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白百合の涙  作者: 雨足怜
放浪編

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25/96

25稽古

「さっきは本当に悪かった」

「……もう結構だよ」


 お前も頭を下げろ、と鷲掴みにした女性の頭を下げさせた支部長は、キルハの言葉を待って顔を上げた。私の気のせいだろうか、キルハがやけにピリピリしている気がする。まるでアヴァンギャルドにいた当時魔物に向けていた殺気が、支部長に向かって放たれている気がした。

 怒りや憎悪、殺意などとひっくるめて相手に叩きつける気当てという技術を、私は使えない。その力を高い技量で操ってみせるキルハはまるで針に糸を通すがごとく相手に一部分に向かって殺気を飛ばすことが可能で。なかなか末恐ろしい対人戦闘の才能を持っているっすよ――そんなディアンの言葉を思い出した。なんでも、熟練の戦士は敵が放つ殺意が自分のどこに向いているかを感じ取って、次の動作につなげるらしい。私の知らない世界の技を使うキルハの殺意は、私に感じ取れることはなくて。

 けれど抜き身の刃のように研ぎ澄まされた集中力だけは私にも感じることができた。

 もしかして、キルハは支部長に相当怒っているのだろうか。でも、なぜ?部下である女性の教育がなっていないから。でもそれだけでここまで怒るだろうか。


「それで、資料は見せてもらえるんだよね」

「ああ、そのために場所を変えたわけだしな」


 嵐が訪れたようにめちゃくちゃになってしまった支部長室から移動した現在地は、資料室。この支部が有するすべての魔物情報に関するデータが集まっているというだけあって、そこには無数の本棚が並び、そこにきれいにファイリングされた書類がずらりと整列していた。

 これすべてが魔物資料だというのならば、いったいこれからどれだけ本を読むことになるのだろうか。そう考えたらめまいがしてきた。

 残念ながら、私はあまり文字が読めない。というか、アヴァンギャルドに入るまでは文字なんて全く読めなかった。それもそのはず、普通に村人として暮らしている中では、文字に触れる機会なんてないのだから。村で文字を読み書きできる者は村長とその跡取り、村の財源を管理する担当者やその執務に関わるものくらいだったと思う。

 これが街になると、それなりの規模の商店が商品に値札をつけるようになるため、多くの市民が数字を覚えることになる。ちなみに、村にあった商店は私が知る限り何歳か全くわからない白髪のおじいさんが営む店が一軒あっただけで、そこでは商品を見せに行くと「これがいくらで」と店主が教えてくれるシステムになっていた。もちろん、計算もその老人がこなしていて、私はアヴァンギャルドに入るまでせいぜい両手の指を使っての足し算引き算くらいしかできなかった。

 そんな私もアヴァンギャルドに入ってから面倒見のいい先達によって厳しく指導を受けて、少なくとも子どもの読み聞かせ用の絵本をすらすら読めるようになり、計算も掛け算と簡単な割り算が多少できるようになった。ちなみに、その先達の一人がキルハだったりするが、それはともかく。


 無数の本から漂ってくるインクのにおいに私がくらくらしていると、大丈夫だよ、と言いたげにキルハが私の頭をポンポンと軽く撫でた。それだけで精神の疲れは吹き飛んでしまって、今ならいくらでも書類と格闘できる気がした。ああ、今すぐ体を動かしたい。実は最近自分でもわかるほど体がなまってきていた。


 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら女性が運んできたのは、私の掌の縦方向の長さほどに積みあがった書類だった。


「ここは僕が受け持つよ。ロクサナは……そうだね、支部長に稽古でもつけてもらったらどうかな?」

「支部長に、稽古?」


 大丈夫なのかと私が支部長のほうを向けば、彼はいやいやと言うように首を勢いよく横に振っていて。けれどその顔が、次の瞬間には恐怖に染まって、動きが止まる。

 ごくりと、彼の喉仏が大きく動いた。


「よ、よーし、いいぞ!最近デスクワークばかりだったしな!」

「ちょ、支部長⁉山ほど書類がたまっているって私のところにまで苦情が来ているんですよ⁉早く仕事を片してくださいよ、というか私は支部長の秘書でも何でもないんですけど、どうしてみんな私に文句を言いに来るんですか⁉」


