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白百合の涙  作者: 雨足怜
放浪編

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24/96

24ハンター協会

「……そろそろ生活資金が尽きるわね」


 夜。宿の一室に響いたマリアンヌのつぶやきに、私は「ああ」と声を上げた。

 この街に滞在してもう十日少々。道中で狩った動物の牙や皮、薬草などを売ることで多少のお金を稼ぐことができていたとはいえ、私たちはそれほど多くの資金を持っているわけでもなかった。本当は魔物一体の素材でも販売すれば場合によっては平民が一生を暮らせるほどのお金になるのだけれど、私たちはその選択肢を選ぶことができなかった。第一に、王国との戦いの邪魔になる魔物の素材はすべて森に置いてきてしまっていたから。

 そして何より、突然現れた集団が凶悪な魔物の素材を持ち込むなど怪しんでくださいといっているようなものだった。王国に追われる身である私たちはアヴァンギャルドの残党だと認識されかねない行為をするわけにはいかず、魔物素材を売るわけにはいかなかった――けれど。

 生活資金を調達するためなら、少しくらい魔物素材を売ってしまってもいいのではないだろうか。

 そんな私の提案を、マリアンヌは鼻で笑った。


「バカね、魔物の領域からはるか遠いこんなところでそう都合よく魔物が見つかるはずないじゃない。手持ちに売れる魔物素材もない以上、こつこつと稼ぐしかないわよ」


 やれやれこれだから世間知らずは――そう肩をすくめるマリアンヌこそが世間知らずだと、彼女は知らない。まあ私のほうが世間知らずなのは否定できないけれど。


「それで、魔物素材さえあれば私たちが魔物を売るのは問題ないと思う?」

「それは……そうね、ハンター協会に登録でもしておけば、わたくしたちが倒したとして魔物の素材を商会に持ち込んでもそれほど不思議に思われることはないんじゃないかしら。特にアベルは一目見て強者とわかるもの」


 そういえば、人の目があるところでは魔法が使えない。それはつまり、私の目指す先ではマリアンヌは完全に足手纏いになってしまうことを意味していた。まあ、明らかに強者とわかるアベルと彼に並ぶ実力者のキルハがいれば戦力的な意味でも、魔女がいる可能性を想定されないという意味でも十分だろう。


「それじゃあ、魔物狩りに行かない?」


 だからこんな辺鄙なところに魔物なんていないわよ――そう告げるマリアンヌの口を指でふさぎ、私はにっこりと彼女に微笑み掛けた。


「あるよ。海という魔物たちの楽園がね」







 海に魔物討伐に行こう――私の提案は、すぐにマリアンヌに受け入れられることはなかった。何しろ、魔物というのは総じて人類にとって怪物だから。魔物なんてものは、ピクニック気分で討伐しに行くような存在ではないし、場合によってはあっさりと全滅しかねないのが魔物という生き物との戦いだった。

 最も、そんなことは私だって十分に知っていることで。

 だからマリアンヌはひとまずアベルとキルハのもとへと向かって検討を始めた。


「海か。お前たちは見たことがあるのか?」

「ないわよ。私は王都周辺の生まれよ?」

「僕もないね。だとすればロクサナだけかな」


 海、という単語を聞いて、真っ先にアベルたち三人が話し始めたのは海を見た経験があるのか、というものだった。海に跋扈する魔物との戦いを検討する以上、彼らが住まう海という場所について知っていなければならないというのは当然のことで。

