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白百合の涙  作者: 雨足怜
アヴァンギャルド編
2/96

2生と呪い

「おお、デュカキスじゃないっすか!」


 歓声を上げた軽薄そうな男の名はディアン。女性の靴下に目がない変態であり、かつては世界に名をとどろかせた凄腕の窃盗犯でもあったという。ちなみに、平穏な村で生まれ育った私は、ディアンのことを知らなかった。


 アベルとは別種の変態であるディアン曰く、脱ぎたてでほどよい湿り気と温もりが残った靴下に鼻をこすりつけてにおいをかぐのが最高なのだという。その盗みの手腕は感嘆に値するもので、人の一瞬の死角と気の緩みをかいくぐって素早く獲物を手にする動きは目を見張るものがあった。一度靴下を奪われてからは、私は彼の前で決して隙を見せず、靴を脱がないようにして身を守っている――というか被害にあったアヴァンギャルドの女性陣は皆、ディアンという変態の魔の手から逃れるためにそもそも彼に近づこうともしない。

 私たちは変態に靴下のにおいをかがれて楽しむ趣味はない。

 ただでさえ神経をすり減らす危険地帯で一体何と戦っているのかと思うかもしれないが、こういうどうでもいいことがあるからこそ、私たちはこの場所で生き続けている。ずっと死と向かい合って気を張り詰めていては限界などすぐに訪れる。おそらくディアンのような存在がいなければ、私たちは完全に心が擦り切れた人形のように魔物と戦い、生きるために抗うこともなくあっさりと死んでいっただろう。


 もちろん、ディアンに感謝などしていない。するわけがない。変態など滅べばいいと思うし、自分の靴下を顔に押し当てて恍惚とした表情を見せていたディアンを目にした時には殺してやろうと思った。最も、伊達に私より早くアヴァンギャルドに属しておらず、そして身のこなしや駆け引きでは他の追随を許さない――靴下泥棒のために磨いた技術だというあたりに思うところはあるが――ディアンに一撃も食らわせることはできず、私は力尽きて地面に倒れこんだ。


 ……嫌な記憶を思い出した。料理中に靴下のにおいについて考えさせるなんて許されない。


 素早く包丁を突き出したけれど、ディアンはまるで最初から私の攻撃なんて予測していたというように首をわずかにかしげて攻撃を躱して見せた。

 変態は死んでしまえ――そう思いながら舌打ちを一つこぼせば、さすがに顔を青ざめさせたディアンが口をとがらせる。


「ちょっと、その包丁デュカキスの血がついてるっすよね⁉そんなもので攻撃してくるとか正気っすか⁉」


 その軽薄そうな語尾も気に食わない――というか以前はもう少しこう、寡黙なタイプだった気がするのだけれど、私の気のせいだろうか。


 ディアンが指さした包丁へと視線を向ける。そこには、べったりと張り付いた青い血がてらてらと炎の輝きを反射してきらめいていた。ちなみに、私の手元を照らしているのは前方で盛大に立ち上がる巨大な焚火の光だ。騒ぐのが大好きな男がこれでもかと薪を放り込み、器用に積み上げているのが視界に映った。

 それから、目の前にあるまな板の上の魔物の死体に視線を移す。


 先ほどからディアンの言っているデュカキスとは、陸上を歩くイソギンチャクのような生物だ。イソギンチャクをひっくり返したような外見で、無数の触手を地面にだらりと下げて、それによってちょこちょこと地面を歩く一風変わった、外見は気持ち悪いの一言で表される魔物のことだ。戦いの中で飛び散る青い液体は猛毒で、危険性も高い。

 けれど魔物の多くが毒持ちであることなど常識で、そういう意味ではデュカキスの触手は食べられる側に属する。猛毒といってもそれは血液にのみ存在し、かつ毒は熱によって分解されて無害化する。要は焼けばいいのだ。

 さらに言えば、デュカキスが持っている毒は、ここらでよく見かける薬草によって容易に解毒できる。それゆえ周辺に生息する魔物たちが薬草と一緒に食すため、デュカキスはここらの食物連鎖の最下層に位置する魔物でもある。皮膚から体内を侵して数分で人を死に至らしめる猛毒とはいえ、もし触れてしまってもこの暗い場所のどこかで茂っている薬草を焚いて煙を吸えば解決する程度の毒であるため、私もディアンを殺すつもりはなかった。ちなみに、薬草を食べるのではなく焚くのは、そのほうが薬効成分が圧倒的に早く体内に入るためである。魔物ほど肉体が丈夫ではない人類は、デュカキスの毒に侵されてから薬草を食べているような時間的余裕はない。


