19道中
少し間があいてすみません。
不定期更新で進みます。
じりじりと照り付ける太陽から隠れるように、私たちは木陰で足を止めた。
「……遠すぎるわよッ」
ドン、と幹を強く叩き、マリアンヌは体を反転させて木にもたれる。そのままずるずると座り込み、吊り上がった眦で私を睨んだ。
私を睨まれても困る。故郷までの道のりがこれほど長いなんて予想もしていなかったし、一か月以上に渡る旅程は、どうしても化粧の材料を採取したいというマリアンヌの駄々のためでもあった。
道中聞いた話だが、キルハとアベルはこれくらいの時間がかかると予測していたらしい。あまり広くない人類の生存圏とはいえ、街によることなく食事の確保などを道中で必要とし、さらには人目を避けて踏み均された道を避けて進む以上、その歩みが遅くなるのは当然のことだった。
世間知らずにもほどがある私としてはそんなものかと思ったが、一か月というのは馬車での旅を知るマリアンヌにとって驚くほど長い道のりだったらしい。
「とはいえもうすぐだよ。早ければ今日中に着けるんじゃないかな」
「本当ね?絶対よ?確かにこの耳で聞いたわよ」
光のない目をキルハに向けて、マリアンヌは淡々と繰り返した。キルハは、視線を彷徨わせ、ううん、だとか、いやでもなぁ、ともごもごと口を動かしていた。
「……まあ、うん。暗くなってからも歩けば確実に今日到着できると思うよ」
「夜に入れるわけ?……というか、村についても宿を借りることもできないんじゃ意味ないわよ」
そう、村に私の顔を知っている者がいる以上、私は大手を振って村に帰還することはできない。王国がどこまで本気でアヴァンギャルドの生き残りを探しているのかは知らないが、道中旅人たちのうわさを小耳にはさんだところ、凶悪な魔女が脱走した可能性がある――といった程度のうわさが市井に流れているようだった。それはたぶん、王国がアヴァンギャルドの生き残りの存在を察知したということで。私たちに追手がかかっている可能性は十分にあった。
そんなわけで、例え村に着こうとも宿に泊まることはできない。少なくともあと数日は野宿だという事実を思い出して、マリアンヌは旅の終着点が目前に迫った喜びから絶望に叩き落されていた。
無言で汗をぬぐいながら、アベルが木の上で遠くを見る。この中で最も目がいいアベルは、道中の警戒を進んで行ってくれていた。その代わりに夜の見張りは私とキルハとマリアンヌの三人で交代して行っている。
魔物がほとんど存在しない平和な世界とはいえ、ここは心の中に悪意を潜ませた人間の社会。盗賊に襲われたり王国の追跡者に攻撃されたりするような身の危険がある以上、夜の警戒は必須だった。正直、少し前まで森で寝ていた私たちは、その気になれば寝ながら警戒をすることもできる。とはいえアヴァンギャルドから解放された気のゆるみのせいかどうにも眠りが深くなることが多く、議論の末夜番の導入を決定した。慣れない夜の見張りというのも、私たちの進む速度が遅くなった原因の一つだった。
がさがさと、十メートルほど先にある茂みが小さく音を立てた。小動物の気配。考えるよりも早く、キルハがポケットから石を取り出し、投擲した。
きゃうん、と悲鳴が響く。茂みに向かったキルハは、一匹の茶色いウサギを捕まえて帰還した。
「今日はウサギだね」
「でも足りないでしょう?どうせ明るいうちに着けないのなら、早めに進むのをやめて採取に向かわない?」
この季節にどんな自然の恵みがあるかわからないけれど、それなりに果実なり野草なりが森には存在すると思われた。村に近いということならば、懐かしい森の恵みにであえるかもしれない。辺境という言葉にふさわしいへき地までみんなを歩かせることになってしまったという申し訳なさを感じながら、少しでも貢献しようと私はそんな提案をした。
そして真っ先にマリアンヌが話に乗って来た。アベルとキルハも否やはないようで、私たちはそれから数時間道なき道を進んで、それからたどり着いた森の奥へと分け入った。
