34手にした平穏と、影と
隔日更新はもうしばらく続きます。
「なかなかいいじゃない」
ひょいと扉の先から顔をのぞかせて私とレイラの部屋を見回したマリアンヌは、訳知り顔で頷いてみせた。
「何?」
思わずきつい声が出てしまったのは仕方がないだろう。レイラと一緒になって頭を悩ませながら考えた苦労を考えもせず一言でまとめられては怒りもわくというものだった。
とはいえマリアンヌの高圧的なセリフは今に始まったことじゃない。少々怯えを見せてしまっているレイラに何でもないと告げながら頭を撫でればトロンと目じりを下げて笑み崩れる。
心臓が撃ち抜かれたように思った。すごく可愛かった。さすがは私の弟とアマーリエの子どもだと思う。そこには天使がいた。
「天使……」
「はぁ、親バカも大概にしておきなさいよ。あんまり甘やかすとろくなことにならないわよ」
「マリアンヌみたいに育つから?」
「そう、わたくしみたいに育つから……って違うわよ!何でも思うようにいくと誤解して育つって言いたかったのよ」
「でもマリアンヌだって大概、自分は何でもうまくやれると思っているタイプでしょ」
うぐ、と痛いところを突かれたというような顔でマリアンヌがうめく。今の攻防は私の勝利。最近レイラやキルハとの関係でからかわれることが多かったからたまにはやり込めておきたかったのだ。勝利したからといって何かがあるわけでもないのだけれど。
「さ、最近はそんなことはないわよ。……だってうまくいかないし」
恋愛だってうまくいかない――そんなことをぼそりとつぶやくマリアンヌは、心の声が漏れてしまっていたことに気づいたらしく、勢いよく顔を上げて私のことを鋭くにらんだ。
「ふふっ」
「何よ⁉キルハといい雰囲気だからって上から見下ろすのをやめてもらえる⁉」
「私はそうでもないよ。それより、マリアンヌは最近アベルといい雰囲気でしょ?」
屋敷に拠点を構えてから今日で一週間。最初の数日は女性陣で買い出しを進めて物をそろえ、購入した物を男性陣に運んでもらって設置し、そうしてつい昨日ようやく一段落ついたところで。それと同時にキルハは魔具の研究のために研究室へと引っ込んでしまい、もう一日近く会っていなかった。そんなわけで私とキルハの関係には特に進展がないけれど、マリアンヌとアベルは違う。シャクヤクという恋敵(?)の登場によって、アベルがマリアンヌのことを恋愛対象として意識している雰囲気があるのだ。
これまで遅々として進まなかった関係の進展に声を上げて喜んだのもつかの間、これがあのオカマのおかげなんて――と呪詛がこもったつぶやきを漏らしながら、マリアンヌは宙に幻視したシャクヤクをにらんでいた。
「……いい雰囲気、かしら?」
朱に染まった頬に手を当てながら、マリアンヌがうつむきがちに私を見つめる。その顔を見せれば堅物なきらいのあるアベルだって一撃だと思うのだが、弱いところを見せたくないと豪語するマリアンヌは私の提案を強く拒むのだ。
はあ、さっさと素直になってくっつけばいいのに。
「あんまりうかうかしていると本当にシャクヤクにアベルをとられるかもしれないよ?」
「そんなわけないじゃない⁉シャクヤクは男よ⁉アベルが男に目移りするなんて、そんな……」
「あべるはおとこのひとがすきな、おかしなおとこのひとなの?」
やや舌足らずなレイラがくいと袖を引いてそんなことを尋ねる。アベルは、おかしいのだろうか。変態という意味では多分おかしい。けれど、同性が好きというのはそれほどおかしいことではない気もする。だって、異性よりは同性の方がおかしな誤解が生じにくいし、以心伝心のような関係だって作りやすいと思うのだ。同性の気安さから発展して恋愛感情を持つならば、それほど違和感はない気がする。
もっともアベルの場合、シャクヤクを異性のように思っている節もあって、だからこそシャクヤクはマリアンヌにとって強く比較される強力なライバルになってしまっているのだ。
