23対価と約束
しばらく隔日更新が続きます。
街にたどり着いてから、一週間。私たちはずっと心の奥で求め、けれどどこかで諦めていた平穏な日々を手にしていた。
日常が、そこにあった。幸せな日々。些細な物事にさえ心躍る日々。私が、私たちが求めた時間を、全力で享受していた。
これまでの一週間、まだ王国の追っ手を警戒していた私たちは四人で街を散策した。屋台で舌鼓を打ち、貝殻などで作ったきれいな郷土品を並べたアクセサリー店を眺め、中央広場で行われていた無料の劇を観て、古風な喫茶店で一服した。
「じゃ、今日はあんたたち二人で行ってきなさい。ほらアベル、邪魔者なわたくしたちはこっちよ」
「……へ?」
街での滞在も八日目になる今日、宿で朝食を摂った私たちは街に出ようとしたところで、マリアンヌからそんな提案をされた。いや、それは提案というかただの宣言だった。
背中を勢いよく押された私は前につんのめり、倒れそうになった私の顔は黒い布にぶつかった。キルハのにおいがした。抱きとめるように体を支えてくれたキルハに気づき、顔が熱を帯びるのを感じた。
慌ててキルハをはねのけるように顔を胸元から引きはがすと、そこには少しだけ傷ついたような顔をするキルハの姿が見えた。拒否しているように見えてしまったのだろうか。そんなわけがないのに、ただ恥ずかしくて、心臓が爆発してしまいそうで、一刻も早くキルハから離れようと思っただけなのに――あれ、キルハを拒否したというのもあまり間違いじゃない……?
気づけばマリアンヌとアベルの姿はどこかに消えてしまっていた。これでは今日は二人きりだ。
二人きり――マリアンヌの気遣いは、けれど少々急すぎた。せめて昨日のうちにあらかじめ言ってくれていれば覚悟も決まったのだけれど。
「大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫。ありがとう」
どういたしまして、とさわやかにほほ笑むキルハの笑顔がまぶしかった。やっぱり、私はキルハが好きだ。どうしようもなく、キルハと一緒にいるとうれしくて、幸せで、それだけで心がいっぱいになる。こんなに幸せでいいのだろうか。
誰かの許可がいるわけでもないのに、私は誰かに向かってそう尋ねた。
キルハの笑みを見て、きゃーと歓声を上げる女性の声が聞こえた。美しい女性だった。たぶん、この街に住んでいる人だろう。紫紺のワンピースに純白のカーデガンで肩を隠した女性は、私とは違って体のラインにきれいなメリハリがあった。その女性もさすがにマリアンヌには及ばないけれど。
キルハもきっと、彼女のような平凡な女性のほうが好ましいのではないだろうか。だって、私はキルハとアヴァンギャルドという苦行の世界を共にした人物で。私といる限り、キルハはその過去から解放されることはないのだ。私といる限り、キルハは些細な瞬間にあの森での戦いのことを、仲間の死を、痛みを、飢えを思い出すだろう。
それは、ひどく心苦しいことだった。けれど同時に、他の誰にもキルハをとられたくはないと、私は自分勝手にそう思った。
緊張で手のひらに汗がにじんだ。その手を服の裾で軽くぬぐう。今日の私の服は、キルハのお気に召しているだろうか。清楚系が好みだろうというマリアンヌの分析に従って、今日の私は無垢な村人然とした服装をしている。これは、清楚と呼んでいいのだろうか。なんというか、かつての私とそっくりな服装だと思う。ごわごわした麻の布を補強のために飛び麻の葉の形に刺し子を入れた服。まあキルハもそれほど着飾っているわけでもないし、街を行く人並みの中に入って目立つこともない。
汗をぬぐった手を、覚悟の声とともに伸ばした。その手が、キルハの手を包み込んで。
驚いたように目を見開いたキルハが私をぽかんと見下ろした。
「ほら、行こう?」
無性に気恥ずかしくて、私はキルハに今の顔を見られてはたまらないと、勢い良くその手を引いて歩きだした。つんのめったキルハは、さすが剣士というべきかすぐに体勢を立て直し、なすがままに私の手にひかれて歩き出した。
