28新米呪術師と魔物
「いやぁぁぁぁぁっ」
「静かに!」
探していた子どもは、予想通り海にたどり着いていた。その姿を見つけてほっとしたわたしだったけれど、その子はあろうことか怖がることもなく海へと頼りない足取りで進み始めた。
その姿をやや標高の高い場所から見ていたわたしは、慌ててその子のもとへと駆け出した。柔らかな草が足を取り、転んで、痛かったけれどさらに前に進んだ。
痛みよりも、目の前で子どもが死んでしまう恐怖の方が大きくて、わたしは必死で走った。やがて足元は草むらから岩肌へと変化して、ゴロゴロと石が転がる暗色の大地を、わたしは速度を殺すことなく走って。
そうして、鮮やかな黄色をした綿毛のようなものに手を伸ばそうとしている子どもを両手で抱え上げた。間一髪、パラライズボムと呼ばれる麻痺の胞子をばらまくイソギンチャクの魔物にその手が触れることはなく、黄色い胞子がわたしたちを襲うことはなかった。
突然抱き上げられたことに恐怖した子どもがわたしの腕の中で暴れ、泣き叫ぶ。必死にその両脇に入れた手で体をつかみながら、私はパラライズボムからそろりそろりと下がっていく。よく見れば周囲には岩と同化した魔物の姿があった。二枚貝の貝殻による強力なかみつきで獲物を捕まえて死ぬまで離さないというバイトクラムの集団が、その岩肌にはあちこちに張り付いていた。何者かが自分を踏む瞬間に貝殻を開いて捕食してくるだけの魔物だから気を付けていれば攻撃を受けることもないけれど、腕の中で暴れる子どもを抱えながらだとひどく大変なことだった。
そろりそろりと、あるいは子どもが体を揺さぶる動きに引っ張られながらもなんとかバイトクラムの密集地帯から切り抜けたと、そう思った瞬間。
カツン、とかかとが石の一つを蹴り、それは海の浸食でえぐれて低くなった部分へと転がり落ちていった。
その先には、銀色の金属球のようなもの。魔物――ソニックスネイルという巻貝の魔物。確か、身の危険を感じると人間には聞こえない、魔物を呼び寄せる大きな音を周囲にばらまくというその魔物へと、石が転がっていく。
どうかあたってくれるな――色褪せた遅い視界の中で、石の行き先をにらむ。祈りは、誰にも届かなかった。かちん、と銀色の殻に石が当たって。
顔をのぞかせた毒々しい紫の軟体生物が、金色の瞳をわたしたちの方へ向け、大きく体を震わせた。
音が響いた。魔物を呼ぶ音。
それは私たちの耳を震わせることはなく、けれどはるか遠くの魔物たちまで届く音。
心臓が早鐘を打つ。今すぐにこの場所から逃げないといけない――それなのに、腕の中にいる子どもは状況を理解していない。
腹が立った。喚き散らすこの子を殴りつけたい衝動にかられた。だって、こうしている今にも、音を聞きつけた凶悪な魔物たちがやってくるかもしれなかった。
そんなわたしの予想は、最悪の形で肯定されることになった。
ザバァンと勢いよく海水が跳ねる。水面を突き破って伸びたのは、白い巨塔。遠近感がおかしくなりそうだった。海水を吹き飛ばすようにして水面から伸びるそれは、海水とは違うてらてらとした輝きに包まれていた。日の光を反射するねじくれた塔には、獲物を捕らえるための吸盤が張り付いていた。
「……クラーケン⁉」
最近海が騒がしいという話は聞いていた。けれど、想定外だった。だってまさか、海の王者の一人と名高いクラーケンなんて魔物が、所詮は雑魚に過ぎない魔物の音響を聞いて襲い掛かってくるなんて誰が予想できるだろうか。
死――その予感が、わたしの中に広がっていく。体が、重かった。息が切れる。けれど、立ち止まれば死ぬ。
わたしは、腕の中の子どもを強く抱きしめて走り出した。
バイトクラムたちを踏む恐怖なんてへでもなかった。クラーケンという化け物を前に、わたしはそれ以外のすべてを思考から放り出して走った。
影が落ちる。クラーケンの触手が迫っているのだ。
駄目だ、このままだと死ぬ。叩きつけられた触手の下敷きになって、つぶされる。
触手の下から逃げるのは間に合わない。――他の方法は、ない。
「ッ、聴いて!魔に連なる獣よ!わたしの願いに応えて!」
言いつけを破る。生き残るために。
その願いを唱えると同時に、わたしの心臓がドクンと強く鼓動を刻んだ。全身が、きしむ。いまだになれないそれを感じながら、私は全能感に包まれていく。
「アオオオオォォォンッ」
咆哮。人とは違う声帯を震わせて、わたしは強く地面を踏みしめて、駆ける。
視界に映るすべてが、高速で背後へと流れていく。岩肌が草原に代わり、視界に光が戻る。背後から強風を感じる。クラーケンの触手が地面をうがったらしく、轟音がわたしの耳を揺さぶった。地面が揺れる。
激しい耳鳴りとともに、方向感覚が狂う。足の感覚だけを頼りに、わたしは子どもを抱きかかえながら地面を滑った。
「……おおかみさん?」
