35魔法訓練
美しい庭園。そこでは今なお複数の庭師が必死に手入れをしているところだった。彼らは不動産屋経由でマリアンヌが庭の手入れを依頼した者たちだった。
不動産屋にこれ以上何の用事があるのかと思っていたが、不動産屋は暮らしのすべてのことに関する商品や人材派遣のプラットホーム的な役割を果たす組織であったらしい。傷んでいた一部の内装の手入れやリメイク、庭の手入れなどもマリアンヌは不動産屋を介して行っていた。隣で話を聞いていた私には何の呪文を言っているのだろうという話を進めて、マリアンヌは店員と手を握って笑いあっていた。
枯れた樹木を植え替えて、花の苗を植え、剪定をして、と忙しく働いている庭師たちの横を通って、私たちは地下訓練場の入口へと向かった。
もともと優秀なハンターたちが拠点にしていたというここは、秘密の特訓とやらのために地下に訓練場が設置されていた。真っ暗とまでいかない薄暗さであったのは、広い直方体にくりぬかれた部屋の端に松明が数本置かれ、その中央でアベルが拳をふるっていたからだった。
「精が出るわね」
「最近鈍っているからな」
短く告げたアベルが、私たちに場所を譲るように拳法のような動きをしながら部屋の端へと移動していく。そんな場所はいらないわよ――ささやくように小さなマリアンヌの声は、拳圧によって吹く風に紛れてアベルの耳に届くことはなかった。
声が届かなかったからか、小さくため息を吐いたマリアンヌが気持ちを入れ替えるように「さて」と告げて振り返る。
私は邪魔にならないように少し離れたところに突っ立って訓練を見守ることにした。私も体を動かすべきだろうか。でも初めての訓練を不安に思っているレイラは私に見守っていてほしいと思っているかもしれない。
そもそも、レイラは私をどのような人物だと認識しているのだろうか。伯母?両親の知り合い?母親?仮親?せめて、私がレイラにとって身構える必要のない人であればいいと思う。両親のいないレイラを守る存在でありたいと思う。
私は、レイラの保護者としてしっかりやれているだろうか。ああ、キルハとの関係すらうまくいっていない私が、まだ会って間もないレイラと最初からうまくやっていけるなんてそんな幻想を抱いているわけではない。けれど、少しでも、一日でも早くレイラがこの生活に慣れてくれて、そして子どもらしく私たちの顔色をうかがうことなく過ごしてほしいと思う。幸せに、なってほしいと思う。
マリアンヌから魔力操作の感覚を教わったレイラが、目を閉じ、祈るように両手を組む。一分、二分。手に汗握りながら、私はひどく緊張しつつレイラを見守った。
あ、と思わず声を上げそうになって、私はあわてて自分の口をふさいだ。レイラの集中を損なわないためにか、気づけばアベルも訓練をやめてじっとレイラのことを見ていた。そういえば、その顔には無精ひげが見えない。マリアンヌの視線を気にしてしっかり剃るようになったのだろうか。
そんなよそ事を考えていると、ふわりとレイラの髪が浮かび上がった。海の時と同じ。けれど変化があったのはそこまでだった。レイラがほどいた手はどこにも伸ばされることはなく、たださまようように虚空をふらついて、力なく下がった。
「……魔力制御はかなりできているようね。どうかしら、アベル」
「おかしな様子は感じなかったぞ?」
「え、待って?どうして私じゃなくてアベル?」
「だってあんたに聞いたって意味ないじゃない。魔法を使う感覚もなし、まっとうに魔力を感じることもできない鈍感魔女なんて、一体この訓練のどこに必要なのよ。そんな相手に助言を求めるだけ無駄でしょ」
ひどい、が間違ってはいない。私はレイラの訓練には何の役にも立たない、けれど。
「ううん、ろくさながいてわたしはすっごくうれしいよ!」
気を落とした様子の私を気遣ってか、レイラが舌足らずな口調で私の必要性を語ってくれる。きゅっと握る手を胸に当てて、倍近く背が違うマリアンヌに気丈に反論する姿は心震わせるものがあった。それからちらりと私のことを見たレイラは、にぱっと笑って見せる。
ほら見ろ、と私が胸を張れば、マリアンヌは額に手を当てて盛大なため息を吐いた。きょとんとしたレイラが、マリアンヌの言葉をじっと待つ。
「いい、レイラ。あんまり甘やかしすぎると、ロクサナみたいに魔力感知ができない残念な魔女になってしまうわよ」
「……まりあんぬみたいになるから?」
ぶは、とこらえきれずに私は噴出した。どうやら先ほどの私とマリアンヌの会話をしっかり聞いていたレイラは、甘やかすイコールマリアンヌのようになるということだと覚えていたらしい。
