29討伐を終えて
クラーケンの最後の攻撃。あれは周囲に呪いのこもった液体をばらまく攻撃だった。その呪術の発動を感知したマリアンヌによって呪術の効果をゆがめることで無事だった私たちだったけれど、全身をイカ墨で真っ黒にされたことに変わりはなくて。そうして私は、クラーケンの戦いに巻き込まれて魔物たちが姿を消した海で汚れを洗い落としていた。
「……で、どうするわけ?」
そう尋ねてくるマリアンヌの意識の先にいるのは、きらきらとした瞳でこちらを見つめる少女。衣服を着た二足歩行の狼という何とも言い難い姿をしていた彼女はどうやら呪術師らしく、そしておそらくは最後のマリアンヌの呪術を感知したためか、その技量に惚れ込んだ様子だった。いや、現実逃避はやめよう。たぶん彼女は、私たち四人に憧憬の念を向けている。肌に突き刺さる何とも言い難い熱が、そのことを如実に示していた。
「どうすると言われても……彼女も呪術師な以上、私たちのことを詮索することはないと思うけど?」
「本当にそう思うわけ?わたくしは、彼女がぽろっと話してしまうと思うわよ。だって、今にも誰かに語りたいって顔をしているもの」
「だったらマリアンヌが彼女を言い含めればいいと思うよ。だって、彼女の尊敬を一手に集めているのはマリアンヌみたいだからね」
あんな純真な感情のむしろになりたくないのよ――そう言いたげに顔をしかめたマリアンヌが、自分一人に面倒ごとを押し付けるような発言をしたキルハをキッと睨む。
「そういうあんたが対応しなさいよ。剣を振ってクラーケンをみじん切り。さぞ英雄的に映ったでしょうね」
「いや、ロクサナとの共闘あってのことだからね。それを言うならクラーケンから身を挺して守ってくれたアベルの言葉のほうが、効果があるんじゃないかな」
「……俺じゃないだろ。というかたぶん、痛みで恍惚としていたところを見られたぞ?」
無言。なるほど、それは確かにアベルが少女と話すのは微妙かもしれない。というか、下手をすれば相手の心が私たちから遠く離れてしまい、逆に私たちのことを言いふらされてしまう可能性があるように思えた。
「わたくしがやるわよ……はぁ」
無意識のうちにため息をこぼしながら、マリアンヌはハンター見習いと思しき少女のもとへと歩み寄り、彼女の説得にかかる。自分たちのことを言いふらさない代わりに、あなたの魔法についても秘密にする――と。
「やっぱりあなたも呪術師ですよね!」
けれどそんなマリアンヌの説得は、少女が告げた第一声によって中断されることになる。は、と口を開ききったままのマリアンヌが、視線をさまよわせ、背後の私たちの方へと振り返る。
何をどう考えれば今の取引の提案から私たちが――マリアンヌが呪術師だという発想になったのか、理解ができなかった。
そんな困惑した私たちの内心に気付いたのか、私たちの疑問の答えは少女自身の口から語られることになる。
「だって皆さん、わたしの魔法を見ても平然としてましたよね。まるで魔法に慣れ親しんでいるみたいに」
そういわれれば確かにその通りだった。私たちは魔法に造詣が深い。それこそ、こっそり――隠せているかどうかはともかく――魔法の研鑽に励んで師匠などもいないだろう目の前の少女に比べれば、私たちは多くの魔法を知っているし、実際に見てきている。アヴァンギャルドという犯罪者の掃き溜めには無罪の魔女もまた多く放り込まれるから。私たちはアヴァンギャルドに属していた多くの魔女たちの魔法を見て、魔法に親しみ、もはや魔法を未知の脅威と思うことはない。
人々が魔女を恐れるのは、彼ら彼女らが行使する魔法を知らないことにある。どのような現象を引き起こすのかを知らない以上、自分たちが持たない魔法という力を使っている魔女はもはや人類の枠組みから外れた化け物に見えるということだ。
一方私たちは魔法を知り、人によっては魔法を脅威と思わないほどには力をつけている。あるいはもはや魔法という奇跡を道具に落とし込むほどだ。だから、私たちは何のことはないとばかりに少女の魔法の行使を見ていた。けれど、そんなことは本来人間社会ではありえないのだと、私たちは今更になってその常識に気付いた。
