4記憶
そよそよと風が吹き抜ける。木々の葉が揺れる。子守歌のようにやさし気な音を聞きながらそっと目を閉じて。
その演奏に、異質な声が混じる。
「またここにいた」
「……キルハ」
木々のささやきに紛れて響いてきた声に、私はびくんと肩を跳ねさせた。気配を、感じなかった。最も、アヴァンギャルドの優秀な戦士たちは大抵、私には感知できないほどに巧妙に気配を偽装して見せるのだが。
聞き覚えのある声。同胞たちの中でも比較的交流の多い、珍しい真人間(?)の類であるキルハがそこに立っていた。
まるで夜に溶け込んでしまいそうな黒髪と、まばゆい金色の瞳。まっすぐなその目と向かい合う気になれなくて視線を逸らした先には、私を見つめる月があった。キルハと同じ黄金の輝きは、今日も空で静かに浮かんでいた。
ひょいと枝を握って体を持ち上げたキルハが私の隣に並んで腰を下ろした。ためらう様子も、考える素振りもなかった。まるで、そこが定位置で、並んで座ることが至極当然だというように、キルハは私の隣で月を見上げながら、はぁ、と感嘆のため息をついた。
その呼気にどこかさみし気な響きがあったのは、私が昔のことを思い出して感傷的になっていたからだろう。
「満月だね」
「……そう、ね。満月、なのかな?」
「どうして疑問形?」
「確かに真ん丸に見えるけれど、実は昨日か、それとも明日が満月かもしれないよね?」
「そうかな、僕の目には満月に見えるよ?」
そんなどうでもいいことを話しながら、キルハは「くあ」と欠伸をした。眠いのならさっさと休めばいいのに、どうしてキルハは私の隣に腰を落ち着けているのだろうか。
ぶらぶらと足を揺らす子どもじみた動きを見せるキルハ。行ったり来たりするその足をぼんやりと横目で見つめながら考えるも、答えは見つかりそうになかった。
「キルハはどうしてここに来たの?」
「ロクサナがふらふらと覚束ない足取りで一人森の中に入っていったからね。心配で後をつけて来たんだよ」
顔を合わせることなく虚空を見上げる。とっさに、的確な返答が声に出ることはなかった。心配してくれてありがとう、だろうに。なぜだかその一言が無性に恥ずかしかった。
視界の端で、キルハがどこか自嘲めいた笑みを浮かべた。心臓が跳ねた。ドクン、ドクンと激しく鼓動を刻むその熱は、死の間際の魔法の際の感覚によく似ていた。膨大な、制御できない熱。魔力は心臓から生み出されていて、そこに我々の魂はあるのではないか――そう語る私の魔法の師匠となった白髭の老人の声を思い出した。
彼は、天界で楽しくやっているだろうか。私が知る限り、アヴァンギャルドで唯一衰弱死して真っ当に天命を迎えた彼の、人を食ったような笑みが脳裏に浮かんだ。彼は、もし死後の世界がなかったとしても、勝手に作り出して幸せにやっているのではないだろうか。領域創造という特殊な魔法を持っていた師匠が作り出した、何もない空間に開いた穴から続く異界の存在を思い出した。数少ない、安息の場。あの中でだけは、魔物におびえることなくぐっすり眠れたのだけれど、いざ自分が死んだとき中の者も巻き添えになるからと、ただ一度しかそこで眠ることを許してくれなかった。
あの時の自分は、どうして異空間で眠ることを許されたのだったか。
なんとなく、隣へと視線を向けた。そこには、風に揺れる木々の枝葉を見ながら、「儂の柳眉の方が美しいなびき方をしている」と変な自己評価をつぶやいていた師匠の姿はなかった。代わりに、少しだけ瞳を潤ませた若い男の姿があった。
既視感を覚えた。重なる姿は、師匠のものではなく、少し若いキルハの横顔。私はこうして何度もキルハの横顔を見ていたのではないだろうか。強烈な予感が私の心を揺さぶる。何度も、何度も、失った過去の中で、隣に座ったキルハの顔をこうして盗み見ていたのではないだろうか。
根拠もなく、そう思った。
私たちは、どういう関係なのだろうか。ただの仲間?何かしらの痛みを分け合った戦友?あるいはもっと特別な関係?
