27海と魔物
ざざあ、ざざあと、まるで強風に揺れる枝葉が奏でるさざめきのような音が遠くから聞こえ始めていた。梢が鳴らす音とは違って、その音はひどく連続的な音で、まるで私の心に浸透するように響いていた。同時に、空気に塩っぽいにおいが混ざり始めていた。海の水は塩水であるという話を思い出した。池に比べてとても大きく、海には果てがないのだという。池といっても私が知るものは村の農業用のため池だけで、それは家が二軒ほど建てられる面積しかない狭いものだ。だから、やや小高くなっている丘の頂点に上ったその先、視界一面に広がる輝く水の世界を見て、私は言葉も出なかった。
太陽光をキラキラと反射する、輝きの世界。青空を吸い込んだような深い青色をしたそこは、風に揺れる麦穂が揺れて見せる黄金の輝きに似た流れを持っていた。風が、吹いているのだと思う。丘に登り切った私は、そんな海の向こうから吹いてくる風を受けて舞い上がった髪を抑えた。
美しい景色だった。満点の星空にも劣らない、美の世界。けれど惜しむらくは、その場所は決して安全なところではないということ。魔物が潜む海の中は、人類の生存圏ではない。空と違って手が届く場所にある海という存在は、私たちの前に広がる魅惑の世界であり、決して足を踏み入れてはならない場所なのだ。
馬車はゆっくりと丘を下っていく。柔らかな草を踏みしめて、背後に轍を残しながら馬車は進む。世界に足跡を刻み付けるように。
なんとなく背後に残る二本のラインを見続けていた私は、はっと我に返って海のほうを見まわした。視界の先、草が途切れた向こうには明るい茶色の大地が広がっていた。多分、砂地。視線をさまよわせても、そこには捜索対象である子どもの姿はなかった。
「……いないね」
「ああ、いないな。人影も、魔物の影も何もなさそうだね」
魔物の襲撃の可能性を考えてか、まだわずかに木々が散見される場所で馬車を止めたアベルが、素早く馬の世話をする。その背を守るように周囲を見回すも、やっぱり動く存在の姿はなかった。
私たちがこの場に急行した理由である子どもとハンター見習いの姿も、魔物の姿も動物の姿も、そこには何一つ見えなかった。
「……視界が開けているのはありがたいけれど、広すぎるわね。一体どれだけ続いているのよ」
果てなき海と、その横に広がる砂地のラインは、途中で岩肌に代わりながらもはるか遠くまで途切れることなく続いていた。そのどこかに、捜し人はいるはずで。けれどその途方もない捜索範囲を見ては、そもそも本当に捜索対象である二人は海にたどり着いているのだろうかと疑問に思った。昔、友人の後を追って海に向かった私の弟は、海を見ることなく迷子になって村へと引き返すことになった。その時と同じく子どももハンター見習いも海にたどり着いていない可能性も十分にあった。年齢を聞いていないとは言え「子ども」と表現されるような人物が、馬車で二時間ほどかかる道のりを一人で歩いて来ることができるとは到底思えなかったというのもある。
無駄足に終わるかもしれない――それは安堵でもあった。
私は軽く頬を張り、気を引き締めてキルハたちを見回す。すでに三人は戦闘モードへと意識を切り替えており、ひりつくような空気をまとっていた。
戦場の、空気だった。戦いを思い出した体がひとりでに熱を帯びはじめる。心臓は鼓動を早くし、思考は冴え、高揚感が全身に満ちた。
いつの間にか、私の体は戦いを当たり前に思っていたのかもしれない。あっさりとアヴァンギャルドにいた当時のことを体は思い出し、再現するに至っていた。
「魔物の危険性がわからない以上、全員で一緒に行動するしかないでしょうね」