 どうやらディアンはそんなデュカキスの血が付いたナイフで攻撃されたことに危機感を覚えて血の気を引いた顔をしていたらしかった。私の突きには何の危機感も抱いていなかったということを意味しているようで、私は少しだけ腹が立った。


 まあ、本当に殺すつもりはなかったのだ。ディアンの腕であれば暗闇の中ですぐに薬草を見つけ出すのだって容易だろうし、そもそもデュカキスの猛毒がどれだけディアンに効果があるかも定かではないのだ。

 多分、私もデュカキスの毒を食らっても一日くらいは生きていけそうな気がする。戦闘中にどうしても毒を浴びてしまうことがある以上、毒に対する耐性を獲得するのは重要なことで、アヴァンギャルドに新米として入った初日に、私もまた死ぬほど血抜きしてない生のデュカキスを食べさせられ、解毒することを繰り返したから。


 もうもうと焚かれる薬草のにおいを思い出して、私はひどく気分が悪くなった。


「ちょっと、さっさと進めなさいよ。わたくしはおなかが減ったのよ」


 もう一度血濡れの包丁をディアンに向かって突き出そうとした私を制したのは、遠くに響くような高音の苛立った声だった。

 貴族関係でいざこざがあって正体がばれたという呪術師のマリアンヌが、険しい表情で私をにらんでいた。吊り上がった目と、この場において不釣り合いな真っ赤な唇。美に貪欲な彼女は人類生存圏外であるこの場所において、独自の調合法を編み出して口紅やファンデーション、アイシャドウなどを開発して、アヴァンギャルドの美の先達となっていた。

 周囲の女に比べて自分は美しくあらねばならないと豪語する彼女は、他の女性に化粧品を渡すことはない。そして、化粧品の作成に適した魔物の姿があると鬼気迫った様子で襲い掛かる。私からするとやっぱりおかしな人物だった。


 そんな彼女は、爪にマニキュアらしき樹脂を塗りながら釣り目に怒気を宿して私をにらんでいた。今日の食事担当は私とキャンプファイヤーにいそしんでいる男であった。あの男に料理を任せれば確実に腹を壊す。そんなわけで私は一人でデュカキスの触手をさばいていたのだが、その手が止まっていたことがマリアンヌは気に食わなかったらしい。


 マリアンヌの不興を買って呪術を放たれてはたまったものではないので、私は小さくため息をついてさっさと触手をさばくことにした。相手の存在そのものに干渉する呪術の使い手である魔女のマリアンヌは、特に相手の脂肪を燃料に肉体を発火させる呪術を好む。

 そんなものを防ぐイメージは、私にはできなかった。


 ちなみに、解体において当然のごとく私の体はデュカキスの猛毒に侵されたが、あらかじめ用意してあった薬草を焚いて事なきを得た。心臓が嫌な高鳴りを見せたり瞳孔が開いたり視界が揺れたりすることも特になく、奇しくも私の毒への耐性の高さが示されることとなった。毒を皮膚に浴びてから間違いなく数分は経っていただろうが、毒が私を殺すことはなかった。まあ、死んでも生き返るのだけれど。


 私ももう、立派な化け物の一人だった。


 体表の皮を剥いだデュカキスの触手の串焼きに、野草と干し肉のスープ、骨粉と穀物のパンが今日の食事のメニューだった。正直、普段の料理担当に比べれば本当にまっとうな食事に見えた。

 ひどいときは少々炭化した魔物の丸焼きを全員分だと出されたり――呪術で焼き殺した魔物をマリアンヌがそのまま食卓にあげた――、アベルが手でつぶして捏ねた骨交じりの生焼け肉団子だったりした。ちなみに、骨を殴りながらひき肉にする際の痛みが快感なのだと語るアベルの言葉を聞いて、半数以上の者の食欲が消滅した。逆に言えば、半数近くがアベルの変態性に何の問題性も見出さない奇人変人の類だということだった。


 がははは、とまるで夜盗の類のごときマナーもへったくれもない声をあげながら肉にかぶりつき、焚火の周りを踊り狂う者をはやし立てる者たちを見る。

 そして、私も今日の夕食に口をつけた。

 この時間が、たぶん一番生きていると実感できる時だった。どれほど不味い食事だろうと、腹が満たされていくこの感覚は、私が今も世界にいることを感じさせてくれる。あるいは、この生に意味があると思わせてくれる。


