22未来と代償
更新が遅くなってすみません。
「行ったみたいよ」
扉に耳を当てていたマリアンヌが、アベルとキルハが離れていったのを確認して私の方へと振り返った。私はくるまっていたシーツからゆっくりと顔を上げ、周囲をさっと見回した。
確かに、アベルとキルハの姿はこの場にない。
大きく一度深呼吸。
僕はロクサナと一緒に幸せになりたいんだ――キルハの声が耳の奥で響いた。途端に顔が熱を帯びた。多分、私は完熟したリンゴのように真っ赤な顔をしているだろう。
ニヤニヤと笑うマリアンヌから顔を隠すように、私は再びシーツを頭から被った。
視界が塞がれると、代わりに急速に他の感覚が主張し始める。強く鼓動を刻む心臓のリズムを感じた。マリアンヌの衣擦れの音、私の荒い呼吸音。
世界が、刺激に満ちていた。
そっと、顔を出す。世界には、色があった。色が戻っていた。
私の心に広がっていた絶望は、だいぶ吹き飛んでいた。
最も、思い出してしまえば茨が縛り上げるように私の心臓はきゅっと痛んだ。弟は、死んでいた。私は守ることもできず、ただ無意味に呪いを手に入れてしまった。
いくら嘆いたところで、無力を、災いを呼ぶ魔女への覚醒を呪ったところで、何かが変わることはない。全てはもう、過去のことなのだ。弟が死んだことも、私が助けられなかったことも、彼の最期を忘れてしまったことも、全てはもう、過去のこと。
過去は変えられない。変えられるのは、今と未来だけ。だから私は、前を見るしかない。
わかってはいるけれど、そう簡単に割り切ることはできそうになかった。
「それで、あんたはどうしたいのよ?」
「どうしたいって?」
マリアンヌの言葉の意味が分からなくて、私は首を傾げる。
マリアンヌの盛大なため息が私の耳に届いた。眉間をもみほぐすマリアンヌは、顔にかかった前髪をばさりとかき上げると、キッと私を鋭くにらんだ。
「キルハと付き合うのかってことよ」
「付き、合ッ⁉」
「いや、何を驚きの事実を発見したみたいな顔をしているのよ。あんたはさっき告白されたのよ?別に絶対に付き合えなんて言わないけれど、せめてちゃんと答えは返してあげなさいよ」
「え、付き合うって、魔具の製作にとか、そういうオチじゃあ――」
「ないわよ」
私の言葉をバッサリと切って捨てたマリアンヌは、前途多難ね、とぼやきながら背中から勢いよくベッドへと倒れこんだ。私もまた、再びベッドへと体を転がす。
すぐにでも眠ってしまいそうなほどに体は連日の行軍で疲れ果てていて、けれど意識がどこまでも冴えわたっていた。
「私、告白された……の、かな?」
「でしょうね。わたくしの目があんたより節穴でなければそのはずよ。……どうかしら、ちょっと自信がなくなって来たわね。アヴァンギャルドなんて場末の酒場のごとき荒涼とした世界に身を置いていたせいか、心が枯れたままというか、こう恋愛センサーが反応しないわね」
「恋愛センサー?」
なんだかおかしくて、笑えて来た。そんな私をぎろりと睨んで、マリアンヌはやってられないわとつぶやいてベッドに顔を埋めた。
その姿は、とても愛おしいものに思えた。
「……ありがとう」
「何よ?」
「ここまで、一緒に旅をしてくれて。それに、こうして気を使ってくれて」
「ふん。だったらさっさと答えを出しなさい。キルハとどうなるかは勝手だけれど、アベルにまで手を出したら許さないわよ」
「え?……まさか、マリアンヌって」
「…………」
しまった、という後悔の念がマリアンヌから伝わって来た。見れば、彼女の耳は先ほどの私以上に真っ赤に染まっていて、先ほどポロリとこぼれた言葉が何を意味するかを私に示していた。
マリアンヌは、アベルが好きらしい。いや、好きなのかどうかはわからないけれど、赤面するほどには大切に思っているらしい。そう考えてみると、魔物の領域から逃げ出してここまでの一か月以上に渡る旅の間、よくマリアンヌとアベルが二人で話している姿を見た気がした。
それは私とキルハが良く話しているからだというのもあったのだろうが、マリアンヌがアベルのことをまんざらでもないと思っていたから積極的に声を掛けに行っていたのではないだろうか。
きっかけは、多分王国との戦いだろう。あの戦いの中で守られて、普段の変態性剥き出しの時とのギャップにやられてしまったのではないだろうか。男も女もふとした拍子に見せるギャップに弱いものよ――私との血の繋がりを疑いたくなるような美貌を持っていた母の言葉を思い出した。
