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白百合の涙  作者: 雨足怜
放浪編

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21/96

21真実と告白と

「まさかあんた、ロクサナかい⁉」


 老婆が、その顔を怒気に染めた。まるで体の奥底で残るありったけの生命力を燃やしているように、隠れていた目が大きく見開かれ、眦が吊り上がり、わずかに残る歯をむき出しにして、老婆は杖を振り上げた。僕が意識を奪い、床に倒れていこうとしているロクサナへと。


 衰えを知らぬ動きで振り上げられた杖は、僕たちの前に割り込んだアベルの肩を打った。

 一度、二度。いくら怒気に任せて驚異的な力を発揮しているとはいえ、鍛え上げられた巌のような肉体を持つ、痛みに快感を覚えるアベルという壁を破るには、老婆の力は全く足りていなかった。


「どきな!あたしゃそこの悪魔を倒さなければならないんだよ!」


 顔を真っ赤にして殺意のこもった言葉を叫ぶ老婆を見ながら、心が冷えていった。こいつは何を言っているのだと、声にならない疑問が心に浮かぶ。


 老婆は叫び続ける。ロクサナのせいで、親友一家はおかしくなったのだと。

 二人は死に、長男も死に、そしてロクサナはなんと魔女であった。悪い魔女が、三人を呪い殺したのだ――老婆がそう考えるのは、今の社会では自然なことだった。


 ロクサナの家族に訪れた不幸は、偶然のものだ。かつて、まだ瞳に一切の希望の光を持っていなかったロクサナは、睨むように星空を見上げながら、僕に家族のことを語った。魔物に食われてしまった両親のこと、自分の目の前で、体内の怪我のせいで血を吐いて死んだ弟のこと、そんな弟の横で、絶望の悲鳴を上げている少女のこと。

 鬱々とした気配を漂わせながら、悔いるようにロクサナはそのこぶしを握った。そしていつも、繰り返した。私にもっと力があれば、皆を守れたかもしれないのに、と。


 彼女は決して、物語に登場するような悪い魔女などではない。その魔法は他者を害するための直接の力にはなりえず、そして何より、身内に訪れた不幸を防ぐことができなかったことを悔いるロクサナは、暗い失意の滓の中で、再び立ち上がって見せた。


 それなのに赤の他人でしかない者がロクサナを悪魔だなどと表現して殺意を向けているのが、許せなかった。ロクサナはそんな人ではないと、説き伏せてやりたかった。けれど、それはきっと無駄なことだと、僕は知っていた。


 魔女嫌いの者は、魔女もまたただの人間でしかないということを理解しない。理解できないし、理解しようともしない。そこには明確な拒絶があって、そういった人達のせいで、魔女たちは一層に悪い状況へと追いやられている。

 目の前の老婆もまた、そんな魔女を悪とする風潮に染まり切った人間で、僕は彼女をただ目の前から消してしまいたいと思った。


 外套の下、隠すように腰に提げていた剣へと、無意識のうちに手を伸ばした。人類にとって救いになることを望んで開発した、魔具。僕はそれを、自らの手によって人の血で汚そうとしていた。

 そう気づいて、僕は手を止めた。自分にとっての芯である魔具の在り方を心の中でゆがめるほど、目の前の老婆を害することは重要なのかと、そう己が問いかけた。

 動きを、止めて。


「お前はその手を悪に染めるな」


 そんな言葉とともにアベルが老婆に手を伸ばして、ヒステリックな叫びは消えた。

 老婆の体が、だらしなく玄関に倒れる。


「行くぞ。……ああ、キルハは、ロクサナの弟の恋人、だったか?彼女の現在を調べてから来い。ロクサナにとって、その情報は未来に進むための力に……なる可能性があるからな」


 僕が支えていたロクサナをひょいと担いだアベルが、マリアンヌに一瞥をくれて家を出ていく。そこには、もう息をしていない一人の女と、たぶん死にそうな顔をしている無能の姿があった。ロクサナが自殺するかもしれない――アベルによって突きつけられた可能性に、僕は恐怖で震えていた。


 ロクサナの幼馴染の少女であり、ロクサナの弟の恋人。彼女が死んでいるという話を、僕はロクサナから聞いていなかった。ロクサナが知る限り、その女性は生きている。彼女が幸せな日々を送っていると知ることができるだけで、ロクサナは自殺をやめるだろうと思った。ロクサナの話によると、その少女を救ったのはロクサナ自身だということになるから。自分が救った女性が、今も幸せに生きている。それは、ロクサナの眼を前に向けるための希望になるはずだ。