そうして私たちは二人、平穏な世界へと歩を進めた。
やっていること自体は昨日までの焼きまわしに過ぎなくて。けれどキルハと二人きりという新たな状況だからか、すべてのことが新鮮に映った。楽しくて、幸せで。私は目いっぱい街を散策した。
そうして程よい足の疲労を感じて、私たちは一軒の甘味処の軒下の椅子に座った。注文を聞きに来た十歳ほどの少女にお勧めを頼み、私たちはなんとなく互いに黙ったまま目の前に広がる街の風景を眺めた。
忙しそうに行き交う人々、走り去る馬車、呼び込みの声、たくさんの商品、美しい石造りの建物たち。誰もが、真剣に今日を生きていた。そこには、たくさんの人の営みがあった。
「これを、アヴァンギャルドは確かに守ってきたんだね」
「そう、ね。幸せな今は、かつては未来の可能性に過ぎなかったんだよね」
ああ、そうだ。これは先人が、そして私たちが守って、もたらした世界なのだ。人類の生存圏を侵略しようとしてくる魔物を食い止め、あるいは魔物側へと開拓を推し進める組織、それこそが私たちアヴァンギャルドだった。私たちが殺してきた魔物の数だけ、人々の世界から危機が遠ざかった。
もし私たちがいなかったら。国は騎士たちだけで広い魔物との国境を守る必要性に駆られていただろう。そして、最も西に突き出した、凶悪な魔物の跋扈する元アヴァンギャルドの拠点付近にも、多くの騎士たちが魔物の討伐に費やされ、そして帰らぬ人になっただろう。ただの人間がたやすく殺せるほど、魔物という存在は弱くない。
アヴァンギャルドは、数少ない常識人たちが後の世代に知識や技術を伝えていって成長し、さらには人間という枠組みから片足どころか下手をすれば両足を踏み外した超人的な技量を持つ狂人たちのおかげで、多くの魔物を討伐することが可能だった。それに、定期的に発生した、魔物たちが津波のように森の奥から人間社会へと押し寄せてくる「大侵攻」は、アヴァンギャルドだからこそ止められたのだろう。多くの構成員が死にながらも、私たちの組織はつい先日まで確かに人類の守護者として、人類の防壁として存在していた。
アヴァンギャルドがなければ、あの場所における魔物の侵攻は止められなかっただろう。あるいは侵攻を食い止めるために多くの騎士を動員し、他の場所の防衛が手薄になっただろう。そうして倒しきれなかった魔物たちは人の社会を襲って、多くの人が殺され、世間は垂れ込む絶望の空気にのまれただろう。
けれど今、目の前には絶望にうつむき、目から光を失った者たちの姿はない。そこには、自分たちの平穏が脅かされることなど想像することもなく、自分の世界を必死に生きる人々の姿があった。
誰にも知られることなく街を守ってきた一人であるキルハ。その貢献は私が知っている。それで、それだけで、いいのかもしれない。
そして、その努力を知っているからこそ、キルハは私という存在に隣にいてほしいと思うのかもしれない。あの地獄の記憶が鮮明であればあるほどに、私たちはきっと今という平穏を安寧の中でただ享受するのではなく、その平穏を作るために身を粉にして戦っている誰かの存在を思いながら必死に日々を過ごしていけるだろう。
ちりん、と鈴の音がなった。顔を見上げれば、風鈴、だったか、風を受けた紙が揺れることで涼しげな音を鳴らすガラス細工の存在があった。
それはまるで星空のように、塗りつぶされた青地の向こうに存在する太陽の光を、小さな無数の隙間から降り注がせていた。
「ねぇ。私、キルハと何か約束をしなかった?」
約束、とキルハがオウム返しをする。私もまた、約束、とだけキルハに再び告げる。
私と同じように、軒下で揺れる風鈴を見上げるキルハの横顔を盗み見る。その背後の街の風景が、黒々として夜の森の光景に塗りつぶされる。月明かりの中で金色の瞳を細めたキルハが、にらむように空を見つめる。そんな時間を、私はたぶんキルハとたくさん共にしてきた。
そしてただ一夜以外、私はそのすべてを忘れてしまっているのだと思う。