 もちろん痛みだって、確かに私に生を突き付ける。けれどそれは呪いのようなもので、私の心を恐怖のどん底へと落とすものだった。痛みは、絶望の証だ。私の場合は他の者が感じる死の予感による絶望ではなく、死にたどり着けないことに対する絶望だが。

 私が魔女として手にした呪いは、私を死なせない。記憶を取りこぼしながらも私の時間を巻き戻す悪魔じみた呪いに、私は強制的に生かされている。死を経験した回数は、とっくに両手で数えきれない。時間を巻き戻す中で生じる記憶の喪失、その対象はランダムらしく、新旧問わず、そして量にかかわらず、奇跡という呪いは私から記憶を奪っていく。

 だから、私の記憶はまるで虫食いだらけの衣装棚の中の洋服のようになっていた。あちこちが欠けていて、あるいは欠けを認識できないことすらあるという意味では洋服の穴よりも最悪だった。まあ、虫干しせずに穴だらけになった冬着を見たときの絶望も相当なものだったけれど。


 嫌な記憶も、大切な記憶も、すべて等しく虫食い状態になっていく。それでも新たに積みあがっていく私の記憶が、私の生が、私の中にはあって。

 まだ確実に失われていない一週間ほどの記憶を抱きながら、私は空を見上げて息を吐いた。

 立ち上る煙の先にあるのは、木々の枝葉。覆い隠された空は、その姿を見せていない。


 なぜだか無性に木の上に行きたくなった。焚火から離れて、枝葉の先が見える場所に登れば、きっと空は私の目に満点の星の海を映し出すだろうと思った。

 それはたぶん、私の心に生きることの喜びを、美しい世界に私が存在することへの意義を見出させるものだ。


 触手串を口にくわえて、立ち上がる。多くの貴族を魅了した傾国の美女であるハイドランジアの踊りに男性陣が歓声を上げていた。

 その集団を背に、私は森の奥へと進んだ。

 一歩進めば、まるで別の世界に足を踏み込んだように、仲間の声は小さくなった。

 音を吸収する森の木々がなす、道なき道を進んでいく。行く手を遮る枝を切り落せば、小さな羽虫が舞い上がった。闇に等しい世界の中で光を放っているわけでもない小さな虫を認識できることが、私が人類という枠組みから足を踏み外しつつあることを突き付ける。あるいは、アヴァンギャルドという集団に完全に染まりつつある、と表現するべきだろうか。


 さくり、さくりと、腐葉土の海を進む。湿った土のにおいがむわりと立ち上った。梢が鳴る音が、さざ波のように響く。

 海は危険なため行ったことも見たこともなかったけれど、伝え聞く海の潮騒もこんな音をしているのではないかと思った。故郷のことを思い出した。海に近い、小さな村。

 若くして死んでしまった両親の墓があり、私が守り育てた弟が今も、愛する妻と暮らしているであろう故郷。そこはもう、はるか遠い世界だった。私はそこに、帰れない。私の居場所は、そこにはない。


 私は、アヴァンギャルドという組織で、人類の生存圏から外れた魔の世界でしか生きていけない。


 大人三人が手をつないで取り囲んでもなお足りないほどの太い幹を持つ巨木が、私の前に立ちはだかった。魔物の戦いの跡か、えぐれてくぼんだ部分を足場に、私はひょいひょいと幹を上った。分厚い皮に手をかける。木の肌はひどく冷たかった。この木は死んでしまっているのではないかと思えて、けれど、見上げる先には空を覆い隠す枝と、たくさんの葉があった。月光を透かした葉は、命の輝きを思わせる緑色を見せる。


 急に人肌のぬくもりが感じたくなった。葉をすかす光から、日中の柔らかな木漏れ日を想像したからだろうか。

 昔、弟と一緒に木陰で寄り添って昼寝をした記憶が脳裏をよぎった。

 空の星々と、人の体温。両者を天秤にかける。当然、天秤は前者に傾いた。私が温もりを感じたいと思う存在は、この場にはいない。


 思考を続けながらも、私の体は無意識のうちにひょいひょいと木を登っていた。多分、私は以前にもこうして木に登ったことがあるのではないだろうか。星を見たいと唐突に思ったことも、仲間たちの喧騒から離れて危険な森に一人で踏み入ってでも星を見たいという強い衝動にあらがわなかったことも、そして慣れた動きで木に登れたことも、それを意味しているように思えてならなかった。