腕の中の幼女が、わたしを見上げて首をかしげる。彼女の目に映るのは、二足歩行の狼。茶色の毛皮に身を包んだ、わたしの姿だった。
ああ、見られてしまった。わたしの、魔法、獣化を――
「ッ⁉」
耳鳴りが収まりつつあるわたしの耳が、新たな攻撃を感知する。瀑布のような海水の音。そして、水面から白い巨体が顔を出した。
巨大なイカ。ぷっくりと膨れた丸っこい胴体には愛嬌も感じられるが、それがわたしには到底かなわない化け物であることが、毛皮の下の鳥肌で分かった。獣化呪術の弊害か、わたしは対峙する敵の強さを肌で感じてしまい、恐怖で足がすくんだ。自然界に身を置く獣の性が、わたしの動きを縛る。
動け、動けと足にこぶしを叩きつけながら心の中で叫ぶ。動くんだ。動かないと、死ぬ。
クラーケンが近づいてくる。ずりずりと巨体を引きずりながら、複数の腕をうごめかせて、蜘蛛のように大地をはい進む。
その行進によって岩が崩れ、轟音が響く。再び鼓膜をやられそうになり、わたしはぺたんと耳を閉じる。それはあるいは、敗北を認めた印だった。
獣化が、解ける。頭部から、人間のそれへと変わっていく。それでも、わたしの体は動きそうになかった。恐怖にとらわれた足は、もう立ち上がってくれそうになくて。
「……て、逃げて、早く!」
わたしの体は、動かない。動かないけれど、だからといってこのままやられているつもりもなかった。腕の中に抱く幼女を、震える手で地面に下ろす。せめて彼女だけでも生き延びてくれたなら、わたしがこの場で果てることにも意味を感じられる。わたしは、彼女を守るためにこの場所に来たのだから。
けれど、そんなわたしの思いに反して、幼女はきゅっとわたしの袖をつかむ。わたしを見上げる瞳は涙で潤み、つかまれた袖から震えが伝わってきた。
ああ、私の体がクラーケンの気迫に飲まれて動かないのだから、彼女の体が動くわけがない――そう、思って。
「や!おおかみさんといっしょにいるの!」
駄々をこねるように彼女は首を横に振った。駄目だ、逃げないと駄目だ。わたしは、勝てない。わたしは、動けない。でも、彼女は逃げてくれない。このままでは、二人とも死んでしまう――
ギリ、と歯を食いしばって。強く、強く足を殴りつける。
「動け、動いてよ!動くんだよ!」
心臓が強く鼓動を刻む。その嫌なリズムを無視して、わたしは悲鳴のように叫ぶ。心を、正義を燃やして奮い立たせる。震える足で立ち上がり、わたしは幼女を背にクラーケンに向き合った。
せめて一矢報いてやると、恐怖を武者震いだと言い聞かせながら。
願う。獣の力を。獣化呪術を。人の身から外れる力を。
心臓が軋む。連続の魔法に、体が悲鳴を上げるようだった。全能感は、なかった。けれどわたしは、ルーティンワークのように、あるいは己を鼓舞するように叫んだ。
「ガアアアアアアアアッ」
背後で、ぺたんとしりもちの音がした。本当は、逃げてくれればよかった。けれど、逃げられないのなら仕方がない。せめて、クラーケンを海へと引き戻すことができたら。
わたしは、そうして体勢を低くして、体当たりのごとくクラーケンへと突撃をしようとして。
「はあああああッ」
裂帛の声と共に、クラーケンの触手の一本が切り裂かれ、巨大なそれが落下して激しく地面を揺らした。
え、と驚きとともにその場所を見れば、飛び上がって剣をふるう一人の男の姿があった。空中にある彼の体に、怒り狂うクラーケンの触手が迫る。
危ない――その叫びは声にならず、けれど声にする必要もなかった。
男は、一人ではなかった。身動きが取れない落下状態にある彼を守るように、地上を疾走する影が一つ。長い茶髪を翻す女性が、迫る触手を剣の腹で殴りつけ、軌道をそらした。
男が地面に着地し、二人はまるで舞うように巧みな連携でクラーケンを翻弄していく。
そんな私の視界に、クラーケンの触手が迫る。ああ、二人の救援は間に合わない。わたしと、背後にいる幼女はこの一撃で死ぬ――そう、思って。
「後は任せておけ」
頼もしい声と共に、クラーケンの攻撃の軌道に一人の男が割り込んだ。わたしが知る誰よりも大きな、まるで魔物と勘違いしそうになる男。彼は、何一つ武器らしいものを持っていなかった。
私は、とっさに彼を守るべく手を伸ばす。けれど、もう間に合わなかった。
体勢を低くしてボールを受け止めるような格好になった男に、横に薙ぎ払われる触手の鞭が襲い掛かる。
あっけなく男が跳ね飛ばされ、次いでわたしと幼女もまたその鞭によって、吹き飛ぶ――そんな未来を予感して、わたしはぎゅっと目をつぶった。
「おおおおおおおおッ」
声が聞こえた。衝撃は、襲ってこない。代わりに、がりがりと地面を削る音が響いた。
恐る恐る目を開いた先には、クラーケンの触手を握りしめる男の姿があった。ありえない。巨体から繰り出される触手の攻撃を、たかが一人の人間が止められるわけがない。だとすれば、彼はやっぱり魔物なのだろうか。それとも――魔女?