「……なによ、それ」
太陽が沈み始めた頃。森の外で合流した私を見て、マリアンヌは嫌そうに顔を歪めながらそう告げた。怯えたように震える視線は、一直線に私の腕の中へと向けられていた。
初見の者が見れば、確かに少々怖いかもしれないそれは、人の生首のような外見に見えないこともなかった。
「マンドラゴラだけど?」
「嘘よ、マンドラゴラっていうのはもっとこう、カブとか人参のような、普通の根菜の見た目をしているわよ」
「これも根菜でしょ?」
「その葉っぱがすごく気持ち悪いのよ!」
叩きつけるように告げたマリアンヌの言葉を受けて、私は丸々と太った、両腕で抱えるサイズのマンドラゴラへと視線を下げた。そこには、細く長い暗緑色の葉っぱが生えていた。根の先に鬱蒼と生える葉はたくさんの水を含んでいるせいかつやつやしていて、もさりと広がるその葉のせいで、マンドラゴラはまるで海から浮かび上がる幽霊のようだった。
「何だ……っておお、水死体か。珍しいな」
「は?水死体……ってまさかこれのこと⁉」
ひょっこりと姿を現したアベルが、私の腕の中のマンドラゴラを見ながらそう告げた。ヒステリックなマリアンヌの言葉を受けて、アベルは彼の故郷では水死体と呼ばれていたというマンドラゴラの味や調理法などを話し始めた。その内容は私の知る情報と一致するもので、このマンドラゴラが私の村付近でのみ育っている食べものではないというのが分かった。なんというか、不思議な感覚だった。私の知らない場所にも世界は広がっていて、そこではやっぱり私と同じような物を食べる人が住んでいる。
私の中の世界が少しだけ広がった。村と魔物の領域と魔女を排除する者たちの社会の断片しか知らなかった私の中に、少しずつ人間社会が創り上げられていく。その知識は、私の中から零れ落ちることなく残るのだろうか?
「お、白化粧か。そういえばもうそんな時期だったね」
ウリボウを担いで帰って来たキルハは、私が調理を始めようとしていたマンドラゴラを見て、アベルとも違う表現で呼んで見せた。そんなものに化粧なんて言葉を使わないで――マリアンヌが髪を振り乱しながら叫んだ。
なんだかおかしくて、私は声を上げて笑った。
そんな私を見て、キルハがゆるりと笑みこぼした。
「どうしたの?」
「いや、ロクサナが久しぶりに笑ったなと思って」
一拍、二拍。言葉の意味を理解して、私は顔が火照るのを感じた。無性に恥ずかしかった。私はどんな顔で笑っていただろうか。おかしな顔はしていなかっただろうか。そもそも、まじまじと笑顔を観察されるというのはひどくこそばゆい感じがする。
恥ずかしくて、視線をそらしたくて。けれど慈しむような光を帯びたキルハの目を見ていたくて、私は包丁代わりのナイフを握ったまま、ぼんやりとキルハを眺め続けた。
「……あの二人ってそういう関係?」
「さあ?まあ仲がいいのはいいことだろ」
マリアンヌとアベルの声は、私の頭に入って来ることはなかった。
ただ茹でダコのように熱を帯びた頭で必死に落ち着けと心の中で叫びながら、私はゆるりと首を振って調理に戻った。
ぎゅえ――葉っぱを切り落とされたマンドラゴラ、あるいは白化粧がおかしな悲鳴を上げた。
その声が可笑しくて、今度はキルハと一緒に、顔を見合わせて笑った。
すごく、心が温かかった。生きていると、私は今ここで生きているんだと、そう思った。
こんな時間が、いつまでも続いていけばいいと思った。
アヴァンギャルドから解放された私たちは、もう戦わなくていい。だから、こうして幸せな平穏を享受してもいいのではないかと、そう思った。
――でも、多分そんな日は訪れない気がする。
私の体には、骨の髄まで戦いが染みついている。心も体も、戦闘を忘れない。忘れられない。そして、私たちが置かれる状況が、戦いを忘れさせてくれない。多分一生、私は戦いを忘れて生きることはできないと思った。まるで呪いのようだった。
呪い。私を生かし続ける、狂気の魔法。この力があってよかったと、そう思う日が来るのだろうか?