思い出して――そんな叫びが聞こえた気がした。その声は、過去の私の声をしていて。
大丈夫、ちゃんと思い出すから。思い出せなくても、ちゃんと新しく記憶するから。
心の中で泣き続ける私をなだめ続けて、私はキルハの言葉を待った。
「星空を見ながら、たくさん話しをしたはずなの。覚えてないけれど、たぶんそう。あの大きな木の下で、私は膝を抱えて世界を呪っていて、そんな私に、たぶんキルハは何度も話しかけてくれた。そうして、私を淀のような絶望の中から救い上げてくれた」
「……違う」
話しているうちに本当にそんな経験をしてきた気がして。けれど、キルハはひどく冷たい声で私の話を否定した。涙がこぼれてしまいそうだった。私のほうを見たキルハが、はっと我に返ったような顔をして、ごめんと小さく詫びた。
私のほうこそ、ごめんなさい。キルハにそんな顔をさせてしまって。私が忘れてしまったせいで、そんな道に迷った子どもみたいな顔をさせてしまって。
指が、私の目元をぬぐう。光が、キルハの指に溶けて消えていった。
「違うよ。違うんだ。僕が救ったんじゃない。君が自分の足で、一人で再び立ち上がったんだ」
キルハは、月下の語りを否定しなかった。
ああ、やっぱりそんな時間が過去にはあったのだ。私とキルハが、あの巨木の枝の上で並んで星空を見上げた時間が、世界には確かに存在したのだ。そして今も、キルハの心の中にはその時間が残っている。
そのことが嬉しくて。けれどやっぱりキルハは固い声で否定を繰り返す。僕は何もしていないと、自分の無力さをかみしめるように強くこぶしを握りながら。
「僕は、ロクサナを救えなかったんだよ。ロクサナはただ、何度も死んで、そのうちに弟さんの死の記憶を失って、胸の中にあったはずの喪失感に困惑しながら立ち上がったんだ。あるいは、死のせいにして記憶を心の奥底に追いやっただけだったのかもしれない。でも結果として、君はただ自分の力だけで立ち上がったんだ」
「……私は、その時にはもう弟の死を忘れて、そのことを思い出すこともなくおめおめと生きながらえていたってこと?」
「違うッ!」
立ち上がったキルハが、鋭い目で私をにらみつける。その背後で、ガシャンとガラスが割れるような音が響いた。
すみませんと慌てて頭を下げる少女の足元には、私たちに提供するはずだった甘味が無残に散っていた。突然立ち上がって怒鳴ったキルハに驚いて、お盆ごと落としてしまったようだった。
「ごめんなさい。怖かったよね。危ないから私がやるよ」
「……僕も手伝うよ」
「え、あの、お客さんにそんなことをさせるなんて――」
いいから、と少女を手で制して、私たちは割れた容器の破片を拾い集めた。何かして気を紛らわせていないと、心が壊れてしまいそうだった。たぶんキルハも、同じ気持ち。
私は、助けられなかった弟のことを忘れて前を向いた申し訳なさと、そしてこうしてキルハと平穏を享受していることへのうしろめたさ。
キルハは、どうだろうか。自分の無力さと、私に今の話を伝えてしまったことの後悔、だろうか。
私たちはどちらも一言も言葉を発することはなく、黙々と片づけをして、そして押し付けるように少女の手にお金を渡して、どちらからともなく雑踏の向こうへと歩き始めた。
気づけば、空は燃えるような赤に染まっていた。夜が、近かった。
周囲からは子どもの姿が見えなくなり、大人たちもせわしなく営業の終わりへと活動をする。私とキルハは手をつなぐこともなく、今日という日の終わりに向かう街を歩き続けた。やっぱり、私たちの間に言葉はなかった。
時を追うごとに、後悔が押し寄せた。キルハとの関係が悪化してしまうようなことを言ってしまった後悔。もうとっくに過ぎてしまった記憶の喪失と、それを契機とする私の意識の転換なんて、どうでもいい過去の話でしかないのに。変えられないその話に心揺さぶられて、弟の死をすっぱり忘れ去った私が嫌になった。
