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白百合の涙  作者: 雨足怜
放浪編

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39/96

39レイラとクッキー

 ぱたぱたと軽やかな足音が響く。レイラの足音だ。

 そう認識するのとほぼ同時に、扉の向こうからレイラが勢いよく飛び出してきた。


「あべる!」

「危ないから厨房で走るな。……それで、どうした?」


 作り途中の昼食は、中断できるタイミング。火から鍋を遠ざけてから、俺はレイラと視線の高さを合わせるために床に膝をつく。マリアンヌは「そろいもそろって親切ね」などと言っていたが、別にレイラを一人の人間として尊重しているから、あるいはレイラが怖がらないように顔の高さを合わせているわけではない。

 ただ、首が痛いのだ。俺の半分ほどしか身長のないレイラを見下ろし続けるのは、レイラもだろうが俺の首も痛いのだ。歳なのだろうか。正確な数はわからないが、もう三十は超えているはずだ。すでに肉体のピークはとっくに過ぎている。後は老いていくだけ……ではあるのだが、いろいろと心配な三人と新たな一人を見ているとこのまま時間に任せて体を衰えさせていくというのは抵抗があって、最近はかなり真剣に鍛錬を続けている。


 俺の顔をじっと見つめたレイラは、それから俺の背後へと目を向ける。腹が減っているということだろうか。

 あのね、あのね、と言葉を探すレイラは、きゅっとスカートを握りながら、勢いよく顔を上げて告げた。


「ろくさなに、おりょうりをつくってあげたいの」

「……む?ロクサナに料理?」


 腹が減っているのだろうという推測で思考がまとまりかけていて、すぐに食べられるものはあっただろうかと考えていた俺の頭は、レイラの言葉にしばしフリーズを起こした。俺が無視をしているように思ったからか、レイラがどすんと体当たりしてきた。いや、抱き着いてきたというのが正しいだろうか。

 一人でいることが多かったうえに、大人であっても辛い経験をしてきたレイラは、同年代の子に比べると幼く、言葉もあまり多くない。最近では俺たちに打ち解けてきたからか、言葉の代わりに体で表現することが増えたように思う。正直、それでいいのかという思いはある。子育ての経験などないから、今のレイラがおしとやかに育つ未来を想像できないのは自分の知識不足かもしれないが、少し教育方針をきちんと検討するべきだろうか。これは後でロクサナと話そう。

 ふと脳裏をよぎったのは、マリアンヌの姿だった。そういえばマリアンヌも、最近俺をどついてくることが多いように思う。だとすれば、レイラはマリアンヌの言動から学びを得て、俺に体当たりをしているということだろうか。

 なるほど、だとすればロクサナより先にマリアンヌの言動に注意喚起をしておくべきだろう。それに、どうも許可を得てからロクサナと話さないとマリアンヌの機嫌が悪くなるのだ。仲間に相談を持ち掛けるためにまず許可を求めに行くというのはおかしな話な気もするが、まあ今の状態で上手くいっているのだからわざわざ変える必要もないだろう。

 それで、何だったか。ああ、ロクサナに料理を作りたいということだったか。


「なぜだ?」

「ろくさながかなしそうだから?」


 俺に問われても困るが、確かに最近のロクサナは精神的に不安定だ。アヴァンギャルドで活動していた時もそうだったが、ロクサナは落ち込むとぐるぐると考え続けてドツボにはまってしまう印象がある。俺やマリアンヌ、キルハとは違って、ロクサナはただの村人だったというから、危機的状況に立ち向かうための精神性が弱いというのも仕方のないことだろう。ただの村娘が弟を守るために屈強な男に立ち向かい、死の間際に力を願って魔女に覚醒し、男を殺し、弟も死んでしまい、捕らえられたと思えばあっという間にアヴァンギャルド行きだ。アヴァンギャルドに来てからは心をすり減らしながら魔物と戦い続ける日々で、魔物の襲撃にある程度の思考が割かれていたから、自身の魔法について深く考えたり、現実を直視して思考したりすることがなかったのだろう。そうしてアヴァンギャルドというくびきから解放され、一度戦場の狂気から逃れてしまったことで、その内側に潜んでいた一村人としての柔らかい心が出てしまったのだろう。