 ぎゃあぎゃあと吠える女性から逃れるべく、支部長は颯爽と立ち上がって私を手招きした。

 そうして私たちは女性のもとから逃走し、ハンター協会の地下に併設されている訓練場へと移動した。

 土肌がむき出しになったごつごつとした床が広がるそこは、壁に立てかけられた松明の揺れる炎に照らされて不気味な空間となっていた。火が揺れるということは、換気は十分に行われているということ。地面があえて整地されていないのは、森や荒原などでの実践に対応させてのことだと思う。

 そんな場所には、私たち以外誰も人影はなく、私は早速とばかりに訓練用として刃のつぶしてある剣を取った支部長と向かい合うことになった。互いの得物は長さも重さも同じ片手剣。細身の剣を相手に突き付けて、私たちはにらみ合う。


「いつでもいいぞ?」


 ひょいと手招きされたので、私は全力で一歩を踏み出して支部長の懐へと駆け込んだ。見開かれた眼は、確かに私の動きを追っていた。荒くれものたちをまとめ上げる支部長についているだけあって、この程度の加速で私の姿を見失うことはなかった。


「おっも⁉」


 腹に響くような音とともに、互いの剣がぶつかり合う。一撃で倒すつもりで振るった剣は、支部長の剣によって止められていた。押し込もうとするも、生来の肉体差と男女の筋力差はいかんともしがたく、互いの剣は膠着状況へと陥った。

 目の前には、相変わらず驚愕に目を見開く支部長の姿があった。スキンヘッドが炎の揺らめきによって輝く。

 ほどよく力が抜けた。支部長の剣を巻き込むようにして握る得物を動かし、その体勢を崩しにかかる。


「どっせいッ」


 踏み込み、体がつんのめるのを避けた支部長が体を後方へとそらす。剣を手の中で反転させて柄尻で顎を打ち抜こうとしていた私の攻撃が空を切る。


「あっぶねぇ⁉」


 回避に成功して気が緩んだらしい支部長に向かって、再び順手に持ち替えた剣を振り下ろす。その剣は、やっぱり彼の肩に届くことはなく途中で止められてしまう。

 どうでもいいけれど、余計な声を発するのは癖なのだろうか。明らかにそのせいで支部長の動きが悪くなっている気がした。あるいは、この程度の集中で相手をできると判断しているということだろうか。つまり、舐められている?

 片手で突き、逸らされる。素早く振りぬかれた剣をしゃがんで回避、顎めがけてハイキックは半歩下がって躱される。

 剣が迫る。鍔で受け、競り合う。


「容赦なさすぎねぇか⁉」

「訓練だったらもっと厳しいものでしょ?」

「こんな攻撃一つ一つに死を感じる訓練があってたまるか⁉」


 魂から叫ぶ支部長の腕に力がこもる。血管が浮き出て、顔を真っ赤にしながら振るわれた剣が私の体を吹き飛ばす――否、その勢いに逆らうことなく背後に飛んだことで一度距離を置いた。

 私にとっては――アヴァンギャルドの構成員にとっては、死を感じない訓練など訓練ではない。実践において最も重要なのは、いかに恐怖で動きを固くしないかというものだ。どれだけ訓練でいい動きができていようとも、実戦で体がこわばって満足に動けないのでは意味がない。だからこそ、私たちは実戦で訓練とほぼ同じ動きができるように、訓練においても死を感じるほどの激しい戦いをこなす。そうでなければ、たやすく死んでしまうから。

 この価値観は、あくまでもアヴァンギャルドにおいて通用するものだとはわかっている。それにこれはただの稽古。訓練とは少し違うような気もする。

 だからと言ってせっかくなまっていた体を動かす機会を手にしたのだから、自分の全力を受けとめてもらおうと思う。


 そうして私たちは、支部長の一方的な叫びを聞きながら戦闘を続けた。

 気づけばキルハが地下の訓練場に来ていた。もうあれだけの書類を読み終えたのだろうか。

 キルハとともに地下に降りてきた受付の女性が、ポカンと口を開いてキルハの横に立ち尽くす。それからしばらくして、彼女は「そろそろ終わりにしてください」と支部長に叫んだ。