身を焦がすような疑問の答えが欲しかった。私とキルハの関係を、知りたかった。月下の語らいが私の夢想ではないか、聞きたかった。私は、キルハと木の上で、何か大切な話をしたのではないだろうか。それを忘れるなんてありえないと、心臓が文句を言っているのではないだろうか。
喉が酷く渇いていた。今話し始めれば師匠のようなしゃがれた声が出てしまいそうで、私はゴクリと唾を飲み込んでのどを潤した。
――今の大きな音は、キルハには聞こえていなかっただろうか。
「ねぇ、私、ひょっとしてキルハと前にもこうして同じように空を見ていたことがないかな?」
「どうだろうね。ロクサナはどう思う?」
私が聞いたのに、キルハはこちらを向くこともなく逆に尋ね返してきた。やっぱり、私の勘違いだろうか。キルハが先ほど、「またここにいた」と言ったのは空耳だろうか。今日が初めての木登りだったにもかかわらず、登り慣れているような気がしたのは偶然なのだろうか。私の筋力が相応のものになっているだけなのだろうか。キルハと並んで星空を眺め、隣にある端正な横顔を盗み見たことがあるような気がするのは、私の思い違いなのだろうか。
この胸の痛みは、何だろう。忘れている記憶を求める痛みではないのだろうか。
もしこれが私の勘違いだとすれば、キルハはきっと、気のせいだと私に告げただろう。私の言葉を肯定も否定もせず、そして私の方を見ようともしないということが、私がキルハとの思い出を失っているという証左のように思えた。
キルハは、私が魔法を発動するたびに記憶を失っていることを知っている。
ああ、もし、私が大切な記憶を失っているとすれば。例えば、アヴァンギャルドに入れられる前の痛みを分かち合ったような記憶をなくしてしまっているとすれば、キルハはひどく悲しいだろう。そして、気遣い屋なところがあるキルハは、再びつらく苦しい過去を私に共有することはないのではないだろうか。
それは嫌だな。考えるより早く、私はそう思った。
風が吹く。少し長いキルハの黒髪が、眼窩に光る月のような輝きを覆い隠した。
私は、一体どれだけの記憶を失っているのだろうか。私は、それほどに死を経験しているというのだろう。いつからか、カウントしていたはずの死の回数を忘れてしまっていた。正確には、カウントしていたという記憶を、私は失っていた。そのことを教えてくれたのは、キルハだった。前は数えていたはずだけれどどうしたの――そんな風に、私に伝えてくれた。
そうして私は、記憶を失っているということを記憶した。そんな記憶も、多分気づかないうちに取りこぼしていく。
穴だらけの記憶はもう、どれだけの記憶の総量があったかも定かではなくなっていた。何を失ってしまったのかも、定かではない。多くの記憶は、もう誰の記憶の中にもない過ぎ去った過去になってしまったのだろう。
ズキンと、心臓が痛んだ。忘れてはいけない記憶を忘れていると警告するような痛み。けれどどれだけ頭を悩ませようと、失われた記憶を取り戻すことはきでなかった。
わかっているのは、まだ私の中には、弟や、おそらくは弟の恋人だった幼馴染の少女、若くして死んでしまった両親、生まれ育った故郷の村の記憶などが残っているということ。
果たして、それら全てを失った時、私は私でいられるのだろうか。大切な記憶を失って、家族のことを忘れてしまったら、その時はもう、私はロクサナという人間ではなくなってしまっているのではないか。
そう思ったら、無性に弟に会いたくなった。かつては泣き虫で、いつも私の背に隠れておどおどとしていた弟。美しく成長した、百合の花を思わせる彼女と、弟は幸せに過ごしているだろうか。ひょっとしたらもう子どもが生まれているかもしれない。そうして二人には、私という魔女のことを頭の片隅に記憶しながらも、前を向いて生きていてほしい。
ああ、べつに私のことなんて忘れてくれてもいい。魔女として囚われた私という存在が身内にいたという記憶がない方が、獣のように一人の男を殺した化け物である私のことを覚えていない方が、二人のためかもしれない。