「じゃあ前衛は僕、殿をアベル。間にマリアンヌとロクサナで行こうか」
そうして、私たちはキルハを先頭に海の横に広がる草原を走り始めた。
海の魔物は、海から出ない――なんてことはありえない。キルハから伝え聞いた情報によると、海と、その前に広がる砂浜はもはや魔物の領域なのだという。
つまり私たちはすぐ真横が魔物の領域である場所を走っているということで。
「右から三体!」
だから、砂の下に隠れていた魔物たちの襲撃は予想されたことだった。
現れた魔物は、まるで石のような殻を背負ったヤドカリ。名前は確か、サンドシェル。口から吐き出す分泌物によって砂を溶かし固めて盾であり住処となる殻を作り出す魔物。攻撃手段は砂を操る魔法と、口から吐き出す強酸の分泌液。
殻から顔をのぞかせた赤色の甲殻類。頭部から伸びた二本の角のようなものの先に、ぎょろりとうごめく漆黒の目玉の存在があった。それも、一本につき四つほど。無秩序に動く瞳の集合体は、その姿をさすがは魔物というべき異形に見せていた。
砂から顔を出したサンドシェルたちは三体。それらは一体が酸の液をこちらに向かって吐き、残り二体が両手の鋏を地面に打ち付けるような動きをする。
強酸の唾液を回避、散開した私たちはマリアンヌを守るように円を組み、キルハが様子見としてサンドシェルに向かって石を投げ飛ばす。
強肩によって放たれた石は当たり所が悪ければ一撃で人を絶命させうる速度でサンドシェルに進み、けれどあと数メートルで彼らにあたると思ったところで、地面から縦に伸びた砂の壁に阻まれて勢いを殺された。
とはいえキルハの膂力で放たれた石はその砂の壁を貫通し、速度の低下とともに軌道を下方へとずらしながらサンドシェルの少し前の地面に着弾、サンドシェルたちに盛大に砂を浴びせた。
砂煙の先、ギチギチと鋏を鳴らす威嚇音らしきものが聞こえる。
私とキルハは魔物たちをしとめるべく、少し砂煙が落ち着いた砂浜へと一歩を踏み出して。
ズボ、と一瞬にして足がひざ下まで埋まった。キルハの方は特に問題はなく、前へと進めている。それから、足を這うように砂の鞭が登ってきた。
未だ土の大地に残っていた足で地面を強く踏み、砂に飲まれた足を全力で引っ張り出す。太ももあたりまで登ってきていた砂は、それと当時に動きを停止させ、ただの砂となって重力に従って地面に落ちていった。
「地面と離れれば砂の制御なし!」
「了解!」
砂の上を駆け抜けてサンドシェルたちのもとまでたどり着いていたアベルが剣を振り上げ、サンドシェルの体を上方へと吹き飛ばす。
一体、二体。舞い上がった個体に、マリアンヌの呪術が迫る。あらゆるものを燃やすような強烈な火力がサンドシェルを包み込み、その肉体を炭化させる。
煙を吹き出しながら落ちる魔物たちは、もう息をしていない。
残る一体に向けてキルハが剣を振ろうとした、その時。サンドシェルが片方の腕についた鋏でもう一方の腕を切り落として見せた。
代償行為による強力な魔法の発動。事前に知っていたとはいえ敵がたやすくその技を使って見せたことで、私の中に焦りがにじむ。魔物に接近しすぎているキルハが無事にその攻撃を切り抜けられる可能性は低くて。
無数の砂が小さな玉となり、私たちの方へと襲い掛かる。それは、おそらくは一粒一粒が私たち人間の体をたやすく貫通するほどの攻撃だった。
けれど、その攻撃によってハチの巣状態にされるはずだったキルハは、上段に振り上げた剣を、回避も防御も考えていない動きで、全力で振り下ろした。
宙を切り裂いた剣は、その切っ先を最後の一体のサンドシェルに届けることはなく。けれど振りぬかれた剣からほとばしった衝撃波が迫る砂の弾丸ごとサンドシェルの体をずたずたに切り裂いた。