 どさりと支部長が床に座り込む。そのまま座るどころか地面に大の字に寝転がって、彼は荒い呼吸を繰り返した。私もまた、額ににじんだ汗を袖で拭った。少しだけ息が荒くなっていた。体力の低下が深刻で、それが分かっただけでもハンター協会に来た意味は十分にあったと思えた。


「なるほど、だいぶ勘が鈍ってるみたいだね」

「うん。最近あまり戦っていなかったから、もうだいぶ腕が重いかな」

「いや、まだ平然としてるだろ。ったく、これでも俺は元超人クラスの上位なんだがなぁ」

「超人クラスの、上位?」


 私の疑問を受けてしばらく思考停止に陥っていたらしい支部長は、やがて私たちがハンターではないことを思い出して、クラスの説明をしてくれた。曰く、ハンターのランクは一般人、戦士、超人、英雄、覇者という順番になっているが、比較的人数が多く力量に幅のある戦士と超人のランクについてはそれぞれの中に下位、中位、上位の三段階が設定されているのだという。つまり、先ほどまで私と戦っていた支部長は、英雄ランクあと一歩という人物だったということで。


「いや、オレは英雄ランクに手が届かないと思ったからあきらめたんだよ」

「ああ、超人と英雄の壁はすごく厚いって話だったね。確か、超人千人に一人ほどの割合でしか英雄ランクには至らないんだったかな?」

「ああ。俺と真っ向から戦って負けない時点で、すでにお前は超人ランク相当だな。あと数年もすれば英雄たちと肩を並べて戦えるんじゃないか?」


 というかこんな原石がこれまでどこにいたんだよ――天井を見ながらぼやく支部長を見て、私は困り果ててキルハを見た。すなわち、私の戦闘能力の情報が支部長経由で広まってしまわないかということだった。一応お尋ね者の立場である以上、情報が無駄に広がることは避けたいところだった。

 私の視線を受けて、キルハは支部長のもとまで歩み寄って何かをこそこそと話し始めた。多分、脅しでもしているのだろう。意外とその手の話術が巧みなキルハは、口汚い言葉を話しているところを私に見せたがらない傾向にあった。まあ、好きな相手にそんな姿を見られるのは嫌だろう。私がすごく愛されているという証拠だから、キルハが何を話しているのかわからなくても気にはならない。

 いや、嘘だ。本当はすごく気になるし、どんなキルハだって私は受け入れることができるから、新しいキルハの一面を知るという意味でも、そういった暗黒面をさらけ出してくれればいいのにと思う。決して幻滅することなんてないし、むしろキルハのことをもっと知ることができてうれしいと思うのは私がおかしいからだろうか。

 そう考えると、天邪鬼なマリアンヌはキルハと似たタイプなのかもしれない。弱い自分を見せたくなくて、強がって見せる。アベルは、そんなマリアンヌのふるまいをどう思っているんだろうか。


「話し合いは終わった?」


 青い顔で震えを殺すように腕を抱いている支部長から顔を放して立ち上がったキルハが、私のほうを向いてニッと笑った。子どもっぽいその姿に心臓を打ち抜かれた。暗い視界がまばゆい光に包まれたような気がした。

 誰かを想うというのは、こんなにも世界が色づくものらしい。


「ちょっと支部長!早く仕事に戻ってくださいよ!」

「あ?……あー、仕事か……」


 どこかぼんやりとした顔で受付の女性のほうを見た支部長が、どっこらしょとおじさん臭い声とともに膝に手をついて立ち上がって。

 ん、と不思議そうにその首がわずかに傾く。視線は、女性の背後、地下へと続く扉の先に向けられていた。

 私とキルハも、そろって扉の奥へと意識を向ける。どたどたとせわしない足取りで近づいてくる気配があった。

 それから蹴破るように扉が開かれ、息を弾ませた女性が一人訓練場に飛び込んできた。


「支部長、緊急です!村の子どもが海岸のほうへと向かったという目撃情報が届きました」

「それがどうした?時々怖いもの見たさで海に向かうクソガキどもの一人だろう?大したことにはならんと思うが、何が緊急だ?」

「それが、つい先ほど、昨日海岸付近で天に上るような巨大な触手を見たという目撃情報が入ってきたのです。おそらくは――」

「クラーケンか」


 クラーケン。それは海の魔物についてほとんど知らない私でも名前を知っている魔物の一体だった。それはまるで巨大なイカで、長い脚を使って海岸付近にいる陸上生物たちを捕まえて食らう魔物の一種だった。それが脅威とされるのは、自らの生息域に十分な食料が存在しないとき、クラーケンは陸に上がり、触手然とした足を巧みに使って陸上を進むからである。そうしてたどり着いた村や街を襲い、そこにいる人々や家屋を食らうのだ。

