20帰郷
翌朝。うなされるマリアンヌの声によってまだ日も昇らないうちから目が覚めた私は、昨日のうちに用意しておいた水で顔を洗い、活動を開始した。
今日の朝の見張りはキルハで、私が向かった先では焚火の中を枝でかき回している姿が見られた。そうしていると、普段とは打って変わって子どもっぽく見えて、私はキルハの新たな一面を垣間見た気がしてうれしくなった。
あるいはそれは、本来のキルハという人物の人間性が見え始めたということかもしれなかった。戦場という気の抜けない状況ですり減っていた心が回復し、あるいは戦いのために心の奥底にしまい込んでいた人間性が、再び顔をのぞかせたのではないか。振り向いたキルハが、楽しそうに目じりを下げながら私に笑いかける。
あくびをしながら手に持っていた枝を焚火に放り込むキルハを見ながら、今の彼も格好いいなと、私は思った。
キルハの前に夜番についていたマリアンヌが化粧という仮面を完璧に纏って現れるまで、それから約二時間。昇る朝日を見ながら、私はキルハとたくさんのたわいもない話をした。食べ物の好き嫌いの話、昔飼っていた家畜の話、弟の失敗の話、町に税を納めに行った両親が道中で拾ってきた宝物の話。キルハは妹と弟の話や、研究における大失敗、近所のガキ大将との勝負などを面白可笑しく語ってくれた。
幸せだった。それらの話は、すでに以前キルハと語り合った話かもしれなくて。それでも、私の中に新たにキルハに関する記憶が蓄積していくことが、私は嬉しかった。これだけ記憶が蓄積していれば、キルハのことを忘れずに生きていけるのではないかと思ったりもした。
そんなことはないのに。
魔法による記憶の喪失は、その対象も量もまちまちだ。たわいもない、例えば前日の食事に関する記憶だけを忘れることもあれば、一人の人間についてすべてきれいさっぱり忘れてしまうこともあった。つまり、私はたった一度死ぬだけで、キルハに関する記憶をすべて失ってしまうかもしれなくて。
そんな現実から必死に目をそらすように、私は前のめりになってキルハと語り続けた。大丈夫、私はもう、戦いの中にいない。私は死ぬことはなく、記憶を胸に抱いて、記憶を失ってしまう恐怖から解放されてこれからを生きていけるのだ――
そうして、マリアンヌに続いて朝っぱらからウサギを狩りに行っていたらしいアベルが帰還するのを待って、私たちは旅の終着点となる村へと、私の故郷へと向かった。
子どもの腰ほどまでしかない低い木の柵。蔓を結って作った縄で縛ったそれは、ひどく頼りなさげな防壁だった。最も、こんな辺境の村にさしたる防御機能は必要ない。時折ふらりとやってくる動物避け以上に、村から幼い子どもが勝手に出ていかないようにするための柵という役割のほうが大きいそれを、私たちは一息に飛び越える。
子どもの頃の私にとっては、村と外の世界を隔てるはるか大きな壁だったそれは、もはや私の出入りを阻むものではなくなっていた。
ひょいひょいと軽い身のこなしで村に入った私たちを待っていたのは、広い畑と、点在する建物。アヴァンギャルドの拠点一帯で散見された家屋よりもぼろい見た目をしている木造の建物がそこにあった。
ぼろい、というのは私の主観によるものだ。かつての私にとって、村の家屋はもっと安心感のある建物だった。力なきただの村人でしかなかった私を雨風から守ってくれる、心休まる場所。けれど魔物という脅威を知り、吹けば飛ぶように倒壊していった家屋の姿を覚えている私にとって、村の建物はまるで子どもが見よう見まねでこしらえた秘密基地のようにしか見えなかった。
木々の緑と、広がる作物と、あぜ道と、家屋。辺鄙なところというマリアンヌの言葉に肩をすくめて返し、私はなるべく気配を消して村の中を進んだ。