飛び散った砂の塊の一つがキルハの頬を浅く切り裂き、血がにじむ。それと同時に、衝撃波が海の方へと砂を吹き飛ばし、立ち込めた砂塵が風に吹かれて散っていく。
「……はい?」
おかしなものを見たと言いたげなマリアンヌの声が背後から響いた。剣を振りぬくだけで衝撃波をばらまき、敵を吹き飛ばす。そんな異様な手段を使ったキルハはといえば、その刃を軽く眺めて、満足そうにうなずいていた。
いろいろと、聞きたいことはあった。けれど、状況がそれを許さなかった。
キルハが放った強烈な一撃。それは海まで続く広い範囲の砂浜に衝撃波をばらまくもので。そして、振動によって敵の接近を感知するというサンドシェルたちが、その衝撃によって一斉に砂の中から顔をのぞかせた。
広がる砂浜に、体長三十センチほどの石を背負った甲殻類が概算で五十は超える数。さらには、その中に体長一メートルほどの大きな青い甲殻類の姿が見えたような気がした。おそらくは、サンドシェルの親玉だというアイアンシェル。より広範囲、大量の砂を操り、その殻は鉄のように硬く頑丈であるという。
頬がひきつったような感覚があった。
「やってられるか、引くぞ!」
アベルの言葉に従って、全力でキルハが後退する。それと同時にサンドシェルたちが一斉に攻撃を開始した。
放たれた無数の強酸の塊はマリアンヌが呪術で吹き飛ばす。鞭のように伸びる砂の触手は、ぎりぎりのところで回避。
直径一メートルほどの圧縮された砂の雨の中を全力で躱しながら、私たちはサンドシェルの大群からひたすらに逃げた。
幸いサンドシェルは足の遅い魔物で、その魔法範囲から出てしまえばもう襲ってくることはなかった。
特に呼吸が荒くなってはいなかったけれど、私は気疲れからひざに手を当てて地面をにらんだ。
「……何よあれ」
ぽつりとつぶやいたマリアンヌの言葉は、サンドシェルたちの戦闘能力と数に対してか、あるいはキルハの攻撃に対してか。
顔を上げれば、前衛として砂地に向かった私とキルハ、そしてマリアンヌを守るように立っていたアベルの三人の服装はひどく砂っぽくなってしまっていた。口の中のじゃりじゃりとしたものをつばと一緒に吐き出しながら、私は袖で軽く顔を拭いた。
「サンドシェルは回避一択よね。わざわざ戦うだけ時間の無駄だと思うわ」
「そりゃあそうよ。足が遅くて自分に有利な領域から移動しない魔物なんて放っておけばいいのよ。とはいえあの魔法の威力は想定外よ」
マリアンヌと顔を見合わせてため息をついてから、私たちはシンクロしたような動きでキルハへと視線を向けた。
その視線が語るところはもはや言葉にするまでもなく、キルハは鞘に納めていた剣を再び抜き放ち、陽光にさらしながら口を開いた。
「二人の予想通り、改良した魔具だよ」
「改良?」
「ああ。この剣、王国の騎士が使っていたものを鹵獲したんだよ。切れ味上昇の効果がある魔具らしくてね、それはもうスパスパとものが切れる代物だったんだよ」
「ちょっと、そんなの初めて聞いたんだけれど⁉」
「言い忘れていたのは謝るよ。とはいえマリアンヌたちの方は魔具を使用する敵はいたでしょ?」
「わたくしたちの方はおかしな呪術師を相手にしていたからいなかったわよ」
アヴァンギャルドという立場から生きて逃れるための王国との戦い。そこで敵が魔具の剣を使っていたという話を初めて聞いた私は開いた口がふさがらなかった。敵戦力の情報共有が十分でなかったという意味で激昂するマリアンヌの思いも分かったが、私が口だしするよりも前に、ディアンの裏切りなどで動揺していて話すのを忘れていたと告げられればそれ以上は何も言えなかった。