 ああ、僕はロクサナに生きていてほしい。絶望の淵から立ち直った彼女に、前を向いて歩いていてほしい。そしてかなうならば、僕はその隣に立っていたい。

 ロクサナに希望をもたらすように。かつてのように絶望に染まった状態へと逆戻りしてしまわないように、僕はロクサナにとっての唯一の希望となるだろう少女その後に関する情報を集めるために、村の中心へと進んだ。


 それから、三時間。

 僕が手にしたのは、その女性が行方不明になっているという事実だけだった。






「……帰ったか」


 いつからか空は曇天に染まっており、ぽつりぽつりと滴る雨がフードに打ち付けて小さな音を響かせていた。そんな雨で、気づけば髪がぐっしょりと濡れてしまっているほど、僕はアベルたちの気配を感じる宿の前に立ち尽くしていた。僕を押しのけるようにして宿に入っていくものが不審感を隠しもしない目で見てきたけれど、そのことが意識に上ることはなかった。


 僕は一体、どんな顔をしてロクサナに会えばいいのだろう。さらには、ロクサナが自殺してしまうかもしれないという事実に、心は凍り付いたように体への命令をやめていた。

 今だけは、ロクサナが死ねないという事実が心から救いに思えた。ロクサナは自分の魔法を呪いのようだと思っていることを知っているから、決して本人には言えないけれど、絶望的な戦いにおいてもロクサナが必ず生還するというのは、アヴァンギャルドでの戦いにおいて僕が目の前の勝負に集中するためには欠かせなかった。ロクサナの死を心配しなくていいというのは、本当に、重要なことだった。

 呪いが、ロクサナを自殺から守ってくれる。そう思えばこそ、呪いの魔法に僕は心から感謝の祈りをささげた。


 そして、ふと気づく。ロクサナの魔法は、自殺にも効果があるのだろうかと。ロクサナが自殺を試みたという話は聞いたことがなかった。深い絶望の中にあっても、それでもロクサナは生きることをあきらめてはいなかったから。もし、ロクサナの魔法が自殺に対しては効果を発揮しないとしたら、彼女は自ら命を絶つことで、この世界から立ち去ることができる。


 ロクサナのいない未来が、訪れる。そこには、何の希望も救いも見いだせなかった。


 僕のことに気づいただろうアベルが、宿の扉を開いて顔を出した。濡れ鼠と化している僕を見ても、彼は何の反応も返すことはなかった。ただ視線で入ってくるように告げる彼の心遣いがありがたかった。もし今彼が口を開いていたら、あるいは何か反応を見せていたら、僕は瞬時にその場から逃げ出していただろう。

 ロクサナの死を伝えるための言葉だと、あるいはロクサナの死によって後を追いかねない僕を気遣っての反応かもしれないと思って、続く言葉から逃げるために、僕は脱兎のごとく逃げ出す――可能性もあった。


 大きな背中をぼんやりと見ながら、ギシギシと軋む階段を上る。

 無言で指をさされた先には、何の変哲もない宿の一室の扉があった。動くことない僕に感情の見えない一瞥をくれてから、アベルは木製の取っ手をつかみ、開いた。


 部屋の中はひどく狭くて、二つのベッドがぎゅうぎゅうに並べられていた。それでもまっとうな値段の宿だったのか、広がるベッドのシーツは雪が積もった銀世界のような純白をさらしていた。そして、そんな清潔感あるベッドの片方に、ロクサナが眠っていた。

 周囲に不自然に血が飛び散っていたり、ロクサナが呼吸をしていなかったりという事実はなくて、僕は足から力が抜けてへたり込んだ。


 マリアンヌもアベルも、何も言うことはなく、僕から視線を外してロクサナをじっと見た。

 無言の時が、過ぎていった。

 僕たち三人は、ロクサナという人間を中心に成立した人間関係の中にあったのだと、気づかされる。


 死なないロクサナは、僕たちが心開ける唯一といっていい存在だった。その遺体を見ることも見送ることもなく、変わらぬ日常として存在し続ける人。日常として、生き続けてくれる者。それこそが、僕たちにとってのロクサナで。

 ロクサナは僕たちにとって、死を忘れさせてくれる救いだった。


 だから、死と隣り合わせの生活の中で、僕たちは誘蛾灯に引き寄せられるがごとくロクサナの周りに集まった。


「……記憶を、失っているのよね?」


 半ば断定めいた響きを持つマリアンヌの疑問に、僕は何も答えられない。ロクサナに相談せずに言いふらしていいことではないから。ロクサナは記憶を失い、蘇生する。その事実はロクサナという人物が軽く扱われることに繋がりかねない。死なないのだから、忘れてしまえるのだから、そう言ってロクサナを傷つけたアヴァンギャルドの者を、僕は知っている。