 東西に広い人間の領土を統一する国において、どちらかといえば内陸側で生まれ育った三人は、もちろん海を見たことはなかった。せいぜい、話に聞く程度。

 だから三人は海の具体的な姿や状況などの情報を求めて私のほうへと視線を向けた。けれど、私に話せるような情報は特にない。何しろ私は――


「は?あんた海に行ったこともないのにさっきドヤ顔でわたくしに海の魔物の話をしていたわけ⁉」

「このあたりで海に魔物がいることは常識なんだよ?そんな危険な場所に、当時はただの一村人に過ぎなかった私が行くわけがないよ」

「それもそうか。だとすると、海について全く知らない四人で魔物討伐のために海に行こうと話し合うことになるわけか……無駄じゃないか?」

「ちょ、アベル⁉もうちょっとこうオブラートに包んでだね」

「そのせいで死んだら元も子もないだろう?」


 アベルの心無い言葉に打ちのめされた私を庇ってくれたキルハに心温まったけれど、残念ながらアベルの言い分のほうが正しかった。ただでさえ化け物と呼ぶに足る生物である魔物たちは危険で、事前知識のない魔物との戦いはアヴァンギャルドの精鋭だってたやすく戦死してしまいかねない。そのうえ海という戦いの場所についてすら知らない以上、海へとこのまま戦いに向かうのは、もはや危険などというレベルでは語れない死地に飛び込む行為に等しかった。

 つまり、私たちは情報が必要だった。このまま資金が尽きるのを座して待つか、動物や薬草の採取で生活をつなぐか、あるいは慣れ親しんだ魔物討伐によって稼ぐか。


「ひとまずハンター協会にでも行けばいいよ。そこで情報を集めて、できそうなら海に住む魔物を倒して、危険すぎると判断されればその足で街の外に出て動物を狩りにでも行く。それでどう?」


 反対意見は出ず、私たちはさっそく宿を出てハンター協会へと向かうことにした。

 ハンター協会。それは魔物の領域から人里へと降りてくる個体のうち漏らしや、あるいは人類圏にある森の奥などで生息してしまっている危険な魔物を倒す精鋭たちを管理する組織である。魔物の発見報告をまとめ、その魔物を討伐可能なハンターたちに依頼を出す組織。

 協会に所属するハンターたちは魔物の情報という飯のタネをただで手に入れられるとともに、ハンターランクというハンター協会が所属するハンターたちの戦闘能力で格付けしたランクを手にすることで社会的地位を獲得し、英雄ランクにでもなれば国がその後ろ盾に名乗りを上げて貴族になれるといった栄達を手にすることができる。ちなみに、ハンターたちのランクは、下から順に一般人、戦士、超人、英雄、覇者という階層になっているらしい。最も覇者ランクは今や引退してしまっており現役の者はいないはずだが。

 そうしてハンター協会は巧みにハンターたちを統括し、それまでただのごろつきに過ぎなかった一攫千金を狙うハンターたちを人類の守護者へと変えて見せた。


 そんなハンター協会は、一言でいえば酒場のようだった。足を踏み入れれば空気すべてがアルコールなのではないかというほどの濃密な酒精が香り、中では飲んだくれの男たちが机に突っ伏していびきをかき、あるいは今なお酒盛りの真っ最中だった。


「そういえばキルハとアベルって酒は飲まないの?」

「僕は下戸だよ。アベルは……ザルだっけ?」

「確かにザルだが、そもそも酒を美味いと感じる舌を持ち合わせていないんだ。酒を飲むくらいだったら滝に打たれていたほうがいいからな」


 キルハが下戸だというのは、なんとなくイメージできていた。ハンター協会の中にいる飲んだくれのいかつい男たちに比べれば、キルハはあまりにもひょろひょろだった。それこそ、吹けば倒れる枯れ木の様ですらあった。そんなこと、キルハがひどくショックを受けるだろうから本人には決して言わないけれど。

 対してアベルについてはさもありなんといったところだ。最近なりを潜めていた変態性は、やっぱりアベルにとっての核なのだと再認識したところで、私たちは話を切り上げて受付らしいカウンターのほうへと歩を進めた。


 初見の顔ぶれである私たちを見て、だらりとやる気のなさそうな格好で椅子に座っていた制服姿の女性ははっと目を見開いて背筋を伸ばした。そうしていれば美人に該当する女性だったけれど、先ほどの姿を見たせいかひどく残念な姿に思えた。ぴこん、と側頭部で揺れる髪は寝ぐせだろうか。


「ハンター協会へようこそ。依頼ですか。魔物の情報ですか。それともハンター志望ですか?」


 テンプレートをなぞるように告げた女性は、漢という言葉がふさわしい筋肉の塊たちを見て目が腐ってしまっていたせいか、キルハに焦点を当てるなり閃光弾を食らったように顔を手で覆った。