そう、私は二人に会いに行ってはいけないのだ。私が会えば、二人は否応なく過去を思い出してしまう。私という存在が辛い記憶を呼び覚ましてしまう。
私は相当悪い魔女なのかもしれない。
なんとなく、体を傾けた。その頭が、ちょうどよくキルハの肩に乗った。
キルハは、何も言わなかった。ただじっと、私に肩を貸しながら、身じろぎすることなく座っていた。その温もりに、涙が出そうだった。視界がにじむ。星が増え、ゆがむ。
涙をこぼさぬように目元に強く力を入れた。
「……きれいね」
「そうだね」
何がともいうことなく、私とキルハはそれっきり黙って、ただじっとして同じ時を過ごした。気づけば虫も静まり返り、遠くからかすかに響いてきていたバカ騒ぎの音も聞こえなくなっていた。
頭を、キルハの肩から引きはがす。後ろ髪をひかれるような思いを感じながら。
小さくあくびをして、体を伸ばす。なぜだか不思議と、今夜はぐっすり眠れる気がした。魔物がいつ襲ってくるかわからない森の中で熟睡など自殺行為のように思えたが、私は永遠の眠りにつくことなんてないからさほど気にしなくていいだろう。
それよりも、頭と肩に残った熱を感じながらまどろみの中に思考を投げ出したかった。
「おやすみ」
「おやすみなさい。いい夢を」
ひらひらと手を振ったキルハが、多分今日初めて真正面から視線を合わせた。なんとなく気恥ずかしくて、私はキルハに向かって舌を出した。いや、いい年して舌を出すなんてふるまいをしているほうが恥ずかしいだろうか。でも、私の肉体年齢は十五歳のままだ。記憶の欠損のことも考えれば、私は十五年生きた人といってもいいのではないだろうか。……そんなわけがないか。
枝の上でくるりと背中を向けて、下の太い枝目がけてジャンプした。
トン、トン、トン、と軽く跳躍を繰り返して、茂る枝葉をかいくぐる。大木の下、うねる根が伸びる大地へと降り立つ。見上げた先にはもう、キルハの姿は見えなかった。月明かりに照らされているはずの彼の姿は、無数の枝葉の先にあった。
キルハはよく私のことを見つけられたと思う。一人で森に向かう私のことを心配して追いかけたのだとしても、私たちの間にはそれなりの距離があったはずだ。いくら何でも至近距離から視線を感じていれば、キルハくらいの隠密能力であれば私だってたやすく見抜いたし、第一それだけ距離が近ければキルハはもっと早く私と同じ枝へと上がって来ていただろう。
つまり、キルハは私が森に姿を消してからしばらくして、一向に帰ってこない私を心配して、その後を追ったのではないか。
だとするとやはり、木々の枝葉に遮られて姿の見えなかった私を見つけ出せたというのが腑に落ちない。私の存在感はそれほど強いということだろうか。あるいは、キルハには私の居場所を探る器官でもあるのだろうか。……まさか。そんなストーカーじみた能力が常識人なキルハにあるとは思えない。
もしくは、私を見つけられるほどあちこち探し回った?それならば「やっと見つけた」とか、そんな言葉の一つがあってもいい気がする。それにキルハの服装は乱れていなかったし、呼吸も心拍数も落ち着いていたように思う。
「キルハは、真っすぐこの木にやって来た?」
幹のくぼんだ傷に手を触れる。これが私とキルハが何度も足を掛けてできた跡だったらいいなと自然と思った。その反面、もしそうだとすればその記憶を失ってしまっていることになって、私は強い罪悪感を覚えた。
答えは、わからない。
頭上を見つめる。そこから、声が降ってくることはない。もう一度先ほどと同じことを聞いたとして、キルハはきっと、今度も答えを濁すのではないか。
揺れる枝葉のささやきが、「そうだよ」と告げた気がした。
大木に背を向けて歩き出す。
明日も朝は早い。特に決まっているわけではないが、日の出という魔物たちが活発に動く時間の一つに無防備でいるほど私は度胸がない。だから多分、まだ日が昇らない時間にいつも通り目を覚ますだろう。
その時まで、この胸に広がる温かな熱を抱きながら、静かに眠っていたかった。