けれど、キルハに対する怒りがないとは言えなかった。たとえ再び私がうつむいてしまう可能性があったとしても、キルハには私に、私が忘れてしまった弟の死の記憶を伝える使命があったのだと思う。だって、絶望の中にいる私の最大の懸念はおそらく死を繰り返すことで大切な記憶をすべて失ってしまう恐怖で、だから過去の私は、私の記憶を覚えていてくれる存在としてキルハを求めて、キルハに過去を語ったと思うから。
キルハは、何を考えて私の話を聞いて、自分との記憶すら失っていく私をどう思って、弟の死を忘れることで何とか前を向くようになった私の姿に何を思っていたのだろうか。
わからない。キルハのことがわからない。当然だ。だってキルハは私とは違う人間なのだから。
本来は交わるはずのなかった別世界で生きる存在でしかない私とキルハが、互いを正しく理解できるはずがないのだ。
残り火のように西の空にわずかに見えていた赤が消えた。そして世界に夜のとばりが降り。
私は、目元ににじむ涙をこぼさないように顔を上げた。
「……暗い」
ぽつりと、無意識のうちにそんな言葉が口から零れ落ちた。見上げる空は、ひどく暗かった。森の枝の上で見た美しい星空は、見えそうもなかった。家々から漏れ出る火の光と、煙突から立ち上る煙が、美しい空の星明りを覆い隠してしまっていた。
唯一、空には相変わらず煌々と黄金の輝きを帯びた月が存在していた。のっぺりとした暗い空に、月は一人ぼっちで浮かんでいた。
私もまた、一人。隣にいるキルハの存在がひどく遠くて、このままキルハが遠く離れた、私の手が届かない場所に行ってしまうような気がした。
嫌だ――心が悲鳴を上げた。嫌だ、キルハと離れ離れになるのは嫌だ。このまま関係が壊れてしまうのは嫌だ。
私は、キルハと共にいたい。共に生きていたい。他の誰でもない、キルハと一緒に幸せになりたい。
そういえば、私はキルハに自分の思いを返していなかった。キルハから言葉をもらいっぱなしで、なあなあの関係を続けるばかりだった。
「キルハ」
名前を呼ぶ。愛おしい彼の名を。
私より半歩先を行っていたキルハが、立ち止まった私を置いて一歩進む。嫌だ、止まって。私を置いていかないで。私を、一人にしないで――
キルハの歩みが止まる。人の営みが作り出す街という世界。けれど暗い道の中、私とキルハはただ二人だけだった。
その背中に、手を伸ばそうとして。けれどまるで拒絶したように背を向け続けるキルハを前に、私はその手を力なく下ろす。きゅっと握りしめて、こぶしを胸に当てる。祈るように、あるいは、鼓舞するように。
「キルハ。私は、あなたのことが……好き」
強く吹いた風の中。消えてしまいそうなたった二文字の言葉が伝わったかどうか、私にはわからなかった。反応を返さないキルハは、立ち止まったまま。ただそこに立ち続けていた。
「私は、キルハと一緒にいるだけで幸せなの。隣にいてくれるだけで胸が温かくなって、何気ない会話の一つ一つが愛おしくて、無意識のうちに緩んだ微笑が好きで、気遣い屋なところにすごく心が揺れるし、意外と食事のマナーがいいところはちょっと自分のマナーの低さに打ちのめされるところもあるけれど格好良くて、その大きな背中はすごく頼りがいがあって、キルハのにおいだって好きで嗅ぐとくらくらして、だから今朝はとっさに押し返してしまって――」
私は、何を言っているのだろう?途中から自分が何を言っているか定かでなくなって、ひどく恥ずかしいことを言ってしまったような気がした。何を言ったか、わからなくても、自分の中にある熱を、思いを、ちゃんとキルハに伝えられただろうという達成感だけがあった。
果たして、次の瞬間私の鼻は少し汗ばんだにおいを感じた。体が、大きな腕に抱かれて、すぐそばにあるキルハの顔から、息の音さえ聞こえてきた。
強く、強く、私という存在がここにいて、ここで生きているということを確かめるように、キルハは私の体を抱きしめた。
私もまた、おずおずとキルハの体に手を回した。私のそれとは違う、筋肉質な体。肌にはきっとたくさんの傷跡があって、体を動かせば傷がひきつるような感覚もあるのだろう。私と頭一つ分ほど違うキルハだけれど、その体に宿る熱も、早鐘を打つように鼓動を刻む拍動のリズムも、同じだった。