「くぅ、なんてことですか。まさか、夢、夢ですか⁉そんな殺生な。ですがそうですよね。このむさくるしい協会に優男風のイケメンが現れるはずが――いひゃい」


 つねった頬を赤く染めながら、女性はぼうっとキルハを眺めていた。なんというか、嫌な予感がした。これが恋に落ちるというやつだろうか。


「その三つのどれでもないわよ。確か、ハンター協会は周辺地域の魔物情報を収集しているのよね?海の魔物に関する情報を知りたいのよ」


 す、とキルハと女性の間に割って入ったマリアンヌが女性をにらみながら告げた。なんというか、ひどく刺々しい言葉だった。その女性は、視界に入ってきたマリアンヌを上から下までざっと眺めて、それからその胸元へと視線が釘付けになった。

 いつの間にか取り出したシルクのハンカチを噛み、キィー、などと悔しがって見せる。芸のようなものだろうか、というかシルクって、ハンター協会の職員というのはひょっとしてかなりの高給取りなのだろうか。まさか、先ほど女性として終わりと呼んでも差し支えない顔をしてぼんやりしていたこの女性が?


 マリアンヌがにやりと笑いながら腕を組み、その上に雄々しくそびえる二つの双丘を載せてみせる。女性が目を血走らせながら嫉妬の目でマリアンヌをにらみ、そして斜め後方から「おおおおお!」という歓声が響いた。

 マリアンヌは酒に飲まれていた男たちの視線を釘づけにしていた。

 余計な者が釣れてしまったことを気にしてか、あるいはそれも想定外か、マリアンヌはすすすとアベルに近づき、男たちの視線から逃れるべくその腕にぴったりと張り付いた。アベルの表情は――変化なし。アベルにマリアンヌが異性として見られているかは定かではなかった。


 男たちがマリアンヌの恋人のような距離感を持つアベルに苦情を言おうと席を立ち、その全身を見つめ、すごすごと椅子に座りなおした。朝っぱらから酒を飲んでいるろくでなしたちでも、アベルは一目で強者とわかるらしかった。


「……ん?」


 怯える男たちがちらちらとみているのは、アベルではなさそうな気がした。その視線を追えば、まるで私を彼らの視線から守るようにその直線状に移動していたキルハの姿があった。笑みを浮かべているキルハは、けれど極寒の冷気を周囲にまき散らしていた。

 なるほど、ハンターたちはキルハの威圧にやられて、酒も醒めてしまって椅子の上に縮こまっているらしかった。

 私を、守ってくれているのだろうか。さりげないその気遣いが憎らしい。紳士然としたその振る舞いに、私は頬が熱を帯びるのを感じた。


「ええと、イチャイチャを見せびらかしたいのでしたらよそでどうぞ?」


 血涙を流しそうなほどの怒気に包まれた女性は、かろうじて笑みを取り繕っていた。けれどその言葉にも、そしてどこからともなく聞こえてくる歯ぎしりの音も、彼女の内心を反映していた。


「だから情報よ、じょ、う、ほ、う!あんたの耳にはでっかい耳くそでも詰まってるわけ⁉」

「はぁー⁉あなたこそその大きなお胸に脳みそに行くはずだった栄養が全部行ってしまったんじゃないですか?ああ、かわいそうに。だから彼氏が――チッ」


 受付係としてあるまじき対応。まさか客に向かって舌打ちするとは予想もできなくて、私は思わずキルハと顔を見合わせた。そんな私たちの姿は、女性の神経を逆なでするものだったらしく、いくら海の魔物の情報を求めても、ハンターでない方の話は知りませんと突っぱねる。

 ちなみに後から聞いたことだが、多くのハンターたちは街を移動した際、その街のハンター協会の受付嬢にこれ見よがしに自らのハンターカードを見せびらかすそうだ。自分はこれほどすごいランクについているんだぞ、と自尊心を慰めるらしい。そんなわけで協会に入ってからランクが印字されたカードを見せることもなく情報を求めた私たちが協会所属のハンターではないと女性は一瞬で見抜いたのだという。