 ひょっとしたらこの巨木に登るのも、初めてではないのかもしれない。


 木の幹にできていた足場のような削れた跡。それが、私が何度もこの木を登った証明ではないだろうかと考えた。そして、なぜだか不思議と嬉しくなった。もしその思索が正しいとすれば、それは私がとてつもない量の記憶を忘れていることにほかならなくて。けれど、私は自分の足跡が少しでも世界に刻まれているということが、私の行動の結果が悠久の時を生きた大樹に刻まれているかもしれないということが、とても嬉しかった。

 私の歩みは、無駄じゃないと、少しだけそう思えた。


 高い枝にひょいと体を持ち上げた。まるで私の腰にフィットしたように曲がった枝に腰を落ち着ける。視線の先に、周囲の木々のてっぺんが見えた。相当の巨木であったらしい木の枝の上から、私はどこまでも広がる闇色の森を見つめた。

 強い風が吹き抜ける。私のくすんだ、長い茶髪が風に乗ってぱたぱたと舞う。手で髪を抑えながら、私は逸る心のままに空を見上げた。


 息をのんだ。


 まばゆいほどの星の海が、そこにあった。白と、わずかに青みを帯びた光や、赤橙色の星の輝きが、そこには広がっていた。世界を横断する川のように、光の集まりが帯を作っていた。

 雲一つない空を風が吹き抜ける。世界は、とてつもなく広かった。


 手を伸ばす。握る。

 当然のごとく、私の手は星をつかむことは叶わなかった。

 けれど何度も、何度も、私は星をつかもうと手を動かし続けた。

 その動きは、先行きの見えない人生の先、そこにない何かを、それでも気が狂ったように求め続けることに似ていた。


 私の生には、未来はない。死ぬこともできず、記憶を取りこぼしながら私は戦いの中で生きていくしかない。生きて、生きて、死んで、時間を巻き戻して、記憶を失って、そしてそれでも生きていく。

 むなしかった。無駄でしかないと思った。ちっぽけな一人の人間でしかない私に、どうしてこんな呪いが授けられてしまったのか、私は神を呪った。私がこんな理不尽な目にあっているのは、きっと人間のことなんて少しも気遣うことのない超常的な存在、それこそ神なんて呼ばれるものがいるからではないだろうか。


 私に害をもたらす神なんて消えてしまえ。


 呪えば、ひょっとしたら神様は私を憐れんで魔女という身から解放してくれるのではないかと、肉体の時間を巻き戻すというおぞましい奇跡を失わせてくれるのではないかと――かつては、思っていた。

 今はもう、神なんてどうでもよかった。ただ虚無感ばかりが、私の身を染めていた。


 視線の先、握ったこぶしをゆっくりと開いていく。そこには、星の輝きなんてなくて。傷だらけの、私が確かに生きてきた一週間の足跡が、そこにあった。

 できるだけ、長く生きていたい。

 この手が擦り切れるんじゃないかというくらい長く生きて、そして、そして――私は、死ねるのだろうか?老衰なら死ねるのではないかと思ったこともある。けれど、この危険地帯で生き延びて、老いで死ぬというのは現実的じゃなかった。たとえ長く生き延びたとしても、体が弱った状況であっけなく魔物に殺されて若返ってしまうのではないかと思った。


 その時の絶望を思ったせいか、私の体はぶるりと強く震えた。

 吹き抜ける風が、不気味にとどろいた。ゴオゥ、ザザザァ――木枯らしのように強い風が、数枚の葉っぱをくるくると回しながら、私の前を通り過ぎて行った。

 長きを生き抜いて、死んで、若返って。そこにはもう、私の知っている人たちはたぶんいない。そんな世界でも、私はやっぱり戦い続けるのだろうか?


 間違いなく、私が手にしてしまったこの力は呪いだった。


 呪い――そう、私は呪われたのだ。


 はるか遠く、闇の中でなお一層黒々とした、星の光を遮るなだらかな山並み。その輪郭の奥にあるやや白んだ、人工の光に満ちた世界。それをにらむように、私は目を細くした。

 人の世界。私が、足を踏み外した世界。


 視界に、弟の絶望の顔が映った気がした。

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