37調査報告
「……それで、マリアンヌなしで私と何を話すつもりなの?」
まるでマリアンヌをわざと怒らせて退出させたように見えたシャクヤクにそう尋ねれば、彼はにやりと笑ってみせた。
「ご明察。さすがは元アヴァンギャルド。観察眼が違うわね」
「……アヴァンギャルドについて知っているんだ」
「そりゃあ弟子が連れていかれた場所のことくらい知っているわよ。まああの子を救ってあげることはできなかったし、そもそも国とあたしたちの目的は違えど、そのための手段はそれほど食い違ってはいないのよねぇ」
つまり、魔女たちがアヴァンギャルドに入れられていたのは仕方がないことだというつもりなのだろうか。弟子であるマリアンヌが連れていかれてなおそう思うのだとすれば、私は少しシャクヤクとの関りを考えないといけないかもしれない。
「……それで、私に話したいことでも?」
「まあいくつかね。アヴァンギャルドでのマリアンヌの様子とか、マリアンヌの恋の進捗とか、レイラちゃんについてとか、アマーリエちゃんについてとかね」
「レイラとアマーリエについて何かわかったの⁉」
掴みかかる勢いで立ち上がった私は、テーブルの下に膝を打ち付けて痛みにうめくこととなった。ほとんど手を付けていなかった紅茶の水面が大きく揺れた。
落ち着きなさいよ、とシャクヤクは悠然とした動きで焼き菓子を食べながら告げた。
「それで、何かめぼしい情報が手に入ったのよね?」
以前シャクヤクがこの屋敷を訪ねた際、私は姪であるレイラとその母親のアマーリエについての情報収集を依頼していた。それなりにあちこちに顔が広いらしいシャクヤクは、ちょっとした頼みごとを対価に私の調査依頼を引き受けてくれた。
それからわずか数日。これほど早く情報が手に入ると思っていなかった私は、汗のにじむ手を強く握りながら体を前のめりにしてシャクヤクの言葉を待った。
「そうよ。多分、アマーリエって女性は連れ去られた可能性が高いわ」
「……魔女である私の友人として、国に連れていかれたと?」
「国が連れて行ったというのは事実よ。ただ、魔女である貴女の存在があってのことではないでしょうね。騎士と思しき人物は深夜にアマーリエちゃんを襲ったそうよ」
「魔女の友人という理由でとらえるならば大手を振って行動できるということね」
「そう。その襲撃の際、彼女は自分の娘を逃がし、レイラちゃんは幸か不幸か途中で違法奴隷商人に捕らえられて町まで運ばれた……ってことになっているけれど」
首をかしげるシャクヤクが、次の言葉をためらうように一度口を閉ざす。私は早く次の言葉を聞きたいと前のめりになりながら待ち続けた。
「レイラちゃんのことを、商人はほかの奴隷に比べてひどく丁寧に扱っていたそうよ。家族……レイラちゃんが娘のように見えたという目撃情報があったわ」
「奴隷として捕まえたレイラを丁重に扱った……」
それはつまり、レイラはあの建物の地下の地獄の中にいなかったということだ。ほっと胸をなでおろした私は、けれど違法奴隷商人がどうしてレイラをそんな風に扱ったのかが気になった。捕まえた奴隷を、丁寧に扱う理由。
「……貴族か誰かに売るつもりだった?」
「その可能性はあるわね。とはいえ捕らわれた奴隷商はすでに死んでいて、事実を見つけるのは難しそうよ。アマーリエちゃんの方も行方は分からないわ。ひとまずこんなところかしら」
迅速な調査結果に、私は深く頭を下げて礼を言った。
アマーリエは、おそらく生きている。けれど、無事と呼んでいい状況にあるかはわからなかった。霊として私の目の前に現れた弟は、妻であるアマーリエに危険が迫っているという切羽詰まった様子だった。あるいは、すでに目も当てられないような扱いをされているか。この国の魔女に対する扱いを思えば、魔女の友人だったアマーリエがどのような扱いを受けるかは想像に難くなかった。
けれど、「魔女の友人」としてならわざわざ夜に襲う理由はない。そこだけがひどく引っかかる点だった。
アマーリエ自身が魔女になったというわけでもない。私が理由で連れ去られたというわけでもない。だとすれば、思考は八方ふさがりだった。
「あるいは、アマーリエちゃんである必要はなかったのかもしれないわね」
「……無秩序に選ばれた誘拐対象の一人がアマーリエだったと?」
「意地でも魔女を排斥して人類を滅亡に追いやろうとするような王国の考えることだもの」
鋭く細められた目の奥に、一瞬どす黒い闇が見えた気がした。よどんだ憎悪のような光は、けれど次の一瞬にはシャクヤクの目からすっかり消え去っていた。
目をこする。やっぱり、先ほどの闇はそこにはなかった。私の見間違いだったのだろうか。