ちなみに、今の私たちはいかにも旅人といった装いをしている。土で茶色く汚れた麻布の服に、くたびれた靴、フード付きの外套というそろいの姿である私たちは、ごろつきとまではいかなくとも、浮浪者の類に見えるかもしれなかった。マリアンヌは少し渋ったが、できるだけ村を刺激しないようにという私の要求を呑んでくれて、マリアンヌは身に着けていた軍服のような装いから、みすぼらしい姿へと変貌を遂げていた。
その対価に、私はマリアンヌが魔法によって木の幹から即興で作り出したおかしな仮面を被る羽目になったが。
木の皮が表面に張り付けられたように存在し、そこに目と口の部分だけぽっかりと空いた穴がある仮面は、フードで顔の輪郭を隠している中、山賊か特殊な魔物のように見える姿だった。あるいは、山の奥に潜むという少数民族たちの伝統的な装い、といったところだろうか。
その姿を見てひとしきり笑ったマリアンヌの声が耳朶の奥で響いていた。
私は気を取り直して、村の中を進んだ。畑で仕事に励んでいた者たちが見知らぬ私たちの姿を――異様な仮面で顔を隠した私を――見て、ぎょっと目を見開いた。中には腰を抜かして地面に座り込み、神に救いを求める者すら現れる始末だった。彼らを見ながら、ここにディアンがいればそれはもう盛大に笑ってくれただろうなと、そんなことを思った。響かない笑い声が、なぜだか無性に懐かしく思えた。
村へは、専用の入り口がある。とはいえかつてふらりとこの村を訪ねてきた旅人やハンターの類は、その門から律儀に入ることはなく勝手に村の領域に侵入していた。私もそれを習った形で、村に入ることにしたのだが、その理由は二つ。
一つは、目的は私の弟を見ることであり、それが終わり次第すぐに村を去って近くの街に移動するつもりだから。なるべく村人たちの記憶に残らないようにしようと考えていた(仮面のせいで目立つことこの上ないが)ため、村の中でも権力を有する者たちを中心に、家屋が集まる門付近に近づくことはなるべく避けたかった。
そして何より、私の家が村の外れに近い場所にあるためだった。
私は、無意識のうちに足を止めた。視界の先に、懐かしい――とはいってもあまり覚えもない一軒の建物が目に映った。郷愁の念は、浮かばなかった。それもそのはずで、私は生まれ育った家のことを忘れていた。こんな大切な記憶さえ忘れていたということを知り、私は自分の足元が崩れるような錯覚を覚えた。
体が、揺れて。背後へと倒れそうになった私の背中を、力強い男性の手が支えた。
キルハに支えられて、私は倒れるのを免れる。心配そうに私の顔を覗き込んだキルハが、尋ねてきた。
あれが、私の家かと。
うなずいて、そして。私はかつて自分がよく座っていた道脇の岩へと歩を進め、そこに腰を下ろした。キルハたちも、黙ってそこに腰掛け、あるいは背中を預けた。
涼やかな、どこか塩気を感じる風が吹いていた。揺れる麦畑は、まだ青い。視界いっぱいに広がる世界は、私の知るそれと全く変わりがなかった。唯一違うのは、私が忘れてしまった家が異物に見えることと、遠くに完成した教会の大きな建物が見えること。
畑に弟の姿はなかった。家にも人の気配はなく、どことなく他の家屋に比べてもさびれてしまっているように見えた。
まるで息絶えてしまったようだと思った。私という魔女を生み出してしまった家は、呪われた場所として使われなくなってしまったのだろうか。弟は、魔女の家族として村で排斥されたりはしなかっただろうか。
今になって、私は弟がおかれている状況の悪さを考えた。アヴァンギャルドという死と隣り合わせの場所で心の奥底へと追いやっていた――そうしなければすぐに死んでしまうような過酷な場所だった――思考が、泡沫のごとくとめどなく浮かび上がっては、消えた。その多くはもう、過去の話だ。そして私の知る弟ならきっと、その試練を乗り越えることができるはず。
だって弟には――弟、には?
