18生還と逃亡先
私たちは炎から、王国の攻撃から逃げるために無我夢中で走り、走り、走り、そして、夜が明けた。
「…………生きてる?」
「だね」
「おう。生きてるな」
煙を吸ったせいか、あるいは水不足か。三人とも、ひどくしゃがれた声で互いの生を分かち合った。
私たちは、生きていた。全身は重りを括り付けられたように重く、大地に投げ出した体はもう指一本動かせそうになかった。
仰向けに転がったまま、ぼんやりと空を見つめていた。視界には、真っ青な空と、まばゆい太陽の姿があった。木々の枝葉は、そこにはなくて、私たちの空を奪っていた緑の天蓋から、私たちは解放されていた。
空の青が目に染みた。自由の、解放の青。視界一面に広がる青に点在する雲が、涙でにじんだ。
これからどうするか、何かやりたいことはあるのか、一緒に行動をするのか、王国は私たちの生存に気づくだろうか――話すべきは山のようにあって。けれど口を動かすことさえおっくうで、私はゆっくりと目を閉じた。
風が歌っていた。吹き抜けるそよ風は、柔らかな緑の匂いと、わずかな砂っぽい空気を運んでいた。むせ返るような森の匂いの詰まった魔物の森の風とはまるで違う風は、私にこびりついたすべてのものを吹き飛ばしていってくれるように思えた。
アヴァンギャルドでこびりついた血の匂いも、いつ魔物に襲われるかわからない恐怖も、蓄積した疲労も、すべて。
チチチと、鳥の鳴き声が響いた。虫の合唱が聞こえた。そこに、魔物の遠吠えが混じることはない。
こうして体を投げ出して転がっていても、命の危機を感じることもない、平穏な世界。
その時間を、私たちは目一杯享受した。
マリアンヌが、目を覚まして。それからようやく、私たちは互いの情報の共有を始めた。と言っても、その大部分はキルハからもたらされたものだったけれど。
ディアンの裏切り。私は知っていたとはいえ、口の中にひどく苦い味が広がった。信用、していたのだと思う。いつだって軽い空気で緊張を吹き飛ばしてくれていたディアンが最後に見せた、儚い笑みを思い出した。ディアンは、この戦いのどこからどこまでを、どのような手段で知りえたのだろうか。
最後、私たちを逃がしてくれたあの行動は、明らかに事前に情報を知っているもののそれだった。
ほら見たことか、とか。やっぱり変態は信用ならないのよ、とか。
そんなことを言うかと予想していたけれど、マリアンヌは一言も言葉を発することなく、ただじっと地面を睨んでいた。
強く引き結ばれた唇は、砂埃のせいでくすんでしまっていた。彼女の誇りである美貌も、砂と黒煙と血と傷と汗のせいで残念なことになっていた。とはいえ、美の権化であるマリアンヌも、流石に疲労が祟っているのか、化粧を直すことはなかった。
あるいは、手元に化粧道具がなく、水すらない状況ではどうしようもないと考えてのことだったのかもしれない。
それから、キルハはさらに王国が最後の一手として導入してきた灼熱の炎について語った。キルハは、森を焼いたあの攻撃が、魔法や呪術ではなく、魔具によってもたらされたものである可能性が高いと語った。理由は、業火に込められた魔力が、人間には考えられない量であったから。複数人が協力して一つの魔法を行使できるという話は寡聞にして知らず、少なくとも現在の魔法という神秘の解明状況では、あの規模の魔法を放つことができる者は人間には存在しないだろうというのがキルハの考えだった。
何か言いたげに口を開いたマリアンヌは、結局何も言わなかった。それに気づいたのか気づかなかったのか、キルハは静かに話を続けた。多分、気づいていなかった。
静かに、凪いだような声で、キルハは淡々と魔具のことを語ったのだ。その声が、けれど何とか取り繕ったものであると、私はもちろんアベルやマリアンヌも気づいていた。
魔具を王国が使っていたという情報に、キルハが平静でいられるはずがない。
けれど、誰もそのことに触れぬまま、キルハは王国が見せたあの業火についての見解を述べた。
真っ先に考えられるのは、使役された魔物による魔法。けれどそれも、魔法自体に一切殺意がなかったことから、キルハは否定して見せた。魔力感知能力が皆無に等しい私は気づかなかったが、あの炎に込められていた魔力には、通常の魔力にわずかに存在する発動者の意識、あるいは感情の類が一切みとめられなかったという。そんな状況が出現しうるのは、発動者の思考を必要としない、道具である魔具によってあの炎が生み出された場合のみ。