落ち着きなさい――そういいながら、シャクヤクは私の手をきゅっと握った。ビリリと静電気が走ったような感覚が腕を駆け上がった。肩をはねさせた私の手を、シャクヤクがゆっくりと開いていく。
爪が食い込んで血がにじんだ手のひらがあらわになって、「しょうがないわねぇ」と告げながらシャクヤクは突如現れた治療用具を詰めた箱から消毒液なんかを取り出して手当を始めた。どうやら空間魔法で手元に引き寄せたらしい。
魔法の無駄遣いにもほどがあった。
「これで良し。まったく、せっかくのきれいな手なんだから、大事にしなきゃだめよ」
きれいな手――それを聞いて、私は笑うしかなかった。そう、きれいな手だった。戦闘でついた傷跡のほとんどない、きれいな手。
自嘲めいた笑みを浮かべた私の気分を入れ替えるように、シャクヤクはパンと柏手を打った。
それから、私はシャクヤクと共通の知り合いであるマリアンヌについての話に花を咲かせた。
顔を真っ赤にしてマリアンヌが話を止めに来たのは、すでに夕日が差すほどの時間になってのことだった。
「……アマーリエ」
今日はマリアンヌにべったりだったレイラは二人で風呂に行っている。急に広くなったように思う部屋の中、私はベッドに寝転がりながらその名をつぶやいた。
私の記憶にない、私の友人。幼馴染で、私の弟の恋人で、レイラの母親。一言では到底言い表せない関係であるアマーリエは、今どこにいるのか。
王国が彼女を連れ去ったというのは本当に事実なのだろうか。だとしたら、何のためにか。今更魔女の友人だからとして連れ去るのはおかしい。
いくら考えても、アマーリエのことをすっかり忘れてしまっている私には、アマーリエがさらわれる心当たりなんて見つかるはずもなかった。
わかるのは、アマーリエは危険な状況に置かれているということ。死者としてアマーリエを見守っていたのであろう弟の顔には焦りがあった。早くアマーリエを見つけてくれと、でないと取り返しのつかないことになると、まるで死んでなお己の死以上の絶望が待っているような必死さで弟は私にアマーリエの捜索を頼んできた。
私が救えなかった。弟。死んでしまったことを忘れてしまっていた弟。その死だって、今の私には実のところあまり実感はない。だって、私は弟が死んだことを覚えていないから。けれど、それは事実だ。弟は死んだ。そして、私に最期の頼みのような形でアマーリエとレイラを守るように頼んできた。
私は、できるだけその願いに応えないといけない。だって、私がもっと早く行動していれば、弟は死ななかったかもしれないから。ハンターによって怪我を負わされることもなく、今も幸せに生きることができているはずだったから。
「……ハンターに、攻撃された?」
記憶の中、荒くれものの攻撃によって吹き飛ばされる弟の姿が映った。弟は、一体何のためにかなわぬ相手に向かって立ち向かっているのか。私の知る弟とは違った、覚悟の決まった男の顔を、私はその時見た気がした。
覚悟の、顔。多分、そこにアマーリエが関わるのだろう。多分、美しいアマーリエが傷つけられそうになっているからとか――
ずん、と重いものが心臓にのしかかった。急にうまく呼吸ができなくなった。体の奥底に眠っていた激しい感情が、私の心臓を握りしめているようだった。
荒い呼吸を繰り返しながら、私は闇に閉ざされていく天井をぼんやりと見つめながら、感情の正体を考え続ける。罪悪感、無力感、憤怒、絶望、焦燥、困惑――その全ての感情には、行き場がなかった。だから、唯一方向性を持っていた私自身に対する無力感からくる怒りがそれらの感情をまとめ上げて、私に襲い掛かっているようだった。
暗い視界に、赤が灯る。飛び散る血潮。泣き叫ぶ声。呪詛のようにつぶやかれる憎悪。
暗い地下で、一人の人物が鞭をふるう。醜悪に顔をゆがめながら、太い腕で鞭をふるう、その美しい顔つきの人物の名前は――意識が、闇に飲まれて。
全身を、ひどく気持ち悪い感覚が走り抜けていった。
「ロクサナ⁉」
ドン、と勢いよく扉が開け放たれて、その奥からキルハが姿を現した。緊急事態を告げるように息が荒く、ノックもなしに入ってきたキルハをにらむために、私はゆっくりと目を開く。
「大丈夫か、ロクサナ⁉どこかに異常は⁉今の魔力は――」
「魔力?」
無精ひげの目立つ、若干頬のこけたキルハの顔を眺めながら、私は自然と自分の手を見下ろし、息をのんだ。そこには、私の記憶にある手とは違った、戦闘の記録のない、少しだけかさついた手のひらがあった。旅と、その後の海での戦いによってついた剣を握る者独特のマメは、そこにはなかった。あるのは、農民にふさわしい鍬を握る手。
「……私は――」
――死んだ?いつ?どうして?