 確か、勝手に魔法が発動したのだったか。これまでと違って魔法の発動が認識できず、気づけば体の時間が巻き戻っているという話だったと思う。錯乱したロクサナからキルハが聞き取った話を聞いた際には、やけにロクサナに対するあたりが強いマリアンヌも深刻な顔で黙っていた。

 ロクサナたち三人は原因不明の死によって魔法が発動したと考えているようだが、俺は違う可能性を考えていた。すなわち、死ぬことなく魔法が暴発した可能性だ。ロクサナの魔法は死がトリガーであるというが、異常を示している魔法が、死んでいないのに発動してしまったという可能性もあるのではないだろうか。まあ、魔法に関しては門外漢でしかない俺のそんな疑問は、とっくにマリアンヌやロクサナがそれはないと考えたのだろう。

 原因不明の、死。それは確かに怖いと思う。眠るように死んだという話だったが、普通の人はそれを怖いと認識することなく、そのまま死んでしまう。ただロクサナだけが、死を乗り越える彼女だけが、それを怖いと思うのだ。普段の生活の中、ふとした拍子に死ぬかもしれない。それは、もはや死んでいないのと変わりがないと思うが、ロクサナの魔法には代償がある。

 意識せぬうちに死を繰り返していて、気づけば大切な記憶が自分の中から喪失していて、そのことにも気づけない――ああ、錯乱するに足るものだ。

 その恐怖に、ロクサナは泣いている。それは確かに、悲しそうという表現も間違っていないだろう。

 ロクサナは、悲しんでいる。ロクサナ自身を襲う不幸に、悪夢に、ロクサナは悲しんでいるのだ。


「それで、どうしたい?」

「だからおりょうりをつくるの!おいしいってなれば、げんきになるの」


 なるほど。料理で気持ちを前向きにしようということか。レイラが作った料理を食べれば、ロクサナは癒されるかもしれない。あるいは、キルハに料理を作ってもらえば、食べなくなってしまっているロクサナも食事を摂ることができるだろうか。……だとすれば、俺が用意していた粥は無粋だったか。……そういえばロクサナは病人ではないな?粥ではないのか?だがあまり食べていないというのなら消化にいいものを――

 ふんす、と鼻を鳴らすレイラがぐっとこぶしを握って宣言する。


「くっきーをつくってあげるの」

「クッキー?……クッキーか。なるほど?」


 ふむ、クッキーを作るのか。確かに女性は甘いものに目がないという。ロクサナやマリアンヌも、アヴァンギャルドにいた時、野生の果実を見ると目を輝かせていたように思う。

 クッキーであればレイラにも手伝えることがあるだろう。やる気になっているレイラがどこまで料理ができるか未知数だが、型抜きをするだけでも達成感を得られるかもしれない。


「だとすれば、昼を食べてからだな。材料は……買いに行くか」

「うん!おいしいのをつくる!」


 自分が食べることを想像したのか、目をキラキラさせるレイラの口の端によだれが見えた。ポケットから取り出したハンカチで口を拭く。うむぅ、と眉間にしわを寄せるレイラは、なすがままの状態で拭かれていた。

 やはり、もう少しこう、淑女らしさを身に着けるべきではないだろうか。せめて最低限ポケットにハンカチをだな……いや、俺ももともとハンカチなんて持っていなかったな。ハンカチを持つようになったのは、たぶん最近……ああ、マリアンヌを見ていたからか。何かとハンカチを使っているところを見ていたせいかハンカチの有用性だってわかっていたし、持つべきだと強く宣言するマリアンヌに否という気もなかったのだ。

 あの日、出かけた際のマリアンヌはやけに機嫌がよかった気もする。おかげで無駄に思えるほどいろいろとものを買う羽目になった。

 む、つまりマリアンヌはレイラの教育に良いこともしているということか。だが、タックルは覚えてもハンカチを使うという習慣は身についていないようだな?……そもそも、レイラはハンカチを持っているのか?持っていない気がするな。