「……はぁ。まあ今話を聞けただけよしとしてあげるわよ。で、その魔具を改悪して衝撃波をまき散らす剣を作ったってことね?」
「改悪ではなく改良……あるいは改造だよ。剣のグリップ部分に作ったスイッチを入れることで、追加で刻んだ回路によって魔法効果を発現させることを可能にしたんだよ。剣の軌道に合わせて前方へと衝撃波を飛ばせるんだ。まあ、当初の予定では斬撃のような形で攻撃を遠くまで飛ばす仕様だったけれど、敵の範囲攻撃を防ぐという意味ではこっちの方が有効だね」
目をキラキラと輝かせながら剣に刻んだ模様についての説明を始めるキルハは、私たちの生温かい視線に気づいたからか、少しだけ頬を紅潮させて剣を再び鞘にしまった。
「で、あのサンドシェルだったかしら。あれとの戦いで海近辺に生息する魔物の強さが多少分かったわけだけれど、どうするわけ?」
私の方を向いてそう聞いてくるマリアンヌの言葉の意味が分からなくて、私は首をかしげるしかなかった。
「だから、このままお騒がせな子どもを探すのかってことよ。海にたどり着いているなら、たぶんもう手遅れだと思うわよ?」
その可能性が頭によぎらなかったわけではない。
海の魔物は、生息場所にかかわらず凶悪の一言だった。砂を自在に操るサンドシェルは、このあたりにおいては比較的危険度の低い魔物だ。足が遅く、攻撃方法は砂と強酸のみ。砂の方は砂浜に踏み込んだ敵を確実にとらえて捕まえる方向にシフトしているが、動きを止めるような大掛かりな攻撃は周辺の砂を大きく動かしてしまうために狭い範囲で複数発動することは困難。だから片方の鋏を切り落として発動する代償付きの魔法による範囲攻撃以外は、複数人で戦えば実はそれほど危険はない。さらに言えば、先ほどの戦いはマリアンヌが遠くから呪術を放てば一撃で仕留められる程度の攻撃でしかなかったのだから。
けれど、サンドシェルたちの統率個体であるアイアンシェルが降らせた砂の塊の雨は、その一撃一撃が私たちをたやすくつぶしうる化け物めいた魔法だった。そんな魔法をあっさりと放てる存在がいるというだけで、海という場所の危険度がわかろうというものだった。
けれど、だからと言って諦める気にはなれなくて。
そして、反対されることを前提に、それでももう少し子どもたちを探そうと提案しようとした、その時。
ぞわりと、産毛が逆立った。不吉な風が吹き抜けていったような気がした。
「ッ⁉」
大きな水音が響いた。まるで、滝のように大量の水が水面を叩く音。視線を向けた先では、白く長い何かがうねりながら海面から飛び出して空へと伸びているところだった。
「クラーケン!」
その白い触手の二本目が海中からのぞいたところで、私たちは誰からともなくその魔物の正体を叫んでいた。
白い触手が、三本、四本と天に向かって伸び、それが海岸へと勢い良く伸ばされる。ごつごつとした黒色の岩が連なる場所へと、触手がたたきつけられる。
盛大な破壊音が響き、砂煙が高く立ち上る。そして、そんな触手から逃げるように、海岸から離れる小さな影が見えた気がした。
「…………人?」
確認をとるようにアベルの方を向けば、眉間にしわを寄せながらぎりぎりまで目を細くしていたアベルが、少し自信なさげにうなずいた。この四人の中で最も視力のいいアベルとはいえ、さすがにはるか遠くの岩肌を走る影の正体を見極められはしなかった。
けれど、それが二足歩行の存在であるならば、私たちの探している相手である可能性は十分にあって。
「行くわよ!」
返事を聞かずに走り出した私の後を追う足音とため息を聞きながら、砂浜へと姿を現したクラーケンをにらんで私はさらに体重を前に傾けて、滑るように地面を走った。