溶け合うように、心臓が互いのリズムを強めていく。私たちという存在が、まじりあい、一つになっていく――
「好きだ、ロクサナ」
「好きだよ、キルハ」
月明かりだけが世界を照らす夜の街で、私とキルハは唇を重ねた。
初恋のキスは、緊張のせいか何の味もしなかった。ただ、幸福感だけがぶわりと全身に広がって。顔を見合わせたキルハは、照れくさそうに視線を逸らしながら笑った。
「それで、私はキルハとどんな約束をしたの?」
月下の街にて、手を握る私とキルハは人気の消えた夜の街を歩いていた。遠くの酒場区域から喧騒が聞こえてくる。吹き抜ける風が、私の体の火照りを奪っていく。けれど私の心に満ちる多幸感を冷やすには、この程度の向かい風では全く足りはしない。
「約束、か」
「そう、約束」
私が忘れてしまった約束なんて、無効だろうか。けれど、私がかつてキルハとしただろう約束は、ひどく大切なものだったはずなのだ。だって、こんなにも心が約束の履行を求めているから。
困ったように笑うキルハが、空いている片手を天に向かって伸ばす。その先に広がる、今は見えぬ星々をつかむように、手がきゅっと握られる。
「ロクサナが僕を覚えたままアヴァンギャルドから解放されたら、話をしようという約束だよ」
「話を……それだけ?」
それだけ、と目じりを下げて告げるキルハを見ながら、私は首を傾げるしかなかった。そんな約束を、キルハは私に隠していたのだろうか。そんな約束を、私は忘れてしまってもなお心のなかで求めていたのだろうか。
いや、たぶん違う。かつての私が願った話というのは――
「ねぇ、キルハ。話って、なんの話だったの?」
「未来の話だよ。明るい、希望に満ちた未来の話。それはたぶん、僕とマリアンヌが一緒にいるとかそんな話ではなくて、もっと、大きな、自分たちが守った世界の未来の話をね、一緒にしようと語ったんだよ」
昔は若かった――そんな日々を込めて、キルハは少し恥ずかしそうに笑って告げた。なるほど、すでに半分ほど叶ってしまった現状、今更蒸し返すというのは恥ずかしいかもしれない。
「だったら、もっとたくさん語ろう?この世界の、さらに未来の話を。そこには……そうだね、キルハが生み出した魔具が当たり前に存在しているなんてどうかな?」
「いいね、それはすごく幸せな世界だよ。そうだね、魔具で明かりが生み出せたらいいかもしれない。街に、まるで星空のように光が満ちることになるんだ。世界は絶えず照らされ、闇の飲まれた世界はもう訪れない。光にあふれるその世界はきっとすごくきれいだろうね」
そんなたくさんの夢物語を語りながら、私はキルハと一緒に宿へと歩いた。
視界に映る端正な横顔に、心の中で言葉を投げかける。
あのね、キルハ。違うよ。たぶん、かつて私が望んだのはそんな話じゃない。私が望んだのは、たぶん、私が死ぬことができる未来だったと思うよ。死を手に入れるための手段を見つけて、死の間際、たわいもない話をキルハとする。そんな時間を、たぶん私は渇望していた。
無事に、死ぬことができる未来。呪いのような時間の巻き戻しの中で少しずつ記憶を取りこぼす絶望の中にあったかつての私の心には、たぶん死という解放への願いだけがあったと思う。この苦しみに満ちた生から解放されて、永遠の眠りにつく。
それは、今の私にとっても抗い互い誘惑の香りがする。
最も、さらにいくつかの記憶を取りこぼしてしまった今の私には、かつての私が何を考えていたのか分かりはしないのだけれど。それでも、そんな絶望に満ちた話を私が望んでいたかもしれないなんてことを、私はキルハに言うつもりはなかった。
だって、私は今、幸せだったから。苦しみしかない生には、キルハが隣にいるだけで無数の幸福に包まれていた。
そんなキルハとの幸福に水を差したくなんてなくて、私は過去の自分を、そっと心の深いところで眠りにつかせた。