 なんというか、ハンターたちはそれでいいのだろうか。まあ、そんなハンターたちを掌の上で転がすために受付に見目麗しい女性を並べているというのだから、ハンター協会はなかなかしたたかで侮れない存在である。ああ、ここの受付嬢が残念な姿をさらしていたのは、辺境に等しい立地で、海の魔物なんてそもそも存在すら知らないハンターが多いため、よそからハンターがこの街を訪ねることがまずないからだという。

 そして戦闘に参加する――侍らせている恋人ではないという意味でもある――格好をしていた私とマリアンヌがいたことで、私たち四人がハンターでないというのはほぼ確定だったという。

 それから、彼女は私たちがハンターになることを望んでいた。それは、優秀な人材を引き入れるとボーナスがつくからで。

 つまり情報を手に入れるためにハンターになる道を選ぶこととなった私たちは、彼女の懐事情をよくすることに貢献した――と、なるはずだった。


 ガァン、とおよそ人の頭が響かせるものではない轟音とともに、頭頂部に強烈な拳を食らった女性が地面に顔面から叩きつけられる。それをなしたのは、アベルと双璧をなすほどの筋肉を有する戦士然とした大男だった。

 この協会の支部長を名乗る男は、そうして地面に転がる受付女性の上に座り、私たちに向かって頭を下げた。

 謝罪を受ける以前に彼女の上からどいてくれないと、女性のことが気になって仕方がなかった。まさか、これも許しを得るための男の作戦だったのだろうか。

 そんなことを考えていると、男の体がぐぐぐと上に伸びあがった。いや、男の場所が上がったのは、男が動いたからではなく、その尻の下に敷かれていた女性が、筋骨隆々とした男を腕立ての要領で肘を伸ばして持ち上げたからだった。

 その細い腕のどこからそんな力が出ているのか不思議なほどの膂力をもって、女性はとうとう男を跳ね飛ばす勢いで立ち上がった。


「ったく、あぶねぇな」

「ふざけないでくださいよ!今日のメイク、三時間かけた傑作だったんですよ⁉」

「んなもん、オレが知るか。大体、それを見せるような相手がいねぇだろうが」

「今日はいたんですよ!」

「客に媚びを売るな。せめてハンターたちにその美貌を見せびらかして無聊を慰めておけ」

「今、美貌って言いました⁉言いましたよね⁉この際もう支部長でもいいですから娶ってくださいよ!いや、結婚だけでいいですよ。それで別の女を作って、示談金を奪い取ってあげますから。これで結婚を迫る母親の圧から逃れられて、お金も手に入って、そして支部長から金をせしめた女として協会内部で成り上がるんです!」

「いや、それオレに全く徳がないよな。っつうかこんな女こっちからお断りだ。ま、向上心が高いのはいいこった。上司を嵌めた女なんて噂が付きまとう奴を昇進させるほど上は無能ばかりじゃないと思うけどな」

「な、なるほど。だったらやっぱり彼に娶ってもらいましょう!貴方のお名前は――」

「だから客に媚びを売るな、結婚を申し込むなッ」


 ドゴン、と再び頭頂部に拳が叩き込まれ、女性が頭部を抑えながらゴロゴロと床を転がる。一連のコントを前に、私たちはただ茫然と二人を見ていることしかできなかった。


「ったく、珍しく新しいハンターが入ってきたかと思えばこれか。あー、あんたら、別にハンターになりたくて来たわけじゃねぇんだよな?」

「そうよ。そこの行き遅れ女が『ハンター以外に情報は開示できません』とか言って海の魔物に関する情報を出し渋るから、仕方なく手続きを受けたのよ」


 そういいながらマリアンヌは執務机と思しき部屋の奥に鎮座している重厚な木のテーブルに進み出て、先ほど私たちが書き上げたハンター志願書をひらひらと振って見せた。


「そりゃ悪かったな。ハンター協会は魔物を倒すためなら情報だってタダでばらまく組織だ。魔物討伐命の組織――そう覚えておいてくれ」

「つまり、海の魔物に関する情報を閲覧するために、この面倒な書類を書く必要は全くなかったってことね?」


 その通り、と支部長がうなずいて。マリアンヌの眉間に青筋が浮かぶ。ニコリ、とそれはもういい笑顔を浮かべたマリアンヌが、歌うように尋ねた。

 その女に、一撃入れてもいいかしら――と。

 支部長からの許可を受けて、マリアンヌはかつかつと床を踏み鳴らし、中央にあるローテーブルの脚で床を傷つけないために敷かれているらしいカーペットの上で身もだえしていた女の前へと進み出る。