「……何?」
思考が言葉に漏れて、どうしたのかと尋ねようか迷っているように、キルハの気配がわずかに揺れた。そのことを意識から追い出しながら、私は自らの思考を問う。
私は、今何を考えようとした。弟は大丈夫だと思った、その根拠は、理由を考えようとした。その理由は、何だ。どうして私は、弟は大丈夫だと根拠もなく思っていたのか。両親を失い、それまで保護者として役割を果たしていた姉も、魔女という立場で村を追われ、天涯孤独になった弟。彼がどうしてこの村で幸せにやっていけると、私は根拠もなく考えていたのだろう。本当に、弟に幸せな人生が待っていると、そんな生ぬるいことを私は考えていたのか?アヴァンギャルドなんて、人間の闇の部分を凝縮したような世界に身を置いていて、それでもなお私はそんな子どもじみた夢を思い描いていたのか――
いや、たぶん違う。この感覚には覚えがある。私が、記憶を失っている証。まるでそれまで繰り返した思考の架け橋が気づけば姿を失っていて、そこで思考が止まってしまうこの感覚は、魔法による記憶の喪失のそれだった。
「……キルハ、私の弟について、私はどんな話をしていたの?」
キルハはちらりとマリアンヌの顔を一瞥する。不思議そうに私たち二人を見ているマリアンヌは、おそらくまだ私が魔法によって蘇生するたびに記憶を失っていることを知らない。だから、今の私の言葉でその事実がマリアンヌに知られてしまわないかとキルハは危惧したのだろう。にくいほどの気遣いに内心で大いにうれしく思いながらも、私は逃がさないとばかりにキルハを真正面から見ながら言葉を待った。
やがて、ため息を一つついて、キルハはその口を開いた。
「些細な話と、出来のいい弟自慢だけだったよ。幼いころからあまり手がかからなくて、家のなかで一人、見立て遊びをすることが好きな子で。初めてロクサナのことを『ァナ』と呼んでくれたのが二歳になってしばらくのことで、雷雨の日には怯えて布団に潜り込んできて温かかっただとか、そんな感じかな?」
ああ、そのあたりのことは話した覚えがあった。けれど同時に、キルハの口からその話をされて、なぜだか無性に気恥ずかしさを感じた。一体私は、キルハにどこまで弟とのエピソードをさらけ出しているのだろうか。
キルハに対する私の尊敬度が、あるいは弟好きが透けて見えてしまいそうで、頬が熱を帯びた。
でも、そうじゃない。私が望んでいるのは、弟の将来に関する話だった。
「……もっと他に話していなかった?例えばこう、弟は将来こうなるだろうな、とか、今はこんな感じで生活しているんじゃないかな、みたいな、未来を語るようなことを――」
何を言っているのだ、とキルハが私を見ながら不思議そうに首をひねって。それから納得がいったように一つうなずいて、遠くを見た。その目は、どこか不吉な光を帯びていたような気がした。
風が吹く。フードから漏れていた私の一束の髪が、ぱたぱたとはためいた。
じっと、キルハの言葉の続きを待った。
「……ロクサナの弟さんは、幼馴染、っていう話だったか。想い合っていた美しい少女と夫婦になって子どもを設けているんじゃないかって、そう話していたよ」
「幼馴染の、美しい少女?あの子と恋仲の……?」
「そう。確か、金髪碧眼、白い肌の美しい少女だって話していたよ。名前はアマーリエ」
頭を両手で抱える。どれだけ絞っても、キルハの言う少女の記憶は私の中から出てくることはなかった。ああ、それはそうだろう。だって私は、その少女のことを忘れていたのだから。
なるほど、確かに想い合っている恋人の存在があれば、弟はどれだけの逆境の中にあっても生きていくことができただろう。ひょっとしたら、私の知らない彼女と新天地へと旅立ってしまっているかもしれない。姉が魔女であったという悪評が広まるこの場所は二人にとってひどく生きにくい世界で、そして若い二人が新天地へと旅立つ決意をしたことは想像に難くない。
まるで吸盤のようにぴったりと張り付いていた腰を岩から上げ、私は足早に家へと向かった。
鍵は、かかっていなかった。建付けの悪い扉を乱暴に開け放った、そこには、うっすらと埃が積もった、生活感のない室内が広がっていた。
何も、なかった。そこに何があったかは思い出せなくても、何か大切な品々があったと思わせる場所を、私は視線で追った。けれど、私の眼は生活感を感じられるものを何一つ目にすることはできなくて、そこにはただ、鎧窓の隙間から差し込む光に照らされた、宙を舞う小さな埃しかなかった。
「おや、その家に何か用かね?」