「……さて、それじゃあ昼を食べたら出かけるか。昼食の前までに準備できるか!」


 すぐにやるとばかりに厨房を飛び出したレイラの姿が消える。嵐のように去っていったその背中を思い出しながら、俺は作りかけの昼食を仕上げにかかった。







「帽子よし、カバンよし、水筒よし。行くわよ!」

「……どうしてマリアンヌがいる?」


 なんでもないような顔をして混ざっていたから認識まで少し遅れたが、「おー」と頷くレイラの隣には外向きの装いをしたマリアンヌの姿があった。白いロングワンピースにつばの広い麦わら帽子という装いは、努力して平民に混じろうとする貴族令嬢のような印象を覚えた……マリアンヌは元貴族だったか?なら間違ってはいないか。

 淡いピンクのカバンは、一体どうして持っているのかわからないほどに小さい。そんなサイズではろくな荷物が入らないだろうに、持っているだけ邪魔ではないか?

 足元を見れば、黒ずんだ血のような落ち着いた赤色のサンダル……流石の俺もこの比喩がおかしいのはわかる。だが、他に表現できる言葉が見当たらなかった。

 レイラもまた同じような帽子をかぶり、あとはマリアンヌの靴とよく似た色合いのスカートと灰色の上。きゅっと両手で帽子に触れたレイラが楽しそうに笑う。


「むぎわらぼうしー!」

「ちょっと、ストローハットと呼びなさい!麦わら帽子なんてダサいでしょう⁉」


 ダサいか?というか、同じものを指すなら麦わら帽子でいいだろうに。一体マリアンヌの頭の中で麦わら帽子はどんな印象になっているんだ。

 どうして、と首を傾げるレイラに、マリアンヌが懇々と解説をする。曰く、麦わら帽子は農民が余った藁を編んで作るもので、平民の代名詞である帽子なのだとか。いや、そうか?別に農民以外も使っていると思うが。

 俺の思考を見抜いたのか、急に振り向いたマリアンが俺を鋭い目でにらんできた。そういえば、レイラの目のまえでは視線が少し緩くなる気もする。マリアンヌも、多少レイラに気を使っているのだろうか。

 振り向いたマリアンヌの顔は、背後にいるレイラには見えていない。


「ちょっと今、だったら麦わら帽子をかぶっているお前は農民なのか、って思ったわね⁉これはストローハットなのよ⁉」

「いや、思ってないぞ?というか、よく似合っているし、呼び方とか農民に見えるとかそんなのどうでもいいだろ」


 途端に、マリアンヌの言葉が止まった。パクパクと開閉を繰り返す口からは、ただ息が漏れるばかり。家を出る前から熱中症にでもなっているのか、顔が赤かった。それから、息を吸っていないことにようやく気付いたように、勢いよく息を吸い、吐き出す。

 深呼吸をしたマリアンヌは俺を一層強くにらむが、今度の視線は少しも怖くなかった。まるで子犬が一丁前に睨もうと努力しているようなほほえましさがあった。

 いや、一端のレディに子犬という表現もおかしいか。……そういえば、マリアンヌの歳を俺は知らないな?


「……また余計なこと考えたわね?」


 エスパーじみたマリアンヌに何も告げることなく、俺は二人の横を通って玄関扉に手をかける。

 きゅっと手を握ったレイラが、にっこりと笑って告げる。


「いくの!ぼうけんのたびに!」


 いや、ただクッキーづくりの材料を買いに行くだけだろうが。






「あらあら、夫婦でお買い物?仲がいいわねぇ」


 レイラからクッキーづくりの話は聞かされていたらしいマリアンヌは、ちゃんと市の方へと向かってくれた。まあ、俺もマリアンヌもレイラと手を繋いでいたわけだから、俺がレイラの行き先を誘導すれば必然的にマリアンヌもついてくることになるんだが。


「え、いや、夫婦じゃぁ……」


 もごもごと口を動かすマリアンヌの声は、雑踏の音に紛れて店主の女性の耳には届かない。顔を赤くしてうつむくマリアンヌを見て女性がほうと息を漏らす。


「新婚さんかい?いや、もう大きな子どもを連れていたね。旦那さんが家庭を気にかけてくれる人でよかったねぇ。うちのは全然だよ。普段は飲んでくるから遅いし、休日は仕事仲間と外出ばかりなんだよ。もう少しあたしたちの苦労をわかってくれてもいいと思うんだがねぇ」