「さあ、覚悟はいいわね?」

「ちょっと支部長!身内を売るなんて正気ですか⁉」

「オレは正気だ。馬鹿な部下にお灸をすえる必要があって、拳を傷めずにそれを実行できる状況があるだけだ。せっかくやってきてくれた客をちゃんともてなしてやらないとなぁ?」

「そうよ。めんっどくさい書類を書かせてくれやがったお礼よ、お礼」


 まるで兄妹、あるいは親子のようにそっくりの邪悪な笑みを浮かべた支部長とマリアンヌが、床にへたり込む女性へと迫る。私たちは、ただ黙ってそれを見守った。無駄な作業をする羽目になった怒りもあったし、私たちを代表してマリアンヌが女性に一発くれてやるというのならそれでいいと思った。

 果たして、マリアンヌが振り上げたかかとはカーペットに叩きつけられ、俊敏な動きでローテーブルの上へと飛び乗った女性は、猫のごとくフシャーと警戒して見せた。


「すごい動きよね?」

「だね。それなりに訓練を受けているみたいだけど……」


 狭い室内で追いかけっこを始めた二人は、あちこちに足跡を作りながら暴れまわる。その様子を見て、支部長の顔から血の気が引いて行っていた。


「ハンター協会の受付嬢は、荒くれものぞろいのハンターたちにセクハラをされそうになった際に速やかに対処できるように訓練を施されていると聞いたことがあるな。多分彼女はその類だろう」


 凶悪な魔物を枝葉を落とすように倒せる者さえ存在するのがハンターという集団だった。そんな者たちの凶行に対応するためなら、このレベルの戦闘能力が必要なのかもしれない。

 そんな女性を相手に、後衛として呪術を放つばかりのマリアンヌが敵うはずもなく、すぐに息切れしてその動きが悪くなった。


「あははは!そんな重いものを胸にぶら下げているから動きが悪いのよ。そうよ、それは脂肪よ。不要な塊なのよ!」

「持たぬ者、の、嫉妬は、心地いいわねッ」


 荒く呼吸を繰り返すばかりだったマリアンヌの気配が変わった。ピクリと反応したのは、キルハとアベル、支部長の三人。あちゃあ、と言いたげに両手で顔を覆ったキルハの姿を見て、そしてその次の瞬間目の前で繰り広げられた光景から、私は何が起こったのかを察した。

 これまでとは比較にならない動きで女性へととびかかったマリアンヌが、その袖を固く握り、邪鬼のごとく笑った。つまり、マリアンヌはこのままでは女性を捕まえることができず、嘲笑われ疲弊することになり、それを許せなかったためにあろうことか他者の目があるこの場所で呪術を行使して見せた。


 そして、マリアンヌが女の顔面へと拳を叩き込もうとした、その瞬間。風のごとく走り寄ったアベルが、マリアンヌの頭部に鉄のように固い拳を打ち下ろした。

 ぎゃ、と短い悲鳴を上げてマリアンヌが地面に崩れ落ちる。ザマァ、とマリアンヌの醜態を嘲笑っていた女性は、冷え冷えとしたアベルの視線を感じて恐怖に体を震わせ、目じりに涙を湛えながらフルフルと首を横に振った。


 そうか、と短く告げて、ぎゃあぎゃあと文句を喚き散らすマリアンヌを肩に担いだアベルが支部長室を後にした。

 嵐が去ったそこには、両腕で体を抱いて震え続ける女性と、破壊された勲章を手に肩を落とす支部長と彼を険しい顔で見つめるキルハ、そして茫然と立ち尽くすばかりの私が残された。

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