顔を真っ赤にして鋭い目で私をにらんだマリアンヌは、それからわたわたと手を振りながらレイラの誤解を解こうとする。必死なマリアンヌの気持ちがどこに向いているかは、もはや考えるまでもなく明らかだった。
かすかに汗のにおいが香り、気づけば私の隣にアベルが並んでいた。こんなところで気配やら音やらを隠さなくてもいいだろうにと思うけれど、私も時々意識しないうちに気配を殺してしまっているから人のことは言えなった。
びくりと肩を震わせる私を一瞥してから、アベルはまっすぐにマリアンヌを見つめて首をかしげる。
「……マリアンヌみたいになるっていうのはどういうことだ?」
「それは――」
「ちょっと、ロクサナ!余計なことを言わないでよ!」
「……釘を刺されたから私から話すのは辞めておくわ。気になるなら後でマリアンヌから直接聞いて」
「レイラからではなくか?」
「そう。マリアンヌから」
マリアンヌにウインクを送る。意味が分からないという風に、レイラの首が傾く。
納得したのかどうかわからないけれど、アベルは一つうなずいて再び視線をマリアンヌに向ける。自分を見つめるアベルの視線を感じてから、マリアンヌの顔が少しずつ赤みを帯びていく。それに比例するようにマリアンヌの説明がだんだん支離滅裂なものになってきて、レイラの首の傾きが時間を追うごとに大きくなっていく。
「つまり――」
「つまり?」
「ロクサナが鈍感だってことよ!」
「ちょっと⁉」
突如爆弾を放り投げてきたマリアンヌに文句を言いながら、私は二人の元へと歩み寄ってレイラの耳を両手でふさぐ。顔を上げて私を見るレイラに微笑み、それから私はマリアンヌと激論を交わした。
結局、そうしているうちにシャワーを浴びて料理を完成させたアベルが訓練場まで昼食を運んできて、今日のレイラの魔法訓練はお開きになった。
「それで、マリアンヌみたいになるっていうのはどういうことだ?」
入浴を終えて、すっきりして部屋に戻ろうとしていたわたくしに投げかけられた言葉に、心臓が大きく跳ねた。ギギギ、とさび付いた扉のようにかたい動きで振り向いた先にいたのは、じっとこちらを見つめるアベル。今日の昼間、レイラと交わした言葉のことだろうと直感して、そんなものをいつまでも気にしているアベルに少しだけ不快感が生まれた。
そんな重箱の隅をつつくようなことをどうしてするのか、理解できなかった。どうしてこう、男っていうのはどうでもいいところに執着を見せるのだろう。
話さないということはすなわち話したくないということなのだと、それを理解できないからもてないのだ。ああ、アベルがもてる必要はない。ただでさえシャクヤクに余計なアプローチをされるに至ってしまっているのだから、これ以上余計なライバルを増やされたくはない。
あんまりうかうかしていると本当にシャクヤクにアベルをとられるかも――ロクサナの声が耳の奥で響いた。そんなこと、わかっている。けれど、この体に染みついた天邪鬼なふるまいはそう簡単には変わらない。自分を守る鎧でもある振る舞いがあったからこそ、わたくしは手のひらを反すように私を嫌った者たちの言動に心を壊すことがなかったのだ。
「何よ?」
それでも苛立ちのにじむ声になってしまって、私は言ってすぐに後悔した。こんな風に話してばかりいるから、いつまで経ってもアベルが意識してくれないんだ。わかっている。わかってはいるけれど、だからといって本当の自分をアベルに見せるのはためらわれた。だって、もしアベルに素を嫌悪されたら、たぶんもうわたくしは生きていけないから。
「だから、昼間の話のことを――」
「なんでそんなことをあんたに話さないといけないのよ⁉」
ああ、まただ、またきついことを言っていしまっている。けれど、少しくらい察してくれてもいいと思うのだ。だって、もう数か月は一緒に活動をしているわけで、わたくしがどんな人間であるかなんてアベルたちにはお見通しのはずなのだ。だったら、わたくしが言いたくないと思っていることだって察してくれればいいのに――
「何を話すかはわたくしの勝手でしょう⁉わたくしはそのことを話したくないのよ!というか、蒸し返さないでよ。思い出してしまったじゃない⁉」
口は、思いに反して回り続ける。本当は、アベルと話をできているということだけでうれしいのに。ロクサナのウインクを思い出した。多分、アベルと話す機会を作ってあげたから感謝しな――そんな上から目線なことを考えていたと思う。