それは、王国がキルハの魔具研究をさらに発展させ、恐るべき兵器を創り上げたという可能性を意味していた。ただ、わからないことが一つ。
「でも、魔具を作るのは困難だって話だったよね。セイントリリーは魔物の領域でしか取れないから、魔具は量産できないって。だとすれば、王国はどうやって魔具を作ったの?」
「わからないね。僕の製法とは異なる、より安価かつ容易な生産方法を編み出したのかな。あの魔具には実はそれほど材料が必要ないとか……」
キルハが以前言っていたのは、魔具の大量生産が困難であるということ。魔具のレシピさえ知っていれば、魔物の領域を切り開こうとしている王国は、魔物領域の奥に咲いている材料を採取し、少量であれば魔具を作ることができるだろう。最も、あのレベルの現象を引き起こす魔具を作るためにはかなり多くの材料が必要だと、キルハはそう考えているようだった。
発現する現象の規模が大きいほどに大量の魔力が必要となる――それは魔女にとって当たり前の事実で。そのことから考えると、あの灼熱の火球を生み出すために使われた魔力は膨大で、かつその魔力を溜めておけるサイズの魔具の存在が必須であると思われた。その作成には当然、大量の素材を必要とする。
結局、どれだけ考えても王国があれほどの魔具を作ることができた理由はわからなくて。
私たちは進まない議論を棚上げして、今後の話をすることにした。
すなわち、どこへ行って何をするかだ。
現状、王国が私たちが生きていると知っているかどうかもわからない以上、万が一再び王国に狙われた時に対抗できるだけの戦力を得るためには、四人でまとまって行動することが最適だった。一方、ディアンの裏切りという前例が、本当に他の三人と一緒に行動して大丈夫なのかという疑念を私たちの中に産んでいた。三人もまた、ディアンのように裏切るかもしれない。そう思えば、すぐにでも別れて行方をくらませるのが最適なようにも思えた。それぞれにやりたいことがあるのであれば、なおさら別行動することに決まっただろう。
けれど私は、別れたくはなかった。少なくとももうちょっとだけ、キルハとともにいたかった。キルハになら、裏切られてもいいと思った。だからといって、アベルとマリアンヌを信用するかといえばまた違う話で。
けれどキルハと一緒に行きたいと言えはしなかった。
このまま集団行動を続けるか、別れて行動するか。議論の口火を切ったのはマリアンヌだった。
「わたくしは一緒に行動するのに一票よ。何せわたくしは後衛の呪術師で、前衛の騎士なんかを一人で相手をするのは不可能だもの。自分の身を守ることを考えると、裏切りよりも王国の襲撃のほうが私の中で危険度が高いわね」
「俺はどちらでも構わないぞ。特にしたいことがあるというわけでもないし、しばらくはのんびりできればそれでいいさ」
「僕は……そうだね。魔具の研究ができればそれでいいかな。裏切りなんて気にし始めたらきりがないし、そもそも裏切られても自分の身を守れるくらいに準備しておけばいいだけだしね」
前向きなんだか後ろ向きなんだかわからないことを言いながら、キルハがちらりと私を見る。その視線には、何か深い意味が込められているような気もした。
私の気のせいかも知れなかったけれど。
「私は……もうしばらく、一緒に行動しようと思う。したいことはあるけれど、特に急ぐというわけでもないから」
キルハと、まだ一緒に行動できる。そう確信しただけで心臓は張り裂けそうに早く動き、顔に血が上りそうだった。
深呼吸を一つして、私は努めて平静を装って答えた。
もうしばらくだけ一緒に行動することに決めて、けれどそれからが長かった。特に目的もない状況で、さらには敵の出方もわからない。そんな中で行き先を決めるというのはひどく困難だった。
「ひとまず、街に紛れるべきじゃないかしら。国も、街中で一般人を巻き込みながらわたくしたちを襲うことはないんじゃないの?」
「そうだね。だとすると、まずはどこかの街に行こうか……どこに行く?」
「近場でいいでしょ。とりあえず、屋根のある場所で休みたいのよ」
「俺は遠くに行くべきだと思うけどな。できれば、アヴァンギャルドの話が一切伝わっていないような場所だ。その方が、国に俺たちのことがばれにくいと思うぞ」