「少し前までは変態だって毛嫌いしていたのにね」
「うっさいわよ!」
飛んで来た枕が私の顔に直撃した。投げる先を見るまでもなく狙い通りに物を飛ばせるあたり、後衛とはいってもマリアンヌも立派にアヴァンギャルドの――元アヴァンギャルドの戦士なのだなと感慨深く思った。
それから、私たちはぽつり、ぽつりとキルハやアベルについて語り始めた。二人のいい所を挙げる話は、そのうちにマリアンヌによる二人へのダメ出しへと変わっていったけれど、不思議と悪い気はしなかった。
マリアンヌから見たキルハというのも新鮮で、私とは違ったキルハがマリアンヌの目に映っているということに嫉妬しなかったと言えば嘘になるけれど、ためらうことなくバッサリと切り捨てるマリアンヌのセリフ回しが面白くて、私はすっかり聞きに回っていた。
同性相手とこんな時間を過ごすのは初めてではないかと思う。アヴァンギャルドに入ってからは戦闘で一杯いっぱいだったし、村にいた頃は異性に心ときめくことはなかった。それに年齢の近い同性の友人も――いや、そういえば一人いたのだったか。私の幼馴染でもあり、弟の恋人でもあった少女が。私は彼女のことを忘れてしまっているけれど、彼女は今どうしているのだろうか。
一度考えてしまえば、不安が心の中に広がっていった。
彼女は無事だろうか。弟の後を追って自殺なんてしてはいないだろうか。元気でやっているだろうか、今彼女は幸せだろうか。まだ、彼女はあの村にいるのだろうか。――彼女のことを忘れてしまった私には、彼女を心配する資格はないのかもしれないけれど、思いが途絶えることはなかった。
もう一度、村に行くべきだろうか。でも、あそこには私のことを知っている人がいて、私の帰郷はすでに村中に広まっているかもしれない。王国に私たちの存在がバレないようにするためにも、私はもうあの村に行くべきではないだろう。
それに、あの村には弟との思い出が多すぎる。薄情にも最期の瞬間を忘れてしまった私には、あの村をもう一度見るのはつらい。守れなかった無力感に苛まれるから。絶望が心に広がるから。どれだけ幸福という火種があっても、絶望はたやすく私の心を飲み込んでしまう。もう一度あの村に行って、もし弟の恋人だという少女の不幸でもきかされようものなら、私は今度こそ心折れてしまうかもしれない。
「……ねぇ」
急に黙った私の心を見透かすような目でマリアンヌがこちらをじっと見ていた。ベッドに燃えるような赤い髪を投げ出し、ほっそりとした腕で頬杖をついた彼女は、熱い、ともすれば嫉妬の感情が混じった視線で私のことを睨んでいた。
私の暗い感情を見透かされて、うじうじとしている場合かと叱咤されるかと思ったが、違うようだった。
何、と私が聞けば、マリアンヌは少し言いにくそうに顔を歪めた。
「やっぱりあんた、肌、綺麗よね?」
「そう?そんなことないと思うけど」
完全に想定外の方向の発言に、私は目を白黒させながらそう答えた。一体マリアンヌはどうしたというのだろうか。まさか、本気で私がアベルのことを狙うと思っているのだろうか。あるいは、アベルが私に惹かれるかもしれないと考えているのだろうか。まさか、美になんてまったく気を使っていない私とマリアンヌでは、その美しさには天と地ほどの開きがあるのだ。正直、キルハが私をそういう目で見ているというあたりに少々思うところがないこともない。つまり、どうして私なのか、と。
私から見て間違いなく美人に該当する、プロポーションも完璧なマリアンヌ。彼女と寸胴体形な私とでは、十人の男性がいれば九人以上はマリアンヌに好意を抱くだろう。つまり、キルハが変な人ということでいいのだろうか。うん、キルハはちょっと変な人なのだろう。
「何を一人で納得したようにうなずいているのよ?そんなんでわたくしは誤魔化せないわよ」
「誤魔化すつもりなんてないけれど……なんの話だったっけ?」
「ほら、また誤魔化す。あんたの肌の話よ」
「なんだか猟奇的だね」
「~~ッ!わたくしを変態にするんじゃないわよ⁉」
私と同じく人の皮膚を剥いで愛でる変態の姿でも思い浮かべたのか、マリアンヌは怒りに顔を赤くして私に怒鳴った。正直、まったく怖くなかった。マリアンヌの怒りに慣れてしまったからだろうか。