 おとぎ話にも語られる多足の魔物が子どもを襲うかもしれないという情報に、支部長の顔が引きつる。だが、緊急事態には足りない。

 報告をしに来た女性は続きがあるといわんばかりにその場に立っていた。ごくり、とそののどが小さく鳴る。


「で、何をそんなに慌てている?」


 ハンター協会は魔物から人々を守るための組織であり、その組織理念の第一項目は人類圏に入り込んだ魔物の討伐、それに続くのが魔物から人類を守護することだった。つまり、ハンター協会としては魔物によって非戦闘員の死者が出ることは避けたいことで、子どもの死を食い止めることが支部長の左遷の有無につながる責務でもあった。

 そして、普段は深い海にいるはずのクラーケンの目撃情報はすなわちその個体が飢えており、上陸してくる可能性を意味していて。討伐のための戦力をかき集める必要はあるものの、幸い陸上のクラーケンはそれほど強くなく、それこそ支部長自身が一人出ていけば倒せるほどの敵であるはずだった。

 つまり、支部長には女性が焦る理由がわからなかった。

 一拍置いて、覚悟を決めた女性は胸元に抱えたバインダーを軋むほど強く握り、舌で湿らせた唇を開く。


「……子どもが海に向かってしまい、そこにクラーケンがいるかもしれないという話を聞いたエリスさんが、ハンター協会を飛び出して行ってしまいました」

「ッ!正義感だけは一丁前なあのガキが!」


 エリスという人物のことを口汚くののしった支部長は、疲労を感じさせない足取りで地下訓練場の外へと向かい、ふとその扉の所で立ち止まる。そして彼は腰のポーチに手を突っ込み、そこから取り出したものを鋭い動きでキルハに投げて見せた。

 板のような平たいそれを二本の指で挟んで受け取ったキルハが、しげしげとそれを眺める。黒色の長方形の板。厚さは数ミリで、そこには紫色の線で大きく五芒星が描かれていた。


「これは?」

「そのうちわかる。多分お前たちには必要なものだから持っておけ」


 そう言ってろくな説明もなしに背を向けた支部長は、今度こそ慌ただしげに足音を響かせながら訓練場を出て行った。


「なんでしょうね、それ?」

「協会職員も知らないのか?」


 気づけばキルハの隣に立って板を眺めていた受付の女性が不思議そうに首をかしげていた。彼女、キルハに近づきすぎじゃないだろうか。


「ええ、初めて見ますね。皆さんに必要なもの……はっ、まさかその手のいかがわしいお店ですか⁉没収です!」

「そんなわけがないだろう?」


 髪を振り乱して手を伸ばす女性からその板を守ったキルハは、その板を裏返し、側面から眺め、それから何を思ったか私にその手のひらサイズの板を投げてよこしてきた。


「キルハが渡されたんじゃないの?」

「それはたぶんロクサナかマリアンヌが持っておくべきものだね。まあ、そのうちわかるよ」


 今の観察だけで一体何が分かったのか、キルハは鋭く細めた目で板を一瞥してから、肩を竦めて返してきた。

 私もまた、受け取った板を観察する。黒地に紫の五芒星。ただそれだけ。ひんやりとした滑らかな手触りと質量から、おそらくは金属。端の部分はきれいにやすり掛けされていて、手を傷つけることもなさそうだった。

 それなりにお金がかかってそうな代物だが、けれどそれだけ。ただの無価値な品にしか見えなかったものの、キルハの勧めに従って私はその板を鞄にしまい込んだ。


 それから、相変わらず隙あらばキルハに接触してこようとする受付の女性をあしらいながら、私とキルハはハンター協会を出てマリアンヌたちと合流するために街を進んだ。

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