今度はマリアンヌとアベルが意見をぶつけ、話は平行線が続けた。休みたいというのは確かだったけれど、私もまた魔物の領域に近い辺境の街に入るということ自体に、やや不安を覚えていた。街には私たちの情報が多少なりとも伝わっているかもしれないし、こんな国の端にまで旅をしてくる四人組は不審に見られるのではないかと思った。
そこまで考えて、はたと気づいた。私は、故郷以外の街をまっとうに訪ねたことがなかった。故郷を出ることもなく育ち、魔女になってからは移送される形で街に入り、そのまますぐに魔物の領域へと運ばれた。まともな経験がない以上、私たちがどう見られるか、不審者だと判断されるか否か、私には予測できなかった。
最も、全身あちこちに傷を負い、くたびれて埃っぽい服を着ている私たちは、どこへ行っても間違いなく一般人とは程遠い存在だと認識されると思うけれど。
無知な私には何も言えず、ただうつむいていることしかできなくて。
「それじゃあ、ロクサナの故郷にでも行ってみる?」
「……え?」
思わず声が漏れた。慌てて顔を上げると、キルハが少しいたずらっぽい笑みを浮かべながら私を見ていた。
「あんたの故郷……ってどこよ?」
「ええと……海の近く?」
「なんで疑問形なのよ」とぼやくマリアンヌの言葉を聞きながら、私は困り顔を浮かべるしかなかった。ただの村人に過ぎない私には、王国の地図なんて全く頭に入っていなくて、わかることといえば海の近くというくらい。私が馬車で運ばれた日数から考えて、かなり遠い場所なのだろうなというくらいの推測しかできなかった。
「大体の場所は僕がわかるよ。それで、どうする?確か弟さんの姿を見たいって話だったし、いつ何が起こるかわからない以上、せっかくの機会だし顔を見に行くのもありじゃないかと思うんだけど」
会いに行く、ではなく、顔を見に行く。私が魔女であることを知っている三人は、私が一方的に弟の顔を見に行くことしかできないとわかっていて、その発言に違和感を覚えることはないようだった。ただ、もし私が魔女だと知っている人に姿を見られたらどうするのか、という心配だけがあった。
けれど、たぶん大丈夫だろうと私は強く頷いて見せた。私が魔女になってから、もう五年以上の月日が経っている。よほど親しい者でない限り、私の顔をきちんと記憶している者はいないだろう。まあ、私が当時とほとんど変わらない容姿をしている以上、交友関係の深かった相手であれば一目で私と気づいてしまうだろうけれど。
そうして、私たちはこの場所からはるか東、三方の国境に森を有する王国が唯一海に面する東の土地へと向かうことになった。
そうして、ふと疑問を覚えた。私はキルハに弟のことを話しただろうか。記憶を探っても、弟に会いたいなんてことを誰かに話した覚えはなかった。多分、その記憶もまた私の中から失われてしまったのだろう。一体どんなタイミングで私はその話をキルハにしたのか。
なんとなく、満点の星空の下で話をしたような気がした。もうなくなってしまった、幹の所々が何度も踏まれてすり減ったように削れていたあの大樹。森を一望できる木の枝の上に並んで、私たちは、もしアヴァンギャルドから解放されたら、なんていう夢物語を語ったのではないだろうか。
それは、ひどく心惹かれる話だった。そしてもしそんな会話があったのだとしたら、そのすべてを忘れてしまっていることが申し訳なくて、そして忘れてしまっている自分が腹立たしかった。
もっと強ければ、死ななければ、私は大切なその時間のことを覚えていられただろうに――
けれど、かつて語ったかもしれない夢を、これから叶えていけるのだ。
アヴァンギャルドという楔から解き放たれた私たちの前には、どこまでも自由な世界が広がっていた。
前を歩くキルハの背中をぼんやりと眺める。多分キルハは、私が失ってしまった会話のことを教えてくれないだろう。まるで、自分の宝物を見せるのを渋るように。
自分と過ごした時間を忘れられてしまうというのは、どういう感じなのだろうか。許せないと思うのだろうか。忘れられてしまうのなら関わるだけ、私のことを覚えているだけ無駄とでも思うのだろうか。
けれど、キルハは私が失ってしまった私との会話をきちんと覚えてくれていて。それは、私のことを気にかけている証拠といえるのではないだろうか。
キルハの中で、私という存在の足跡が少しでも深く刻まれていますように――消えてしまった森の代わりに人の心の中に私という存在が生きていた確かな理由が刻まれていることを、私は静かに願った。
吹き抜ける風に揺れる髪を抑えながら、私はじっとキルハの背中を眺めながら歩き続けた。