気付いて、けれどどうすることもできなかった。私たちが魔法を脅威に思わない、魔法に親しみのある集団だということは少女にばれてしまっている。そして少女が呪術師であるということから、魔力によってマリアンヌの呪術の行使も感知できた可能性があるということに思い至って。
もはや私たちは言葉もなく互いに視線を向けた。
すなわち――この二人を口封じに殺すか、というもの。
ハンター見習いの少女の腕にしがみついている幼女が、怯えたように半分ほど出していた顔を少女の背中に隠した。
剣呑な雰囲気に気付いたのか、あの、と少女がおずおずと口を開きながら手を挙げた。
「あ、あのですね……その、わたし、皆さんのことを話したりしませんよ?」
「拷問を受けても情報を吐かないか?無理だろう?」
アベルの告げた「拷問」という単語に少女が顔を引きつらせる。多分、彼女は魔女という存在に対する世間の、国の在り方を甘く見ている。魔女には、人として生きる権利などないというのが今の国の方針だ。だから、魔女をとらえるというのは犯罪者を収容するどころか、魔物を実験体として捕らえることに等しい行為だった。つまり、なんでもあり。
私やマリアンヌは拷問を受けずにアヴァンギャルドに放り込まれた質だが、その理由は魔女として覚醒する瞬間を大勢に目撃されていたことにある、らしい。多くの魔女たちは人間社会の中で隠れ潜み、けれどある時魔女であるとばれてしまって国に捕らわれる。そういった人物は魔女同士のつながりがある可能性があるために、捕らえられてから拷問を受けるのだという。そうして捕らえられた魔女たちは、アヴァンギャルドにおいて他者に心開くことなく、他人の視線におびえるように隠れる者も多かった。
もし私たちが目の前の少女のことを魔女だと国に報告すれば、彼女は耐えがたき苦しみを受けることになる――その認識が、少女には全く存在しなかった。それは、魔女とは身を守るために隠れ潜むものという私たちの固定観念を崩すものだった。私たちがアヴァンギャルドに所属している間に、社会では魔女が受け入れられるように変わりつつある――というわけではないだろう。魔女への人々の恐怖は、そう簡単に拭い去れるものではない。
そんな警戒心の薄いハンター見習いの魔女だが、もちろん私たちは彼女のことを国に報告するつもりはない。私たちにそんな義務はないし、魔女を排斥する国の方針に賛同しているわけでもない。さらに言えば、お尋ね者でもある私たちは国に仕える者に接触するつもりはないのだから。そんな私たちの背景も見通しての警戒心の低さであればむしろ少女の洞察力に戦々恐々とするところだが、私たちがたどり着く前から平然と魔法を使っていた上に、幼女とはいえさらなる第三者に魔法を見せている時点でその警戒心の低さは明らかである。
まるで異次元の価値観を持つ相手に遭遇したような思いで、私は頭がクラクラした。
「ま、せいぜいに国に捕まらないように不用意に魔法を使わないことね。もし私たちのことを国にばらそうものなら、たとえ獄中にだって向かって殺してあげるわよ」
殺す――その単語を受けて今度こそ少女は顔を蒼白に染めて言葉を失った。パクパクと開閉を繰り返すその口からは、言葉にならない息が漏れる。震える少女を心配するように、その体に張り付いている幼女が少女の顔を覗き込もうとする。小さな、ぷっくりとした手できゅっと服を引っ張る。
どうしたの、と尋ねる少女の顔色が少しだけよくなる。それから、幼女の姿を目にとめてふっと儚く笑み崩れる。
わ、と幼女が顔をほころばせる。相当な信頼関係を築いているらしい二人を見ながら、私は小さく首を傾げる。それは、目の前の二人が元からの知り合いである可能性を考えてのこと。一人で海に行ってしまった子どもをハンター見習いが追いかけて行ってしまった――私はそれだけの情報しか受け取っていなくて。
「二人は知り合いなの?」
「え?違いますよ?」
二人が元からの知り合いで、だから少女は幼女を追って海まで来たのだろうという私の予測はあっさりと否定されることになる。