隆起した筋肉によって腕に血管を浮かべた男は、地面を強く踏みしめ、ついにはクラーケンの触手を食い止め、そして。
「おらぁッ」
あろうことか、その触手を腕で抱きつぶして見せた。
青白い血が飛び散り、男の体を濡らす。微弱な毒であるはずのそれを全身に浴びて、男はどこか恍惚としているように見えた。
思わず目をこする。ふいと顔をそらした男の表情が視界から消える。今の顔は、わたしの見間違いだろうか。
「まったく、どうしてそうも飛び込んでいくのよ」
そんなことをぼやく声がわたしの背後から聞こえた。ぎょっと振り向く。そこには、妖艶な美女がいた。美魔女という言葉を思い出した。美しさで国を傾けてしまうような妖艶な女性のことだ――そんな声を思い出した。
「この子は大丈夫そうね。そっちの……ええと、ウルフウォーリアー?も、元気そうね?」
はたと気づく。幼女どころか、わたしたちを救ってくれた四人にも、姿を見られてしまった。切り刻まれていくクラーケンの怒りを感じながらも、わたしは別種の焦燥感でいっぱいだった。どうしよう、このまま逃げれば、ひょっとしたらはぐれの魔物として情報が伝わるだけで済むかもしれない。けれど今ここで逃げることができるかといえば、そうは思えなかった。体はまだクラーケンの恐怖が抜けきっていなくて、それどこか、目の前の二人に、そしてクラーケンを圧倒する二人にも、クラーケン以上の恐怖を感じた。圧倒的格上と相対した際の恐怖。
逃げられないと思った。今逃げようとすれば、即座に殺されると思った。
だからわたしは苦渋の決断をした。すなわち、獣化の魔法を解除して、わたしの素顔をさらすことだ。
魔法を解いて。
「あら?」
そんなどこか気の抜ける声を聴いて、私は腰から力が抜けて地面に座り込んだ。たぶん大丈夫だと、根拠もない直感がわたしの体を包み込んだ。いや、根拠はあった。わたしの変化を見て、一切の困惑や忌避感を示さなかったこと。あるいは、わたしの今の変化を見て即座に魔法だと見抜く理性的な瞳と、その事実に対して嫌悪しなかった事実。
それは、呪術師であるわたしを国に突き出さない証拠のように思えて、わたしはまだ強敵が目の前にいるにもかかわらず、思わず安堵から座り込んでしまったというわけだった。
「なるほど、魔女……いえ、呪術師ねぇ?」
何か、わたしには理解できないことを考えている様子で、美しい女性は顎に手を当てて思考にふけっていた。けれどそれと同時に、カチカチというクラーケンの怒りの音と、広がる魔力反応に気づいてか、女の人はわたしから視線を外してクラーケンへと目を向けた。
魔力を感知できているようなその姿は、彼女もまたわたしと同じ呪術師であることを予感させた。この人たちは、迫害されながらも人知れず人類を守るために活動をしているというはぐれの魔女たちの一団なのだろうか?たぶん、そうだ。だって、クラーケンを圧倒できるような人たちを、わたしは知らないし、近くにそんなハンターはいないはずだったから。でも、四人が魔法を使っている様子はない。
「……嫌な感じね」
「まあよくて自爆だろうな」
まったく――そんなつぶやきと共に、妖艶な女性が口の中で何かをつぶやいた。吹きすさぶ海風にかき消されたそれは、けれど呪術を告げる言葉だったように思う。それと同時に、女の体から魔力が噴出した。
呪術師の、呪術。あふれた魔力はわたしとは比べるべくもない膨大なもので。その奔流が、もはや胴体だけとなったクラーケンへと襲い掛かる。
ボン、と勢いよくクラーケンの体が膨張する。それが女性の呪術であるか、それともクラーケンの攻撃であるか、わたしには予想がつかなくて。
次の瞬間、爆発物のように膨れ上がったクラーケンの体が破裂した。白い体の奥からは、その純白を塗りつぶすようなどす黒い液体が噴出して、周囲へと飛び散った。それは当然、雨のように広がってわたしたちのほうにまでたどり着いて。
「ああもう、臭いわね⁉」
そんな女性の悲鳴を、私はイカ墨のようなどろりとした液体を浴びながら呆然と聞いていた。
破裂し、残骸と化したクラーケンは死んだ。ただの一人の被害も、大きなケガもなく、現れた四人の男女はわたしたちを凶悪な魔物から救ってくれた。
わたしの心臓が跳ねた。心に広がるは、強い憧れ。この人たちになりたい――わたしは、強くそう思った。
弱きを助け、魔物を倒す正義のヒーロー。わたしが目指す理想の姿が、そこにあった。




