際ロクサナはレイラに魔法を教えるのは難しいだろう。魔法の知識こそ多少は持っているだろうが、そもそもロクサナの魔法は制御できる類のものではない。通常時ロクサナの体には魔力は宿っておらず、そして死の瞬間に魔法は勝手に発動され、制御する必要もない。そのため、ロクサナは魔女であるにも関わらず、魔力操作の感覚すらない。
魔力を操るのは、魔法を発動するための基本といっていい。これではレイラに魔力操作を教えることなどできないだろう。
さらに、ロクサナが魔力に対して極度に鈍感で、かつ制御できない魔法を有していると分かった時点で、ロクサナの師匠は彼女に魔力制御に関する知識を授けるのをやめている。何しろ、無駄だからだ。
そんなわけで、ロクサナはレイラに魔法指導をすることができない。
俺とマリアンヌの二人からロクサナのダメ出しをされたレイラの目尻に涙が光る。慌てたようにマリアンヌがなだめにかかるが、涙はもう決壊寸前だった。
「……それに、ほら!レイラ、化粧が気になっていたわよね。わたくしが特別に化粧を指導してあげるわ」
俺がぎょっと目を見開いたのは言うまでもないことだろう。これまでどれだけアヴァンギャルドの女性陣が頼もうと決して許可しなかった、化粧品の融通や化粧の指導。それをマリアンヌはレイラに行うという。
一体どういう風の吹き回しか……まあ、レイラが可愛くて仕方がないのだろう。
今が可愛い盛りなレイラを必死に泣き止ませようとするマリアンヌがおかしくて、俺は気づけば声を上げて笑っていた。
何よ、と鋭い目で――けれどどこかうるんで見える瞳で、マリアンヌが俺をにらむ。その目に俺しか映っていないというのが、ひどく嬉しかった。
ああ、俺は今というこの時間が愛おしくてたまらない。
そしてそれは、マリアンヌがいてこそだと思った。