きょとんと首を傾げた少女が再び幼女と顔を見合わせ、ねー、と一緒に首を傾げる。さらりと、幼女の金髪が揺れる。太陽を透かすそれは、一度だけ見たハチミツのようなきれいな色をしていた。既視感が、私の心を揺らした。けれど、私の記憶の中に、思い当たる人物の姿はない。
平民とは思えない美しい幼女の姿を、もう一度、今度はしっかりと観察した。
金色の細くさらりとした髪、雪のように白い肌。赤さびのような赤茶の瞳がじっと私のことを見つめていた。
赤茶の、瞳――
「……ラスタ?」
その目鼻立ちに、その姿に、言いようのない懐かしさを感じた。これまで私の心にあった焦燥感が、心の中で形をとった。
緊張で全身が戦慄いていた。震える口は、言葉を形にすることさえできなくて。
そんな私のことを横目で不審そうに見ながら、マリアンヌが幼女をじっと見降ろしながらどうして海に来たのか尋ねた。
「うみにおとうさんとおかあさんがいるの」
「お父さんとお母さんが、魔物が住んでいる海に?」
「んー?おかあさんがいってたの。あいたくなったらうみにいくの」
会いたくなったら、海に行く――そのフレーズが、どうしてか私の心を強く震わせた。懐かしい歌が耳朶の奥で響いていた。誰の声かもわからない歌声に、気づけば私は涙を流していた。
悲恋の歌。このあたりに伝わる、海に消えた恋人を思う愛の歌。その歌を歌っているのは誰だったか――赤さび色の瞳が、私に伝えてくる。
「……アマーリエ」
びくりと、幼女の肩が跳ねた。私と幼女、そしてキルハだけがこの場でその名前を知っている。マリアンヌたちが聞き覚えのない名前を聞いて不思議そうに眼を瞬かせる中、幼女は恐る恐る私の方へと一歩を踏み出した。
キルハから突き刺さる視線を感じながら、私は腰をかがめる。間近で見た幼女の顔には、面影があった。弟と、心に満ちる思いの向かう先。記憶を失っても、私の体に宿る何かが、彼女の面影があることを主張する。
「おかあさんのことをしってるの?」
「多分、知っているわ。あなたのお母さんの名前は、アマーリエ、そしてお父さんの名前は……ラスタ」
アマーリエ。私の幼馴染。そして、私の弟であるラスタ。外見からして六歳かそこらである目の前の幼女は、二人の子どもである可能性があった。それは、私が縋る願望に過ぎないかもしれなかった。恋人を失ったアマーリエという女性が他の男性と夫婦になって子どもを授かった可能性の方がずっと高い。けれどさび色の瞳が、私に弟の子どもである可能性を突き付ける。
祈るように、縋るように、私は幼女の言葉を待った。
果たして、彼女は私の言葉を首肯して見せた。自分は、アマーリエとラスタの子どもだと、そう頷いた。
ぞわりと背中に何かが走り抜けた。それは、怖気とか寒気とか、そういった類のものではなかった。全身に熱が満ち、視界がチカチカと明滅した。私の、姪。弟の子どもが、目の前にいる。夢のように感じるそれが確かな現実であると確認するために頬を抓る。
「痛い」
「どうしたの?」
不思議そうに私の顔を見つめる幼女が、恐怖よりも心配が勝ってか、ハンター見習いの少女の服から手を放し、私の方へと近づいて来る。
その柔らかな手が、私に触れる。
つながっている。弟という存在は、確かに今に繋がっている。その足跡が、今目の前にある。
興奮のせいか、涙で視界がにじんだ。大丈夫、と尋ねるように、あるいは励ますように、幼女が私の手を握り、頬を伝った涙に触れる。
「ふぇ⁉」
強く、強く、彼女のことを抱きしめる。私の弟と、アマーリエという、私が忘れてしまった幼馴染の子ども。彼女は、確かに今、私の腕の中にあった。
困惑しながらも離してというように小さな手で私の頬をパチパチと叩いてきていた幼女は、けれど私がもらす嗚咽のせいか、やがて黙って抱かれるようになった。
どれくらいそうしていたか。この場で唯一私の状況を理解していたキルハに肩を叩かれて、私は我に返って幼女を手放した。
きょとんとした顔が可笑しくて、私は少しだけ笑った。