まったく、余計なお世話よ。わたくしだってやるときにはやるのよ。今もこうして、思考とは裏腹に厳しい言葉が口から飛び出してしまっているけれど。
なんだか、泣きそうだった。どうしてこうもうまくいかないのか、どうして素直になれないのか、どうしてアベルを傷つけるような、突き放すような言葉ばかり言ってしまうのか、自分の言葉を聞くほどに、わたくしはわたくし自身が嫌になる。
――ああ、こんな可愛げのない女、アベルに好かれるはずがないわよ。
「……そうか、悪かった」
アベルは悪くない、そう思うとともに、わたくしのことを察してくれないアベルが悪いという思いが、心の中でぐちゃぐちゃに混ざる。後者へと傾きかけた天秤は、けれどそこで動きを止める。
くしゃりと顔をゆがめて、アベルが苦笑した。それは、察することのできない自分自身を責めるような感情がうかがえた。
アベルは、悪くないのに。それなのに、ただそれだけの一言が口から出てこない。
次の瞬間には、アベルはそんな感情を飲み込んでしまっていて、いつもの何を考えているかよくわからない表情へと変わっていた。わたくしが好きな、他の人とはどこか違うアベルの姿があって。
「……どうして、聞こうと思ったのよ?」
言葉足らずなそんな質問が、ぽろりと口から零れ落ちていた。他の男とはどこか違うアベル。それは彼がとんでもない変態だからというわけではなく、見えている世界が、常人とは大きく異なっているのではないかと思って。
そんなアベルが、常人のように昼前の話を蒸し返してきたことが無性に気になった。
だって、これまでアベルはそんなことを聞いては来なかったから。まるでわたくしがただの旅の道連れであるかのように、一定距離を保って決して懐に踏み込んでくることはなかったのだから。
少しだけ、ためらうように視線を揺らし、それからアベルはどこまでも真剣な瞳でわたくしのことを見つめる。がさがさとした男らしい肌、りりしい眉、鋭い眼光。男らしさの詰まった顔が、ただわたくし一人へと向けられていた。
「マリアンヌのことを知りたいと思ったんだが、そんなにおかしかったか?」
カヒュ、と変に息が漏れた。何を言われたのか、わからなくて。反芻するうちに言われた言葉を脳が正しく受け取って、私の頭は沸騰した。
マリアンヌのことを知りたいと思った――アベルの声が頭の中でぐるぐると回り続ける。アベルが、わたくしのことを知りたいと思った?冗談ではないか?
そう思ってアベルのことをちらと盗み見れば、そこにはやっぱりどこまでも真剣な瞳をわたくしのほうへと向けるアベルの姿があって。
ぐるぐると思考は回り続ける。アベルのことを、考え続ける。アベルが、興味を持ってくれた。ただそれだけのことが無性にうれしくて、多幸感で胸がいっぱいになった。
あふれる思いが、少しだけわたくしの背中を押した。
とん、とアベルの胸に額を預ける。ただでさえ熱い顔がさらに熱を持って、そんな赤面を隠すように、わたくしはアベルの胸の中にいた。
どうした、と聞くこともなく、アベルは一度持ち上げた手を再び力なく下げてただじっとわたくしを受け止めていた。本当は、抱きしめてほしかったけれど。今は動かずにじっとしていてくれるだけで十分だった。
こすりつけるように、アベルの分厚い筋肉に包まれた体へと額を押し付ける。男の人の体。ほのかに香るのは汗のにおい。また鍛錬でもしていたのだろうか。
そこまで考えて、自分の変態じみた行為を認識して、わたくしは一気にアベルから距離をとった。その拍子に背後の壁に背中からぶつかり、軽く後頭部を打ってしまった。
「~~~ッ⁉」
「大丈夫か?」
「大丈夫よ、たいしたことないわ」
アベルが心配してくれることがうれしくて、わたくしは自然と笑みを浮かべていた。それに見ほれるように瞠目したアベルの顔がおかしくて、わたくしは声を上げて笑った。
アベルも、苦笑を浮かべながらも笑った。
わたくしたちの間にあった壁は気づけば消え去っていて、少しだけ二人の距離が近づいたような気がした。
「おやすみ、アベル」
「おやすみ、また明日」
また明日。そうだ。明日も、明後日も、その次も、わたくしはアベルと一緒にいることができる。一緒に、時間を積み重ねることができる。そうして少しずつ関係を変えていけばいいんだ。少しずつ、素直になっていければいい。
明日もアベルに会える――その安堵のせいか、あるいはアベルに素を見せたことへの緊張からか、わたくしはベッドに入るなり倒れるように意識を失った。