ひどくしゃがれた、滑舌の悪い声が聞こえてきた。懐かしさが心を震わせた。隣の家――といっても十五メートル近い距離があるが――に一人で住んでいた母の友人の女性だった。両親が死んでからも何かと目をかけてくれていた彼女の面影を残した老婆が、振り向いた私の視線の先に映った。
お久しぶりです――口の中でそう告げて、私は目じりににじむ涙をぬぐおうと手を持ち上げた。その手は、仮面にさえぎられて顔に届くことはなかった。
ぼやけた視界の中、痩せて落ちくぼんだ目が肉に隠れてほとんど見えない老婆は、杖を突きながらゆっくりとあぜ道を進んで私たちのほうへと歩いてくる。
「……この家に住んでいた子を……ラスタを、知りませんか?」
懐かしい、もはやどれだけ呼んでいなかったかわからない弟の名を告げた。口は、まるでその音が世界に響くのを拒むように、うまく動かなかった。
ラスタ?と老婆が異様に大きな声でその名を復唱する。耳の聞こえが悪いのだろう。曲がった腰に、顔のしわ、真っ白に染まった髪や棒切れのように細い手足から、彼女はもう相当な高齢に至ってしまっているのだとわかる。どうか弟のことを忘れていないでくれと、その今がわかる情報が少しでも得られますようにと、そう願いながら。
そんな私の狭い視界の中で、苦い顔をしているキルハの表情がひどく印象的だった。やめろと、その続きを聞くなと、その顔は告げているようで。
ポン、と勢いよく打たれた老婆の手によって、私の意識はキルハから彼女のほうへと戻った。懐かしい彼女は、私の仮面など見えていないように恐怖を感じた様子もなく、絶望につながるその言葉を告げた。
「この家に暮らしていた子なら、ラスタなら、もうずいぶんと前に死んだよ」
世界が時を止めた気がした。音を失い、色を失い、動きも失い、ただ心臓の鼓動だけが、痛いほどに時を刻んでいた。
震える手を、ギュッと握る。嘘だと、ボケた老人の勘違いだと、そう言い聞かせた。
生きているはずだ、弟は生きているはずだ。だって、彼は私のことを見送ってくれた。彼には愛する恋人がいて、想い合う恋人と二人であれば、魔女である私という存在を足かせとすることなく前に進んでいけるはずだから――
「本当、に?」
「あたしが嘘をついて何になるってんだい?ラスタは死んじまったよ。もう……七年近くも前になるかね。ごろつきのハンターに襲われた際の怪我が祟って、ぽっくりと逝っちまったよ。あれは確か、魔女として連れていかれることになった姉を見送っているときじゃなかったかね――」
老婆の声が、再び消える。とめどなくあふれる涙が、衝撃が、私を世界から隔離した。
弟が、死んだ?七年前に、死んだ?ハンターに襲われた怪我が原因で。ハンター……ああ、私が殺した彼のことだろうか?弟は、あの時致命的な怪我を負ってしまっていた?私は助けられなかった?弟は、死んだ――そんなはずがない!だって彼は、私を見送ってくれた!暗い顔で、それでもうつむくことなく、ただ一人夜の村の外で、私を見送ってくれた。あるいはそこには、私が忘れているだけで弟の恋人の姿もあったかもしれない。
弟は生きているはずだ。だって彼は、私の前で死んでなんかいない――
本当に、そうか?冷静な思考が、冷酷なまでに私に真実を突きつけようとする。
そうだ。大丈夫だ。弟は死んでいないそれが真実だ。
そう言い聞かせるのに、心の声は止まってくれない。私に現実を突きつけようと、ささやき続ける。
覚えがあるだろう?この感覚を私は知っているだろう?これは記憶喪――
「違う。違う違う違う!」
強く、爪を掌に食い込ませた。その声を黙らせるために、痛みを与えた。叫んだ。
けれど、心の声は止まってはくれなくて。私は髪を振り乱した、掻き毟り、叫んだ。弟は死んでいない、弟は、彼は今も――
カラン、と三和土に転がった仮面が乾いた音を響かせた。私の狂乱に気圧されていただろう老婆の気配が、変わった。
何かを探るような視線を感じた。その視線に、嫌悪と怒りが混ざる。
「まさかあんた、ロクサ――」
そこで、私の意識は途絶えた。たぶん、キルハか誰かが私の意識を刈り取ったのだろう。これ以上事態が混迷を極めないように。
私は暗闇の中で誰かに担がれながら、ただ頬を伝う涙の熱だけを感じていた。
弟には、幸せな未来なんてなかった。それどころか、未来さえなかった。彼は、私が魔女として覚醒するに至ったあの戦いのせいで、私の前で死んでいて、私はそれを忘れていた。
私は何も守れていなくて、そしてまるで弟の命を食らうように、魔女として生きながらえていた。
呪いのような、魔法を手にして。
私が魔法を手にした意味は、何もなかった。
やっぱりこの魔法は、呪い以外の何物でもない。