「それで、私の肌がアベルを狙うそれにでも見えるってこと?アベルが目移りしてしまうんじゃないかって」
「そんなんじゃないわよ。ただ……」
マリアンヌが口ごもる。気配が変化した。いい様に振り回されていたはずの彼女は、気づけば張り詰めた空気をまとっていて。顎に手を当てて逡巡していた彼女は顔を上げ、強い光の宿ったまなざしで私を見つめた。
こくり、と小さくのどがなる。揺れるマリアンヌの白い喉元を見ながら、私は宣告を待つ犯罪者のようにじっと体を固くしていた。
「……蘇生、じゃないわね?」
ああ、マリアンヌもとうとう答えにたどり着いていた。それはおそらく、私の魔法に対する言葉。私は基本的に多くの者相手に「自分自身を生き返らせる魔法」として自分の魔法のことを伝えていた。自己蘇生魔法とでもいえばいいだろうか。それは決して間違っている評価ではない。はたから見れば、私はまるで蘇生しているように見えるはずだから。
けれど、正しくはない。私の魔法は蘇生ではなく、回帰魔法、あるいは時間遡行魔法とでも呼ぶべき魔法だから。自分の肉体の時間を魔女に覚醒したその瞬間にまで巻き戻すことであらゆる死をなかったことにする――それが私の本当の魔法。
「薄々おかしいとは思っていたのよ。ケアをしている様子もないのに肌がきれいなままなんて、最初は本当に女の敵だと思ったわよ。でも、それにしてもおかしいと思ったわ。アヴァンギャルドで栄養バランスのいい食事がとれているわけでもなくて、満足な睡眠や休養が取れているとも言い難い状況で、あんたはまるでただの村人のような傷もくすみもない肌や、少なくともそれほどパサついていない髪をしていたんだから」
私は死とともに十五歳のあの日へと肉体の状況が戻る。だから、私の体は、私が望もうが望むまいが、成長しない。死ぬ、限り。
ここはツッコミを入れるところだろうか。気づくポイントが肌のきれいさだとか、正直おかしいとは思う。
「でも、気になって観察してみれば少し違うことに気づいたのよ。わたくしの目には、日に日に肌が荒れていくあんたの姿が映ったのよ。髪も水気を失い、爪はひび割れ、アヴァンギャルドに埋没する艶肌になっていっていたわ」
死んで肉体の状況が戻ったとして、私がおかれた状況はすぐに私の美容を損なう。まあ、美容などと呼べるほどの美しさが私にはなかったけれど。だって、私は平凡な村人だから。
そのわずかな変化を把握できれば、私の魔法の違和感にたどり着くことは容易だっただろう。
そこまで告げて、マリアンヌは口ごもる。決定的な一言を避けるように、必死で目をそらしてきた事実に、否応なしに直面してしまうことに苦しむように。
それは、仲間である私がおかれた残酷な現状を見つめるマリアンヌの優しさだった。
「ねぇ、あんたの魔法の対価は……代償は、何なのよ?」
対価、あるいは代償。それは、魔法によって私が記憶を失ってしまう副作用のことだろうか。私のこれは、たぶんただの辻褄合わせ、あるいは奇跡という言葉も生ぬるい魔法による矛盾の解消のために私を襲うものだ。
肉体の状態の回帰。どれだけ生きても、私は死んでしまったその瞬間に魔法が勝手に発動してしまい、肉体の状況が十五歳の時に戻る。それはもちろん、私の脳だって同じだ。だから普通は、私の記憶だってすべてリセットされてしまう。それを神か何かが哀れんだのか知らないが、私の魔法は私の記憶の一部だけを消してしまう。本来はすべて失うはずだった、記憶の一部を、だ。
だから、私にとって記憶の欠損はただの副作用で、代償と呼ぶようなものではなかった。けれど一度代償と呼んで差し支えないのではないかと思えば、私の記憶は魔法発動の対価として失われて行っていると考えても違和感はなかった。魔法という神秘の中でも、とりわけ異常な肉体時間の巻き戻しによる疑似的な蘇生。その代償として、私は記憶を、私の中にある私の過去を、奪われる。
少しだけ、悩んだ。私の記憶の忘却を、マリアンヌに話してしまうか。けれど、考えて気づいた。故郷での一件から、マリアンヌは私が記憶を失っていることを感づいている。それが魔法によるものか、あるいはアヴァンギャルドという絶望的な状況に置かれたが故のものか、はたまた弟の死を目撃したショックによるものか、その判断はついていないかもしれないけれど。
「……私は、魔法発動時に何かしらの記憶を失っているの」