「おかしくは……ないかな。誰を思うかは人の自由だからね」
「わたしはあべる、すきだよ?」
「そっか。私にとっても大事な仲間だよ」
「ろくさなは、あべるのこときらい?」
「んー、好きか嫌いかで言ったら好きね。アベルの料理、おいしいでしょう?」
「うん、あべるのりょうりすき!」
ちょっと、と鋭い眼差しでにらんでくるマリアンヌの目じりに光るものを見て、私は降参を示すように両手をホールドした。ちょっとからかいすぎたかもしれない。私だって同じようにマリアンヌがキルハを狙っているように聞こえる言動をされれば不安になるだろう。
だから、からかうのはこれで終わり。最も、今の会話だってレイラの純真な疑問にまっすぐ向き合ったに過ぎないのだけれど。
いや、まっすぐというには、俗物的な言葉だっただろうか。おいしい料理を作れるからアベルが好きだというのは、レイラの教育によくない発言だったかもしれない。けれどそれ以上のことを言っていればマリアンヌは私を敵とみなして呪術を放ってくることすらあり得たかもしれない。
今のマリアンヌには、手負いの獣を思わせる威圧感があった。
涙を拭う指は白魚のよう。今日もしっかりと施された化粧からはマリアンヌの本気度がうかがえる。対して私は全く化粧っ気がない。というか、これまでの人生の中で化粧をした経験がない。ただの村人だった頃も女性としての身だしなみを教えてくれる母は早くに亡くなってしまっていて、弟を育てることに必死で恋愛に現を抜かしている余裕なんてなかったのだから。
そんな言い訳を心の中で並べている私を見つめたマリアンヌが、不思議そうに首をかしげる。
「……はぁ、もういいわよ。それで、ロクサナ。あんた最近死んでないわよね」
「は?……死んでないはずだけど」
いきなり何を言い出したのか、マリアンヌはあと少しでキスをしてしまいそうなほどに顔を近づけて、私の肌をつぶさに観察した。一体どうしたというのか。
「あんた、きれいになってる気がするわ」
「そう?ありがとう」
「お世辞じゃないのよ⁉だから、その、本当にきれいになっているのよ」
からかいの言葉のように受け止められたと思ったのか、あるいは恥ずかしさからか、マリアンヌは顔を真っ赤にしながら私の頬を指で突き刺さる。
わたしもわたしも、と言いながら袖を引っ張るレイラと顔の高さをそろえ、視線を合わせる。ぷすぷすと小さな指が私の頬に突き刺さる。少しだけ爪が痛かった。けれどそれ以上に幸せそうに笑うレイラの顔がまぶしくて、私は目を細めた。
「幸せだからかな?」
「何よ、嫌味?」
「ん?いいや、なんというか、こう、幸せだなって思ったのよ。レイラがいて、キルハが、いて、マリアンヌやアベルがいて、魔物という恐怖におびえることも、王国の騎士なんかの襲撃を予感することもなく、ただ平穏な日常があって。これだけ心に幸せが満ちていれば、体だってそれに呼応して変わっていくと思わない?」
「健全な精神は健全な肉体に宿るというけれど、その逆もしかりよね。確かに最近、楽しいわよ」
そう、私たちは楽しいのだ。あの地獄のような戦いの日々から抜け出して、ぬるま湯のような日々を享受していて。物足りなくなんてない、手に入らないとどこかであきらめていた平穏な生活が、私もマリアンヌも楽しくて、幸せだった。
幸せな「日常」が、そこにあった。血の匂いと死の気配ばかりだったあの世界から、私たちは脱出することができて。
「……どうしたの?」
「ううん、何でもないよ」
だから、どうしたというのだろうか。過去は過ぎ去った。辛い日々は終わりをつげ、幸せな、夢かと疑うほどの日々があって。
それでも、戦場につま先から頭のてっぺんまで浸りきっていた私たちは、たぶんいまだに戦場を忘れることができていない。いまだに、いつか再び戦いの世界に引きずり込まれるんじゃないかと心の奥でおびえていたりする。