 彼女は、戦いの中であっけなく帰らぬ人となったけれど。


 そしてさらに、ロクサナがただの蘇生ではなく自分の時間を過去に巻き戻しているということが知られたら。不老不死にも等しいロクサナをめぐって国が動き出すことは想像に難くなかったし、美を尊ぶマリアンヌとて平静ではいられないだろう。

 黙ったままでいるしかなくて、けれど否定しないことがすでに答えだった。


 そう、とマリアンヌは小さくつぶやいて、それからベッドの上で横たわるロクサナへと視線を移す。

 まるで、死んでいるようだと思った。呼吸によって胸元が上下しないのは、そのかすかな動きによって生じる衣擦れの音で魔物が近づいて来てしまうから。

 呼吸の音を含めて、一切音を立てないロクサナは、永遠の眠りについているように見えてならなかった。


 怖くて、その手をそっと伸ばした。顔に触れようとして躊躇い、手を握る。

 温かかった。ロクサナが生きているという確かな証がそこにあって。安堵からか、思わず涙がにじんだ。


「ようやく少しはまともな顔になったわね」

「そんなに変な顔をしていたかな?」

「それはもう、死にそうな顔をしていたわよ。ねぇ?」

「まあそうだな?愛を誓い合った恋人を失った、悲劇のヒロインのようだったぞ」

「いやヒロインって……僕は男なんだけどね」

「ロクサナが守られるヒロインってキャラか?」

「……いや、違うか」


 まあ、僕がヒロインだろうがヒーローだろうがどうでもいい。大切なのは、ロクサナが死なず、幸せに生きることだ。


「……ロクサナは、物語の主人公じゃなくていい。度重なる悲劇に襲われる存在じゃなくて、平穏を享受して、ありふれた幸せの中で生きていく人であって欲しい」

「『僕がロクサナを幸せにするんだ』じゃないのね」


 つまらなさそうに肩を竦めるマリアンヌを、真っすぐに見据える。たじろいだように一歩下がった彼女は、「何よ」と焦ったように叫んだ。

 胸に、手を当てる。そこには僕の激情があった。ロクサナを思う、強い気持ち。それをマリアンヌに代弁されたような状況に、自分は不快感を抱いていた。


「ロクサナは大切だよ。でも、幸せにするんじゃない。僕はロクサナと一緒に幸せになりたいんだ」

「照れてるな」

「いや、照れてないけど?」


 背後から投げかけられたアベルの言葉を聞いて、僕は反論しながら振り向いた。自分でも、顔が熱いことがいやというほどわかった。

 アベルは僕の方を見てはいなかった。その視線は、僕より手前、真っ白なシーツの上へと向けられていて。そこには、両手で顔を覆って小さく身もだえするロクサナの姿があった。


「……可愛い」


 思わずつぶやけば、ぼふん、とロクサナの頭が沸騰した。ぐるぐるとシーツをベッドから引っぺがし、その中にくるまって身を隠すロクサナが愛おしくて仕方がなかった。

 ああ、僕はロクサナが好きだ。ロクサナに笑っていた欲しい。僕に対して笑いかけてほしい。僕と一緒にいて、幸せに感じていてほしい。


「あー、ゴチソウサマ」


 どこか固いマリアンヌの声と共に、僕は勢いよく背中を押されて部屋の外へと押し出された。文句を言おうと振り向いた先には、同じく外へと追い出されるところだったアベルがいて。その分厚い胸元にぶつかり、目がチカチカした。


「ここは女性の部屋よ。男どもはさっさと自分の部屋に帰りなさいよ」

「……彼女はもう大丈夫だろう。後はマリアンヌに任せて置け」

「そう、だな」


 釈然としないものを感じながら、閉じられた扉を一瞥する。

 ロクサナは多分、大丈夫だ。そう確信があった。あるいは、そう希望を持った。僕という存在があれば、ロクサナは自殺なんてしないだろうと思った。しないでくれるといいなと、思った。

 これでもロクサナと積極的に交流を続けて来たのだ。いくつかの記憶はなくなってしまっているようだけれど、ロクサナの中には確かに僕がいて、だからこそ先ほどの言葉も、しっかり伝わっただろう。

 先ほどの、言葉も――よく考えたら、あれはもはや告白だったのではないだろうか。好きだというのと何が違うというんだ?だとすれば、僕はまだロクサナから返事をもらっていない。返事を、僕はもらわないといけない。


 ロクサナは僕の想いに応えてくれるだろうか。そもそも、ロクサナは僕の言葉を告白だと受け止めてくれているだろうか。自分の美しさに無頓着な彼女は、恋や愛の類にかなり疎いようだから正直心配でならない。

 けれどいつまでも女性陣の部屋の前でうろつくというのも紳士が行う行為ではないので、僕は心配と緊張で胸が張り裂けそうになりながらも、アベルの背を追って部屋の前を去った。

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