「あ、えぇと、ははははは……」


 おばちゃんトークにたじたじとなっているマリアンヌにレイラを任せて、俺は店に並ぶ商品をざっと見ていく。相変らず砂糖の値段は高い。しかも、どうにも混ざりものが多いようにも思う。店主に断ってひとなめするも、わずかな苦みがあった。薬の類ではない。

 まあ体に害がある混ぜ物ではないようなので問題はないか。ほかの店はもっと悪質な砂糖ばかりだったし、このあたりに流通してきている砂糖の中では比較的ましな部類だろう。

 小麦粉のほうは混ぜ物なしの良い品だった。良い伝手があるらしい。


「お父さんも、わかっていると思うけれどあんまり妻をほったらかしにしておくんじゃないよ。まして、家事は女の仕事だ、なんて言うのはやめておいたほうがいいさね。忙しくて家事を任せてしまうことになっても、しっかりと礼を言いな。うちのはもう礼の一つすらないからね……ああ、話していたら腹が立ってきたわ」


 忠告しながら勝手に怒り出した店主を見ながら、俺は視界の端で顔を真っ赤にしてもごもごと口を動かすマリアンヌを見た。普段の勝気な様子は消え去り、恥ずかしそうに指を絡めるその姿は、庇護欲をそそるものがあった。

 そして、気づいた。俺は、この店主にマリアンヌと夫婦に思われて、嫌な思いをしていないと。

 自然に、俺はマリアンヌが隣に立つことを受け入れていた。まるでそうであることが当たり前のように。マリアンヌが一緒にいることが当たり前になっていた。

 マリアンヌが、妻。

 嫌ではないと思った。それどころか、温かな思いが胸の中からあふれ出した。

 マリアンヌの罵倒が心地いいとでも思っているのだろうか?いや、俺は肉体の痛みこそ好むが、精神的な苦痛はそれほど求めていない。ヒステリックに叫ぶマリアンヌは、どちらかといえば嫌悪対象、近づきたくない存在なはずだった。マリアンヌだって、そのはず、なのに。

 ちらと視線を向ければ、マリアンヌもまた俺のほうを見ていたようで、慌てて視線を逸らす。俺たち二人を見つめるレイラが不思議そうに首をかしげる。それから、マリアンヌとつないでいる手とは反対側の手を、俺に向かって伸ばしてくる。


 その小さな手を握る。三人、並んで街を歩く。

 なるほど、これは家族に見えるだろう。夫婦と娘だ。決して、俺たちはそんな関係ではないが。

 マリアンヌは、静かだ。普段の天邪鬼な様子は鳴りを潜め、ただ静々と、貴族令嬢のように――いや、メイドのようにか?――レイラに手を引かれて歩いてきた。


 俺は、マリアンヌが好き、なのだろうか。

 わからない。好き嫌いなど、そんな感情はとうの昔に放り出してきたはずだった。人間関係を投げ出して、ただ痛みに逃げた。それだけが、俺を現実につなぎとめる、生きている証明だったから。

 けれど最近、俺は痛みを求めることが減っていた。狂ったように求め続けた痛みを、心が必要としていなかった。理由を、考える。それは、胸の中にぽっかりと開いていた空虚が、埋まっているからではないかと考えた。

 心に、空いた、大きな穴。絶望の穴。この人生に価値を見出せなくなった俺の、壊れた証。それはもう、新たな感情で埋まってしまっているように思った。

 そして、その感情は、俺の気のせいでなければマリアンヌに向けたものだった。


 温かな思いに、つけるべき名前はまだ見つからない。昔懐かしい恋や愛と似ていて、けれど少し違うような気もするこの感情に、そもそも名前などいるのだろうか。

 マリアンヌは、俺のことが嫌いなはずだ。

 俺もまた、マリアンヌはあまり相手にしたくない相手だったはずだ。

 けれど、今こうしてレイラを挟んで一緒に歩いている。同じ歩幅で、前に向かって進んでいる。

 そのことがひどく不思議で、心温まった。


 いつか互いの道が分かれるまで、一緒に歩いて行けたらいいと、そう思った。

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