多分、キルハやアベルは少し違う。アベルは、戦場のことをすべて消化したうえで今を謳歌しているように思う。キルハは戦場を決して忘れることはなく、次の戦場が人間同士の戦いにならないようにと、決意をもって魔具の作成に当たっている。
私とマリアンヌだけが、予兆も何もない戦いを思って空回りしているのだと思う。
「……ままならないわね」
「そう、だね」
勝手にベッドに倒れこんだマリアンヌを責める気にもなれず、楽しそうにそれに続くレイラを見ながら、私は椅子に腰を下ろした。
その手を、見下ろす。戦いの痕のほとんどない、のっぺりとした手。そこには、けれど確かに私が生きた跡があった。剣を握る者特有のマメに、小さな傷の跡。
私は確かに進んでいる。そして、もう焦ることなくゆっくりと進んでいけばいい。
いつかなんて、そんな幻想に心とらわれることなく、前を向いて自分のペースで生きていけばいい。
「ろくさな!」
「今行くよ」
私をせかすレイラの方へと、歩き出す。その小さな腕の中へと飛び込む。太陽のような温かさに満ちた、レイラの心臓の音を感じながら、私は静かに目を閉じた。
「そうよ!魔法の訓練をしましょうか!」
「くんれん?」
魔法の訓練――それは、魔女である以上必須と言っていい必要事項だった。魔女として力を隠していくには、魔法を十分に制御できる必要がある。魔法の発現は後天的な場合の多くが強く感情を揺さぶられた時だという。つまり、感情は魔法を暴発させてしまう可能性がある。レイラは幸運にも魔法を発現したタイミングで周囲に人がおらず、魔法を誰かに見られることはなかった。母親が――アマーリエが姿を消した心細さで心がいっぱいになったアマーリエの魔法は、再会のための魔法だった。さらに言えば、レイラが発現した降霊魔法は、その場で何の効果も及ぼさなかったのだという。そのおかげもあって魔女として覚醒してしまったことが知られなかったとはいえ、いつ魔法を暴発させて魔女だとばれてしまうかわからない以上、レイラの魔法訓練は急務と言えた。
だが、その訓練は私には行えない。それもそのはず、私はろくに魔法訓練を受けていない――というか受ける必要がなかったからだ。死をトリガーに魔法が勝手に発動する私は、魔法の制御なんてものは不可能で、そもそも膨大な魔力でなければ感じられないという魔力感知能力の乏しさもあって、他人に訓練を施すことさえできなかった。
そんなわけで、レイラの魔法訓練はマリアンヌが行うことになったのだった。
「レイラ、あんたは海以外で魔法によって誰かを見たことはあるのかしら?」
「んーん、ないよ」
「だとするとレイラの魔法は海でのみ死者と再会できるというものなのかしら」
「そんな魔法があり得るの?海でしか使えないなんて」
「さあ?海だけなんて例は知らないけれど、私が知る魔女の中には、真っ暗な閉鎖空間でしか魔法を使えない人はいるわよ。だから、場所が条件っていうのはあり得ると思うわ。それに、海だしね」
「……海だから、何か意味があるの?」
「ああ、これはあくまで信仰の一つなのだけれどね。生物はかつてそのすべてが海に住んでいたっていう考え方があるのよ。海に生きていた魚のような生き物が、長い時間の中で適応を繰り返してわたくしたちのような生物に進化したっていう、進化学っていう考え方があるのよ。ああ、わたくしは別に進化学信奉者ってわけじゃないわよ。第一、人間という種がどうやって生まれたかなんてわたくしにはどうでもいいことだもの。そんなことを考えるくらいなら、自分の人生について考えた方がよほど有意義だわ」
「人間が魚から成長した存在、ねぇ」