なんとなく、キルハの言葉を思い出した。王国が武力で人々の心まで支配してしまわないように、対抗戦力として魔具を作る――そんな覚悟の宿った言葉が、キルハの真剣な顔と共に脳裏をよぎった。現に王国は、犯罪者認定された私たちアヴァンギャルド相手にとはいえ魔具を持ちだし、森を焼いた。あの攻撃が人相手に向かう可能性を、きっとキルハは考えたはずだ。
多分、キルハはすぐにでも王国に対抗できる魔具を開発したいのではないかと思う。傷つけるための道具ではなく、守るための道具ではなく。
キルハはきっと、魔具を開発したことを激しく後悔しただろう。キルハが作り出した魔具が多くの人を殺す兵器として利用され、その果てにキルハはアヴァンギャルドに入れられて苦しい日々を送ることになった。けれど開発の四苦八苦も、人間相手の兵器として魔具が利用された絶望も、製法を盗み出した者に対する怒りも、全てを上回って。
魔具を作って良かったと、キルハが心から思える日が来ればいいなと思う。例えば、魔具を開発したからこそ私と出会うことができたということを、心から喜んでくれれば――私は一体何を考えているのだろう。
心に、温かな思いが満ちていた。暗闇の中、焚火を取り囲んで行う食事。そこにはアベルやマリアンヌ、キルハがいた。私は、一人ではなかった。
たわいもない話で盛り上がって、楽しくて、幸せで、涙すらにじんだ。
誰もが、先行き不透明な未来を憂うことなく、今を楽しんでいた。私たちが心の中で諦めていた平穏な時間がそこにあった。
「これ美味しいわね?」
「でしょ。流石は化粧をしたマンドラゴラ」
イノシシ肉で包んだ、でっぷり太ったマンドラゴラ。それを幸せそうに食べていたマリアンヌの動きが止まり、顔が青ざめた。
今にも吐き出してしまいそうな中、マリアンヌは顔を真っ赤にしながら味わっていたマンドラゴラを喉の奥に押し込み、目元を指でぬぐってから私を睨んだ。
「なんてものを食べさせてくれるのよ⁉」
「美味しかったでしょう?」
「……美味しかったけれどッ、それとこれとは話が違うのよッ」
息を荒らげるマリアンヌを見て、私たち三人は顔を見合わせ、首をかしげる。一体何が不満なのか、いまいちよくわからなかった。美味しければそれでいい――自らの外見に関する美的意識すら忘れ去って久しい私たちには、食べ物の、しかも調理前の素材の見た目を気にするような価値観は残っていなかった。最も、そう考えるくらいの思考能力は私にはあって、それでも美味しければいいだろうと、私は思った。
「苦手なら別の料理を食っておけ」
そういいながら、アベルがひょいとマリアンヌの手の中に残っていたマンドラゴラの肉巻きを奪い取り、食べかけのそれを自分の口の中へと放り込んだ。あ、と声を上げたマリアンヌは、マンドラゴラの消えていったアベルの口を見て、それから自分の手元へと視線をおろし、ぷるぷると体を震わせた。
泣いているように見えたからか、アベルがやや慌てた様子でマリアンヌを宥める。肩を震わせるマリアンヌは、しばらくうつむいてからガバリと顔を上げ、アベルの胸倉をつかんだ。
「わたくしの食べかけをよくも奪ってくれたわね⁉」
その目じりに涙が光る――ことはなく、けれど怒りを思わせる赤い顔でマリアンヌは叫んだ。
「なんだ、やっぱり美味かったのか。ほら、俺の余りでよければやるぞ?」
「ッ、そうじゃないのよ。わたくしが口をつけていた料理を奪うなんて恥ずかしい……というかはしたないでしょうが」
「栄養を無駄にしないための戦士のスキルの一つだろ。……誰かが食べられない物を食べることができる者のほうが生き残る確率が増すんだ。だからお前もなるべく好き嫌いはするなよ?」
やっぱり嫌いなのか――そんなことを考えていそうな顔で、アベルはマリアンヌへと突き出していたマンドラゴラを手元に引き寄せる。
私は、なんとなくマリアンヌが言いたいことが分かった気がした。つまり、間接キスをしてしまったことになり、マリアンヌはそのことに赤面したのだろう。マリアンヌが口をつけたマンドラゴラをアベルが食べた。マンドラゴラという植物を介して間接的にすることとなったキスに反応をするとは、なんというかマリアンヌはその見た目に反してとても初心だ。吊り上がった眦や勝気な言動からは想像もつかない乙女な姿を見て、私とキルハは顔を見合わせて笑った。
何よ、とマリアンヌが私たちにかみつく。
そんな狂犬じみたふるまいをする彼女を宥めながら、マリアンヌはアベルのことが好きなのだろうかと考え、首を振る。
他人の恋愛に割く思考のキャパシティは、今の私には存在しなかった。
私は、キルハをどう思っていて、キルハとどうなりたいのだろう。
私が横顔を盗み見ていることに気づいたキルハは、どうしたのかと視線を問う。何でもないと首を振って、私は手に持っていたイノシシ肉にかぶりついた。
キルハと、一緒になって。二人で生きていく――それは、考えるだけで私の心をあふれんばかりの幸福に包み込む未来のように思えた。