必死に思考を探るけれど、思い出せない。そんな記憶は、なかった。だって、魔法の感覚はなかった。あの闇の世界に落ちる感覚も、膨大な魔力の奔流に流される感覚も、私は経験した覚えがなかった。
近づいて来たキルハが、鋭く細めた目で周囲を見回す。私も、キルハとともに部屋の中を見回す。
不自然なものはなかった。レイラと一緒に選んだ洋服ダンス、テーブルとイス、カーペット、ベッド、棚、小物入れ、武具、雑多な私物たち――私のことを殺しうるようなものは、どこにもない。
私は、自分の死を覚えていない。だとすれば、私は今回の死で、自分が死んだという事実を忘れたことになる。たった今、私は何らかの理由で死んだ――
悪寒が全身を走り抜けた。言いようのない恐怖が私を包み込む。私は、どうして死んだ。私は、本当に今、死んだのか?キルハの魔力感知が鈍ったのだ。ずっと部屋にこもって魔具の作製に励んでいたから感覚がおかしくなっているのではないだろうか。よく見れば目の下には隠し切れない隈があるし、寝不足のせいかその足取りもおぼつかない。
嘘だと、勘違いだったと、そう言ってほしかった。けれど深刻な顔で部屋を検分したキルハは、ごまかしの効かない目で私のことを見た。
手を握る。そこに、違和感があった。先ほど見た、戦闘の痕跡のない手を思い出す。
やっぱり、私は、今、死んだのだ。
怖かった。怖くて仕方がなかった。魔物との戦いなど比ではないくらいに、怖かった。原因の分からない死。そして、私の体が死に慣れていってしまっていくような、私という存在がとうとう否定しようのない化け物になっていくような恐怖。
キルハの腕に、飛び込んだ。キルハの体は温かくて、対照的に私の体が嫌というほど冷えていることに気づかされた。キルハもまた私の体の冷たさを感じて、眉間に深いしわを刻んだ。
「……怖い」
ぽつりとつぶやいて。一度口から零れ落ちてしまった感情は、次から次へと言葉となって、涙となってあふれ出した。
「怖い、怖いよ、キルハ。私は、どうしたんだろう?私は今、本当に死んだの?私はどうして死んだの?私はまた記憶を失っていくの?キルハの隣に並んで生きるのは許されないというの?」
怖かった。私はようやく幸せになれると思った。キルハという最愛の人と並んで、レイラやマリアンヌ、アベルとともに、死から遠ざかって生きていけると、根拠もなくそう思っていた。なのに、私は魔物との戦いでもなく、こうしてあっさりと死んだ。死の記憶も、魔法が発動した感覚もなく、私は生き返って今、ここにいる。おかしな現状が、怖くて。
それ以上に、手の中から幸せが、平穏な日々が零れ落ちていくような恐怖で、私は震えるばかりだった。
キルハは、何も言わなかった。何も、言えなかったのだろう。ただ、私を強く抱きしめてくれていた。
キルハにだって、私が死んだ理由は分からない。私は、一人、この孤独と向き合っていくしかない。死がすぐ横にあり、気づけば記憶が零れ落ちていく、異常と。
本当に、私は死んだことと魔法が発動した感覚を忘れてしまったのだろうか。それは、どうにもおかしい気がした。
これまでにも、直前に死んだ理由や、死んだという事実をすっかり忘れてしまったことはあった。けれどその時も、私の精神を押し流すような魔力の激しい流れを、私は覚えていた。そもそも、魔法の発動の代償として記憶が失われるとするならば、魔法発動中にその魔法の感覚に関する記憶が失われるというのはおかしいのではないだろうか。次の魔法発動時に、前回の魔力の感覚を忘れるというのならともかく。
つまり、私の魔法がおかしくなっているのではないだろうか。廊下を歩いていたキルハには、何かおかしなところが感じられなかっただろうか。
そんな情報のすり合わせをしたくても、恐怖に震える私は、ただキルハの腕の中で涙を流し続けるしかできなかった。