「成長じゃなくて進化よ。まあそのあたりのことはどうでもいいわ。大事なのは、進化学信奉者の中には海を『生命の母』と呼ぶものがいるということよ。すべての生物は海から生まれ、そして死して海へと帰っていく。死体やなんかがいずれ海に流れていくと思えば、海で降霊魔法が効果を発揮するというのは自然なのかもしれないわね」
「じゃあまたうみにいくの?」
進化とかそのあたりの単語は理解できていなかったようだけれど、大まかな話の流れは理解していたらしく、レイラは声音にわずかな期待をにじませながら聞いてきた。けれどマリアンヌが首を横に振ることで、その顔が絶望に曇り、目じりに涙がたまる。
「ちょ、ちょっと⁉泣くことないじゃない」
「大丈夫よ、レイラ。また必ずお父さんに会えるからね」
多分もう二度と父親に会えないといわれたように感じたのだろう――そんな私の予想は、大きくは外れていないようだった。
ん、と小さく返事をして、マリアンヌがごしごしと目を袖で拭う。ハンカチを使いなさいよ、とマリアンヌが取り出したシルクの布でレイラの目もとを拭う。――女子力の差がひどかった。私のポケットにはハンカチなんてものはなくて、手がつかんだのは止血用の布だけだった。
「海に行かなくとも、魔法自体が発動できるなら十分よ。大事なのは魔力の制御。イメージとか願いとかは後でいくらでも練習できるのよ。ただ、初めに魔力を操るコツをつかんでおかないと、変な癖がつくのよ。例えば痛みを感じないと魔法を発動できない、なんていう風にね」
「……あべる?」
私も一瞬アベルの顔を思い浮かべたけれど、マリアンヌは小さく鼻を鳴らして首を振って見せる。というか、レイラもすでにアベルが痛みを好む変態だと理解しているということだろうか。一体いつそんな風に学習してしまったのだろうか。レイラの教育のためにも、今すぐアベルの矯正が必要かもしれない――そんなの、できる気がしないけれど。
「違うわよ。私の知り合いの話よ。彼女は……まあひどい目にあって、そこで魔法を開花させてしまって、以来、痛みをトリガーにしないとうまく魔法を発動できないようになったのよ」
多分、拷問か何かを受けていたのだろう。知り合いに魔女がいて、その人と必要以上に親しかったとか、家族に魔女がいたとか、そんな理由で国に、あるいは街や村を構成する住人の「総意」によって捕らえられ、痛めつけられ、そこで魔法を手にした。そうして、痛みから逃れるために手にした魔法にもかかわらず、痛みがなければ魔法を発動できないようになってしまった。
それは、ひどく悲しいことだと思って。同時に、記憶の奥底から悲惨な光景が、声が、フラッシュバックした。
僕たちを救って、憎い、許せない、もう嫌だ、助けて、死にたい……無数の声が、泡沫のごとく浮かび上がってははじけて消えていく。
「どうしたのよ。真っ青よ?」
マリアンヌがポーチから鏡を出して私に突き付けてくる。ただの村人にとっては紛れもない供給品であることがわかる銀の美しい鏡の奥には、真っ白な顔をした私の姿があった。その顔は、何かにおびえるように視線を揺らしていた。
目の奥の陰に、何かが動いた気がした。まるで、私の中に亡霊たちの声が巣食ったようだった。
「なんでもないよ」
「……そう」
なんでもないなんてことはないと、わかっていて。それでもマリアンヌが踏み込んでくることはなかった。私たち元アヴァンギャルドのメンバーには触れられたくない過去がいくらでもある。それに触れずに付き合っていくのが、あの場所で協力して生き抜いていくために必要な人間関係だった。
だからマリアンヌは私の事情に踏み込まず、私もまたマリアンヌに必要以上に語らない。
けれど。
「何かあったらキルハにでも相談しなさいよ」
「わかってるよ」
それだけ言って、マリアンヌはレイラの手を取って庭の方へと向かった。私もまた、いまだに頭の奥で響き続ける声を怒鳴りつけるようにして追い払って、二人の後を追って歩き出した。