やっぱり、とマリアンヌは小さくつぶやいた。それから長い溜息とともに天井をにらんだ。全身にやるせなさが満ちているようだった。行き場のない怒りを吐き出すように、マリアンヌは再び、今度は天井に向かって盛大な溜息を吐き出した。
「つまり、あんたのおかしな魔法は記憶を対価にしているということね。蘇生なんて文字通りの奇跡なんてものには大きな代償が必要ってことね」
「本当に代償だと思う?」
「……どういうことよ」
眉間に深いしわを寄せたまま、マリアンヌは私を暗い瞳でにらんだ。その表情に圧倒されつつも、私は自分の考える「副作用」について語った。記憶の喪失は魔法による代償と呼んでいいのだろうかと。
私の話を聞き終えて、マリアンヌは額に手を当てて小さくうめいていた。漏れ聞こえてくる言葉からは、盛大な動揺がうかがえた。時間を巻き戻す――薄々感づいていたのだろうが、それを私の口から聞いてしまったことがよほどショックだったらしい。
「魔法の真実の話、あんたは他の人たちに言いふらしたりしていないでしょうね」
「今、私の魔法の事実を知っているのは、マリアンヌとキルハとアベル、この三人だけだと思うよ。あとは皆、死んでしまったから」
そう、と小さくつぶやいたマリアンヌはたぶん、私と同じように、あるいは私以上のアヴァンギャルドの戦友の顔を思い浮かべているのではないだろうか。死んでいった友。無数の死者の貢献の果てに、私たちは死なず、アヴァンギャルドという立場から解放されて今ここにいる。
マリアンヌは再び思考の海に潜ろうとする。それを、私はさえぎった。ありがとうと、そう告げて。
虚を突かれたらしく、マリアンヌがぽかんと目と口を開いて私を見つめた。
「何よ?」
「だから、心配してくれてありがとう。少し気が楽になったから」
それは、心からの言葉だった。キルハと同じように、マリアンヌも私の魔法が不特定多数に知られてしまうことを危惧して、私の身を守るために助言してくれた。そのことが心から嬉しくて、私は目じりを下げながらマリアンヌにお礼を言った。心配してくれてありがとうと。
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いたマリアンヌの頬は確かに真っ赤に染まっていた。
その姿は愛おしくて、私は小さく笑った。
「その姿を見せていればアベルだっていちころじゃない?」
「こんな無防備な姿をアベルにさらせるわけがないじゃない!幻滅されるのがオチよ」
「そう?今のマリアンヌはすごく可愛いと思うよ。それに、恋愛の駆け引きにおける必殺技はギャップを見せることでしょ」
「……ギャップ?というか、あんたに語れるような恋愛スキルがあるっていうの?」
「ううん、私じゃなくてお母さんの言葉」
ああそれなら納得だわ、と失礼なことを言いながら、マリアンヌは私が投げ返した枕をぎゅっと握ってそこに顔を埋めた。
「ギャップ、ギャップね……そのうち、試してみるわ」
そう告げるとともに、マリアンヌは枕をぽふんと叩いて顔を上げる。真剣な視線を受けて、私も再び意識を切り替える――なんてことはこの非戦闘時にすぐにはできなくて、私の意識は相変わらず緩んだままだった。
「話を戻すわよ。たぶん、あんたの記憶は魔法の対価として成立しているわ。魔法なんて不思議現象であれば、記憶を完全に保ったまま肉体の時間を巻き戻すことだって不可能じゃないはずよ。そこにゆがみが生じたように記憶が失われているのだとすれば、それは立派な代償ね」
「……つまり、魔法の発動には記憶が必要、だってこと?」
そう、とマリアンヌは小さくうなずいて。それからためらうように次の言葉を飲み込もうとする。私は、ともすればにらむようにマリアンヌを見て、次の言葉を求めた。
溜息が聞こえた。仕方ないわねと告げたマリアンヌは、代償の意味を告げた。
「あんたは、代償となる記憶を有していなければ魔法を発動できなくて死ぬわよ」
私は死を繰り返し、記憶という代償のストックをすべて失ったその時には、死を迎えることができる。
その事実は、永遠に続く可能性のある死を憂いていた私にとっては福音に等しい言葉でもあった。
少しだけの歓喜を込めて、私はその事実を話してくれたマリアンヌに礼を言った。たぶん、私は求めていた死の可能性を手に入れて浮かれていたのだろう。だからマリアンヌが心配げに瞳を揺らして私を見ていたことに、ついぞ気づくことはなかった。




